プロローグ その男、暖簾をくぐる
伝統的な格式高さと、高度な技術で作られるフランス料理。
様々な食材と火力を存分に用いた中華料理。
生スパイスをふんだんに使用したスパイシーな東南アジア料理。
この世界には、数える事も億劫になるほどの料理が存在する。
それは「食」という人間にとって欠かす事の出来ない一部分を、如何に美味しく楽しめるかという事を追求した過去の人々の足跡に他ならない。
我々の住む日本という国も、独自の食文化を大きく発展させた国の一つと言えるだろう。
芋煮や飛鳥鍋、さつま汁やおばんざいなどの郷土料理をはじめ、日本全国で食されるすき焼きや天婦羅に蕎麦などのポピュラーな物まで様々な料理が存在する。
そんな中、やはり日本を代表する料理として挙げなくてはならないのは『寿司』だろう。
寿司とは、すし酢を混ぜて甘酸っぱく味付けをした酢飯の上に、旬の魚を載せて握るというシンプルな料理だ。
しかしその奥は深く、最高の寿司を握るには長い年月を掛けた修行が必要になってくる。
鮮魚の見分け方から、仕込み方法。
シャリの握り方から、魚の捌き方に至るまで、必要な技術と知識は多岐に渡る。
今宵、一人のサラリーマンが最高の寿司を食べるために、寿司に人生を掛けた職人が構える店に足を運ぶ。
この男が寿司を食べながら感じた事は、我々人間の『食に対する思い』の本質なのかも知れない。
この話は、そのサラリーマンが久しぶりに定時に帰宅するところから始まる。
−−−−−−−
「お疲れさまです」
いつもより少しだけ早めに仕事を終えた森岡浩二は、経理部でまだ仕事中の面々に声をかけた。
「お、森岡君。そっちはもう終わりか? 早いな今日は」
「ええ。昨日かなりいいところまで進んだんで、部長が『みんな今日は定時であがるぞ』て仰られて」
「はあ、羨ましいな」
それでは失礼します、と経理部のため息を背にしてエレベーターに乗り込む浩二。
一階のロビーに着くと、ガラス張りの正面玄関から外で灯りだす電灯の明かりが見えた。
まだ完全に日は落ちていないらしく、向こうのビル群の隙間からは赤い空が覗いている。
こんなに早く上がれたのは久しぶりだな、と心の中でガッツポーズをした。
外に出ると、三月末だと言うのにかなり肌寒い風が肌を刺す。
最近は徐々に春の陽気が感じられるようになったで薄手のコートに変えたのだが、今日のような天気では再び厚手のコートを出さなければいけないな、と浩二は思った。
コートの襟元のボタンを閉めて、軽快に歩き出す。
今日の予定は特に決まっていない。
しかし、彼は予定の決まっていない日に、必ず寄る店がある。
その店に寄る事は、彼の自分自身への褒美なのだ。
今日も例に漏れず、浩二は例の店に足を向けるのだった。
始まりました!
新連載!