3
こちらの世界で暮らしはじめて、一ヶ月以上経った。ヴァンパイアの生活は、やはり今までとは全然違うものだ。
昼夜が逆転している事と、一日三回の食事は液体ばかりで、食べたという気がしない。そのため時間の感覚が掴みにくい。
この頃やっと、この時間の感覚が身に付いた感じだ。それまでは、時差ぼけのような状態で酷い目にあった。ちょっと痩せたかも。
と言う事で、基本的な時間感覚が掴めたので、今日からは家庭教師がやって来るらしい。
「学校は無いのか?」と父さんに聞いたら、僕が通う学校は、十五歳にならないと入れてもらえない。それまでの間は、家庭教師に基本的な事を教わって、親の手伝いをするのがこの世界のヴァンパイアの常識らしい。でも学校がある事が分かって良かった。同じ種族の友たちが出来る日が、とても楽しみだ。
僕は毎日、午後六時に起床し屋敷の周りをマットとジョギングをする。その後シャワーを浴びて身支度を整える。服は、向こうの世界とあまり変わらない。それについては、とてもホッとしている。
午後七時半。一回目の食事を摂る。食事と言っても果物と野菜スープとお茶くらいだ。こちらには、僕が見た事もない果物がたくさんあり、毎食とても楽しみにしている
食事は三回、だいたい親子三人で摂る。
父さんと母さんも、僕と同じメニューだ。
その他に両親はお互いに噛み付き合っている。それも首筋に。僕にはいちゃついているようにしか見えない。だって、噛み跡が付いたって喜んでいるんだ。こんなの見たくないから、僕が先に席を立とうとすると、父さんに止められてしまう。食後の挨拶は一緒にしようと言うのだ。
仕方ないから、僕は自分の食事が終ると新聞を読む事にしている。他国で発行されている新聞もある。僕は耳栓を手に入れたので、新聞に集中出来る。
僕は、あちらの世界へ行く前に、全ての文字を読み書きできたらしい。おかげで、この数日で、こちらの世界の事が少し分かったような気がする。
三人での食事が済む頃、マットも食事を終えて僕の部屋にやってくる。僕に血を提供するためだ。人型のマットからもらうのは、まだ少々抵抗はあるけれど、マットが喜んでくれるのは嬉しいので我慢している。そして、僕はマットに僕の力を少しあげる。
僕と同様この時間に、父さんはグスターから、母さんはクララから血の提供を受けている。
午後九時半。国内各地の報告を、フクロウが運んで来る。
フクロウは、屋敷の一番上の部屋に集められ、連絡事項が回収される。だから、その時間は窓を開けないようグスターには言われていたが、ついついたくさん飛び交うフクロウを見ようと、一度窓を開けた事がある。そしたら、フクロウ全てが僕の部屋に入って来てしまったのだ。一番上の部屋で待っていた担当者が、慌てて僕の部屋に駆けつけてくれたので事なきを得たが、気付いてもらえなかった時はどうなっていたのだろうと冷や汗が流れる。
そのフクロウからの連絡を父さんと僕が聞くのは、午後十時半。
その連絡を元に、父さんはそれぞれの返事を考える。僕も少しは手伝う。そしてそれらを、小さな用紙に書き、またフクロウに運ばせる。全羽が連絡を持って飛び立ち終わるのは、午前十二時頃になる。
その作業が終わってから、二回目の食事。この食事と三回目の食事には、人工血液が出される。狼から血の提供を受けないからだ。
その後、父さんには予定が入っている事が多い。例えば、夜会とか会合とか。僕はまだ連れて行ってもらえないから、父さんが帰って来たら話を聞く事にしている。
そして、今日からはこの空いている時間を使って家庭教師との勉強が始まるのだ。
授業には通常、王子とその狼も同席するらしい。狼は、勉強をするもしないもどちらでもいいそうだ。しかし、マットも、あちらの世界にずっと居たので、僕と一緒に勉強を一から受ける事になった。
午前三時。ドアノッカーの音が、屋敷の中に響いた。家庭教師がやって来たのだろう。しばらくして、僕の部屋のドアがノックされた。
「エリック様、先生がおみえです」
「はーい、どうぞ」
部屋に入って来たのは、茶の髪に紅い瞳、赤いシャツに緑のネクタイ、紫のスーツを着た男性。そのスーツは光を反射してキラキラと輝いていた。
僕は挨拶も出来ない程、驚いた。マットは、僕の後ろでクスクスと笑っている。父さんも派手だけど、ここまですごくない。
先生は、僕が固まっている事などお構いなしに、僕の前で片膝を着き右手を胸にあて頭を下げた。
「始めまして、エリック様。私は、ライアン・ブラック・スクールから派遣されて来ましたルーサー・カミンと申します。レオン家のご子息の担当になれた事は、カミン家にとっても末代まで語り継がれる程の名誉でございます。どうぞよろしくお願いします」
「あ、はい、こちらこそよろしくお願いします。カミン先生。こちらは、僕の狼、マットです。一緒によろしくお願いします」
マットは、笑を堪えながら挨拶をした。
先生の仰々しい挨拶に、戸惑いながらも僕はやっとそう答え、先生を椅子へと案内した。
派手なわりにはとても堅実な先生なのかもしれない。僕も授業を真面目に受けないといけないかな?
「それでは、始めましょうか。エリック様は、こちらに戻られたばかりとお聞きしましたので、初歩的な事から始めましょう」
「先生、その前に一つ質問してもいいですか?」
「どうぞ、質問はいつでも大歓迎です」
「先生は、なんとかスクールから派遣されて来たと言われましたね。それはどんな学校ですか?」
「ライアン・ブラック・スクールは、S階級とA階級のお子さんの教育機間です。」
「階級?」
「はい。この世界は、S階級・A階級・B階級の三層に分かれています」
「えっ!身分制度があるの?」
「エリック様が、今まで学ばれたあちらの世界でもあるのではないですか?」
「日本にはないよ。あったのはずっと昔の事。今でも身分制度がある国はいくつもあることはあるけど、国が違ったからあまり詳しく知らないし……。それに、僕は父さんが王様だなんてこちらに来てから知ったんだよ」
「そうなのですか。それは驚かれた事でしょう」
「おかげで、三日も寝込んだよ」
「それは、大変でしたね。では、そのあたりからお話をしていきましょうか」
「よろしくお願いします」
カミン先生は、鞄の中から黒い物を三冊出し、一冊を僕にもう一冊をマットに手渡した。それを開くとA四判の液晶画面が二つ付いた端末機だと分かった。その裏側には、僕の誕生日と名前が刻まれていた。
この端末機は、リオン王国だけの物でお誕生祝いとして国から贈られているらしい。
僕が住む、屋敷の奥には膨大な書籍が保管されている図書室がある。その図書室と繋がっていて、図書室の資料をいつでもどこでも閲覧出来るように開発されたものだ。
僕は、これで文字を覚えたり簡単なゲームをして遊んだ事もある事を思い出した。閲覧だけでなく、キーボードによる入力や手書き入力もちゃんと保存できる。
こんな機器があるのなら、フクロウを飛ばさないで通信をすれば良いのにと思ってしまう。新しい事はどんどん取り入れるが、古くからの慣わしは辞められない国なのかもしれない。
「では、百六十ページを開いてください。この世界は、三つの種族が暮らしています。ヴァンパイア、狼人間、それと人間です。それらの種族が平和に暮らすために三つの階級が作られました」
この世界は約七百五十万世帯の家族からなっている。そのうち、ヴァンパイアが三十六世帯。狼人間が百八十六世帯。あとは人間の世帯だ。これらが、六つの国に分かれて生活している。
国内のヴァンパイアと狼人間の世帯数はどこの国も同じだが、人間の世帯数はその国によって大きな偏りがあるらしい。
S階級は、古い歴史を持つヴァンパイアの家の事。この階級に連ねられた家は六世帯しかない。その六世帯がそれぞれの国を持ち、この世界を治めている。リオン家、グレシャム家、ドレイク家、イーデン家、クランマー家、チェンバレン家。この名前を持つ六人がヴァンパイアとして始めてこの世界に現れ統治していったらしい。外見からもすぐに分かる。この六世帯のヴァンパイアは皆、金色の髪に紅い瞳をしている。
先生の話では、この階級の中にも優劣があり、書かれている順番が非常に重要らしい。
僕の家は筆頭だよ。何だか嫌な予感がする。
A階級は、専門職を家業としている家が多い。例えば、医師、教師、弁護士、会計士、芸術家、企業家、それと銀行家もこれに該当する。この階級は、ヴァンパイアの家が二十四世帯、S階級に仕えるホワイト狼の家が六世帯。そして人間の家が数世帯含まれる。外見で判断すると、ヴァンパイアは髪の色は様々だが瞳が全て紅い。狼人間の男性は髪の色はホワイト、女性はダークブラウン、瞳は両者とも金色。人間はもちろん州別する事はできない。
B階級は、その他の労働者。もちろんこの階級が大半をしめている。この階級には、ヴァンパイアは一軒もない。狼人間と人間ばかりだ。彼らは、外見では判断が出来ないが瞳の色はS階級やA階級の色はないようだ。
「外見で判断できるのは、面白いね。毒キノコの警戒色みたいだね」
「エリック様は、面白い発想をしますね。本当にその通りです。一番力の弱い人間に、警戒を促しているのでしょうね」
「それにしても、ヴァンパイアの数が少なくて僕は良かったように思うよ」
「どうしてですか?」
「だって、ヴァンパイアばかりだと力の弱い人間が虐げられるだけになってしまうでしょ」
「そうかもしれませんね。でも、ヴァンパイアにとって人間はどうしても必要なのですよ。なぜか分かりますか?」
「えっと、僕たちは人間の母親からしか生れないから」
「そうですね」
「でも、他種族の子供を産むってその人間女性にとって命が危なくなる事はないの?」
「A階級のヴァンパイアには、それほどの力はありませんから、その子供を身ごもったとしても、命を落とすことはありません。しかし、生涯で一人の子供しか産めません。やはり、なんらかのリスクがあるのでしょう」
「じゃあ、僕の母さんはもっと大変だったって事?」
「そうです。S階級の子供は、お腹にいる時からかなりの強い力を持っています。そのため、相当の栄養分が必要となり、人間の母親の多くは子供を産む前に命を落としてしまうことが多々ありました」
「そんなにたくさんの人が亡くなっているの?」
「はい。子供をちゃんと産めるのは、十人に一人くらいだったと聞いています」
「それって、残酷すぎるよ」
「そうですね。そこで、レオン家の先々代の当主、すなわちエリック様の曽祖父様が、エドガー様がお生まれになる時に、エドガー様の母君にご自身の力を全て注ぎ込みました。そのため曽祖父様はお亡くなりになりましたが、エドガー様の母君は出産後もヴァンパイアとして元気に過ごす事ができました。彼女はS階級で初めて長生きできた母親です。その後、この方法がS階級だけでなく、A階級の家庭にも受け入れられていきました。まあ、例外はありますけれど」
「僕の、曽祖父ちゃんは凄いね。やっぱり奥さんにした人が何人も死んでしまって悲しかったんだろうね。じゃあ、僕が生まれる時には、僕のお祖父ちゃんが母さんに力をあげたってことだよね。とすると、お祖母ちゃんは生きていてもおかしくないよね」
「人間は、そうでしょうね。しかし、私たちヴァンパイアは違うのです。ツガイになると伴侶が亡くなってしまうと間もなく命が尽きてしまうのです。エリック様のお祖母様も、エリック様のお顔を見てからすぐに亡くなられたと聞いております。生まれながらのヴァンパイアと、そうでないヴァンパイアとの違いなのでしょう」
「ふーん、なんだか複雑だね。でも、それだけ仲が良いって事かな? 僕の両親も見ていて恥ずかしくなるくらい仲が良いよ。先生、ホワイト狼はどうなの?」
「ホワイト狼は、王が亡くなると一緒に命が尽きます。しかし、何らかの原因で狼が亡くなったとしても王は亡くなる事はありません」
「じゃあ、クララは?」
「クララは、グスターによってホワイト狼に属することになったのですから、その作り主であるグスターが亡くなると、暫くして命を失います」
「そうなんだ。じゃあ、父さんが死ぬと母さんもグスターもクララも死んでしまうってことだね」
「そうです。そのようにして代替わりがされていくのです」
「A階級のヴァンパイアにも対になる狼がいるの?」
「私どもには、いません。狼を必要とするほどの力を持っていませんから。私たちA階級のヴァンパイアの祖先は人間なのです。昔この星はとても荒廃した土地でした。そんな土地に細々と暮らしていたのです。そこへ六人のヴァンパイアと六匹の狼が現れ豊かな実りと多くの知識を人間たちに教えました。その当時そのヴァンパイアの手足となって働いていた者が私たちA階級のヴァンパイアの祖先なのです。その祖先たちは、恵をもたらしてくれたヴァンパイアに生涯の忠誠を誓い、ほんの少しの力を分けてもらいヴァンパイアになりました。ですから、エリック様と私とでは力の差はそうとうあるのですよ」
「そうなんだ。だから母さんはあんなに怒ったんだ」
「ナナ様に叱られたのですか?」
「うん、先日ね。マットと喧嘩になって……。凄い剣幕だった。その後、喧嘩をする時はある部屋に閉じ篭ってすることにしているんだ」
「そうでしたか。エリック様と対等に喧嘩が出来るのはマットだけですから、決められた場所があるのでしたら喧嘩も大いにしてみるのも良いのではないですか?」
先生の答えにマットはクスクスと笑い出した。先生は、僕たちの喧嘩の凄まじさをどれくらい分かっているのだろうか……。
「では次、地理にしましょう。テキストの五十五ページを開いて下さい」
先生に言われたページを開くと、見開きいっぱいに地図が描かれていた。
この世界は、雪の結晶のような六角形の大地とその周りは海に囲まれている。大地の中央部には丸い平地があり、それを囲うように山が連なっている。その山から海に向かって等間隔に川が六本流れている。この川が、領地の境界線の役目をしている。領地は、二等辺三角形でほぼ同じ大きさだ。
地図の右上がリオン王国。その右隣からグレシャス王国、ドレイク王国、イーデン王国、クランマー王国、チェンバレン王国と並んでいる。中央部の丸い平地は、中立地になっていて教育機関などがあるらしい。この中立地が一番平均気温が低く、海へ近づくほど平均気温は上がる。日本のようなはっきりとした四季が無いため、とても過ごしやすい世界のようだ。
リオン王国を詳しく見てみよう。
中立地に一番近い小高い丘の上に、僕の家がある。その家を軸に半円を描くようにA階級の家が立ち並んでいる。そして、そこから海に向かって平地が広がり、その平地にB階級の人たちが暮らす州ある。
州は全部で、十。州ごとに学校が九つずつ建てられている。B階級の子供たちは種族に関わらず、同じ学校に通うらしい。総合病院も州ごとに五つずつ。他に生活に必要な施設設備が、どの州にも等しく作られていた。
州ごとのカラーもあるようだ。畑マークがたくさんある州、工場マークがたくさんある 州、海沿いには、大きな港もある。
地図を見ているだけで 、そこに暮らす人々の様子が何となく想像できて面白かった。大きな広い道路や線路も規則正しく地図上に描かれている。
鉄道は、B階級地州のみのようだ。基本的に、A階級以上は車を使う事が多いので、鉄道は必要ないらしい。 どんな電車が走っているのか、興味が出てきた。近いうちに見に行ってみよう。僕が起きている時間に走っていてくれるといいのだけれど。
先生の話では、州ごとに狼人間の家族が三世帯ずつ住んでいて、州の治安を守っているらしい。A階級では、レヴィン家がその担当。
州長は、B階級・A階級共に、人間がしている。A階級は、 ヴァンパイアの家庭もあるが、上手く連絡が取れているらしい。
そして毎夕、僕の家に飛んでくるフクロウたちは、州長や狼人間が飛ばしているらしい。
休憩を挟んで、カミン先生との勉強は四時間行われた。一対二の勉強は、僕にとって始めてだったけれど、とても楽しい時間だった。
一番良いのは、宿題が無い事。これから先も、出すつもりはないと先生は言ってくれた。あちらの世界では、考えられないことだ。
あ、そうそう、僕は、マットが文字を書く姿を始めてみた。マットは見かけによらずとても綺麗な文字を書く。絵も上手い。これは、王の変わりに文章の代筆をする為、生まれ持った能力なのだそうだ。羨ましい。あちらの世界でも、マットにノートを取ってもらえばよかったよ。
午前八時。三度目の食事の時間。
この食事の時間に、父さんから会合や夜会での話を聞く。今日は、中立地で会合が開かれたらしい。
会合といっても、重々しい会議が開かれたわけではなく、簡単に言ってしまえば自国の自慢大会のようだ。その自慢大会で得た新しい自慢話を自分の国でも取り入れていく事が目的らしい。
今回は、父さんは何の自慢も披露しなかったらしい。ずっと自慢話を披露していたのは、チェンバレンの相談役だったらしい。あまり楽しい話ではなかったようで、父さんはその話の内容を教えてはくれなかった。
チェンバレンでは、会合や夜会など王が出席する会には王の父親である相談役が出席する事が多いらしい。それは、チェンバレン王の体が弱く、滅多に外に出られないかららしい。
ヴァンパイアなのに体が弱いというのは信じがたいが、十年くらい前から部屋に引きこもっているらしい。
会合の話が終わると、いつもの両親のいちゃつきが始まった。僕は大きな溜息を付き、新聞の続きを読み始めた。新聞を読み始めて間もなく、父さんが声を掛けて来た。
「エリック、これから国内の視察に行こうと思っているんだけど、お前も一緒に行くかい?」
「行く!」
「そうか。じゃあ、一番近いところから一回に一州ずつ見て回ろう」
「用意する物は何かある?」
「特には何もいらないよ。お前の目でしっかり見てくれたらそれでいいから。それから、マットにも見て欲しいから声を掛けておいて」
「うん」
その後、中断していた両親のいちゃつきが再会された。僕は、新聞を読むふりをして、頭の中で先生に教えてもらった地図を思い浮かべた。
あれ? 頭の中で思い浮かべた地図は、あまりにも鮮明すぎるような気がする。だって、学校があった場所まで思い出せれるんだ。そう言えば、読んだ新聞の文面もしっかりそのまま頭に入っている。何ページの何行目に何が書いてあったのかまで。
僕って天才?
思わず、ニヤニヤ笑いをしてしまった。そんな僕にいちゃつきが終わった母さんが声を掛けて来た。
「エリック? 新聞にそんなに面白い記事が載っていたの?」
「えっ! 違うよ」
「じゃあ、なぜニヤニヤ笑っているの?」
「だって、僕天才かもってしれないなと思って」
「天才?」
「だってさ、見ただけでそっくりそのまま頭に入っているんだよ」
「そんなの当り前でしょ」
「当り前って……、僕にとっては凄いことなんだけど。あちらの世界でこうだったら、どんなテストも満点だったよ。普通こんな事ありえないでしょ」
「エリックの体の中でも、やっと血が落ち着いてきたようだね」
「父さん、血が落ち着くって何?」
「お前の体の中に、血が満ちてきて本来の力を発揮し始めたんだよ。簡単に言ったら、今まで十年間飢餓状態だったわけだから、それが改善されたってこと」
「だから、ヴァンパイアなら当たり前のことなの?」
「そうだよ」
「……」
父さんは、さらりと言った。また、自慢できそうでできないものが一つ増えた。
午前九時。
玄関ホールに三人が集まった。
「このホールを、エリックはしっかり覚えているかい?」
「覚えているよ。でも、どうしてそんな事聞くの?」
「これから、瞬間移動で目的地まで行くよ。帰りは手伝わないから、お前がマットを連れてここまで帰ってくるんだよ」
「瞬間移動って言われても、僕には出来ないよ」
「教えてあげるから大丈夫。いいかい、行きたい場所の映像を頭に思い浮かべて『行きたい』って心で唱えればそれで良いんだ。でも、行った事のない場所では、映像を思い浮かべる事が出来ないから、そういう場合は、言葉を思い浮かべるんだ。例えば、『一州庁舎』とかね」
僕は、不安で一杯だったけれど一応頷いた。
隣で、マットはクスクス笑っている。
マットは、些細な事を気にしないから、どこか違う場所に着いてしまっても、それはそれで楽しいと思っているに違いない。
「じゃあ、いいかい? 私の腕に掴まって、合図をしたら軽くジャンプしてね。一、二、三」
軽くジャンプしただけで、父さんにグイっと引っ張られるような感じがして、次の瞬間には見知らぬ場所に立っていた。
瞬間移動と言うだけあって、本当に一瞬の事だった。
でも、僕の内臓は置いてきぼりを食らったのか、ちょっと気持ちが悪い。
そんな僕を見ながら、マットは相変わらずクスクスと笑っている。飛ぶように走る事が出来る狼にとっては、これくらいなんともないのかもしれない。
周りをキョロキョロしてみると、庁舎のような建物の前に立っていた。
「着いたよ。どうだった? 初めての瞬間移動は。気分は悪くないかい」
「僕は大丈夫。とても楽しかったです」
マットが、目をキラキラさせながら答えた。
「僕も、なんとか大丈夫。でも、帰り自分一人で出来るか、不安で一杯だよ」
「大丈夫だよ。もしも、間違えたところに出たら、もう一度やってみれば良いじゃないか。それでも間違えて疲れてしまったら。マットに頼りなさい」
「そうする」
父さんもマットに近い思考の持ち主らしい。あまり気にしない。
父さんを先頭に庁舎へと入って行き、応接室のような部屋に通され、お茶が出された。
お茶を啜っていると、何人もの庁舎職員が、父さんに挨拶をしに来た。手首を差し出す者もいた。僕も差し出されて、少々戸惑ってしまった。
その様子は、身分の違う者への挨拶というよりは、ご近所の挨拶といった感じだ。
そんな挨拶が何人も続いた後に、恰幅のいい州長が顔を見せた。
「エドガー様、お待たせしてしまい申し訳ございません。この度はご子息のお帰りを心よりお喜び申し上げます。こちらが、一州の現状を示した物です」
大きなハンカチで汗を拭き拭き州長は資料の説明をしてくれた。
僕には、分からないところもあったけれど、父さんは、州長の説明に満足しているようだった。
一通りの説明が終わると、父さんが車と運転手の手配を頼んだ。
車はすぐに用意された。運転手は、この州の治安を任されている狼人間だった。
車は、ゆっくりと州の中を走った。
「父さん、この車はあちらの世界の車よりシンプルだね」
僕は、運転席の装備に興味を持った。前面に液晶画面があり、それを操作することで車が動き出したのだ。
「そうだね。ここの車は全て電気自動車なんだ。そして、行き先をセットすると連れて行ってくれる。道路には速度制限用のチップが埋め込まれていて、それ以上のスピードを出す事が出来なくなっているんだ。もちろん、緊急車両は例外だけどね。それに、車間距離も一定に保たれるようになっている。だから、もしもその距離を短くするような障害物が現れた場合、車は緊急停止するようになっている。一台緊急停止になると、それに連なる車にもその信号が送られ、スピードを緩めるようになっているんだよ」
「凄い。じゃあ、交通事故も無いの?」
「全く無いとは言えないね。でも、あちらの世界よりはずっと少ないと思うよ。もしも事故が起きても命に関わるような物は一つもないからね」
「凄い。なぜそんなことができるの?」
「それは、みんなが幸せに暮らせる国を作る事が、父さんの使命だからね。そこで暮らす人々にたくさんの知恵を出してもらっているのさ」
「でも、知恵だけじゃこんなふうには出来ないよ」
「そうだね。それを現実にするために労力を惜しまない研究者や技術者もたくさんいるんだよ」
「みんながいい国を作ろうとしているんだね。ところで、電気自動車がたくさん走っているって事は、電気を作る施設もたくさんあるって事なの?」
「あるよ。たくさんの電気が太陽光から作られているんだよ。他には水力や風力からもね。だから、空気は綺麗で空も綺麗な色だろう」
あちらの世界より、恵まれているようだ。これなら原子力発電所もいらないし、温暖化問題もおこらないだろう。
あちらの世界では、電信柱が立って電線が張り巡らされ家々に届けられているが、こちらの世界は全て地下に埋まっているらしい。
州は、一から十までの数字で分けられている。A階級に一番近く、チェンバレン国に近いところが一。その隣に二つの州があり、一の海に近い側にも同じように三つの州が並び、一番海沿いには四つの州が並んでいる。
第一・第四・第七州は農作物を作っている。第二州は、酪農地。第三・第六州は工業地。第五の一州は商業地・第五の二州は研究地。第八、第九・第十州は、漁業地だ。
ここは第一州、農業地の州だ。道路の両側には、たくさんの畑がパッチワークのように広がっている。しかし、庁舎の周りにはたたくさんの家が並んでいたのに畑の側には民家が一軒も見当たらなかった。州の中は畑と居住地を分けてあるようだ。
居住地と畑を繋いでいるのは、小型の無料モノレール。定期的に州の中を巡っているらしい。居住地の駅は決まっている様だが、畑には全て停車するらしい。
モノレールは、収穫した野菜を第五州へと毎朝運んで行く。この第五州は、B階級地州のちょうど中央に位置している。ここで競りが行われ、国内全体へ流通していくようになっている。
州の居住地には、車道・歩道の他に農機具専用道が設けられていた。さすが農業専門の州だけのことはある。
街路樹には、桜と銀杏が等間隔で交互に植えられていた。もう、桜の時期は終わっているはずなのに、綺麗なピンク色の花が満開だ。
「あちらの世界から持ってきた苗を品種改良したんだよ。あまり大きくなり過ぎないようにもなっている。とても綺麗だろう。B階級の街路樹として使われているんだ。桜が終わると銀杏が黄色や赤に変わってとても綺麗だよ」と、父さんは自慢げに話してくれた。
銀杏は黄色って決まっていないのか? でも、赤い銀杏も見てみたい気もする……。
この州では、大人が全て農業に携わっているため、保育施設も充実しているようだ。農家の朝は早い為、それにあわせて保育施設も開かれている。学校でも、農作業が終わるまでの時間、子供たちを預ってくれるらしい。
農作業が終わる時間は、チャイムがならされる。それと同時に、大人たちは片付けをはじめモノレールに乗り込み家路に着く。子供たちも、親の帰宅時間に合わせて自宅へ帰るようになっている。
病院は、内科の他に外科と整形外科が充実しているようだ。農作業中に怪我をする人もいるのだろう。
畑では無農薬野菜を作っている。その為か、幾つか作物を作っていない畑を目にした。やはり、こちらの世界でも畑を休ませるのは同じようだ。そしてその使われていない畑で、堆肥が大量に作られていた。あちらの世界での堆肥は、嫌な匂いがするものだったけれど、こちらの世界は何の匂いもしない。嫌な匂いを消す為に、特別なハーブが混ぜられているらしい。そのハーブは、匂い消しだけではなく発酵を早めてくれる役目もあるらしい。悪臭は環境にも悪いし、これはとってもいい方法だと僕は感心してしまった。
僕とマットは、モノレールにも乗せてもらった。とても静で快適だ。モノレールの後方車両には、農機具を乗せる荷台もいくつか繋がれていた。車両内の掲示板には、荷台を使いたい人の名前が時間ごとに書かれていた。
モノレールの運転手は、農業を引退したお爺さんが交代で行っている。実際に農業をしていた人なので、色々な事に対応し相談にものってくれるそうだ。現役の農家にとっては、心強い味方だ。
そういえば、この州には大きなビニールハウスが一つもない。
モノレールの運転手さんに聞いてみると、この土地にあった作物を作っているので必要ないのだそうだ。その為、農業専門の州は他にもあるが、全て違う作物を作っているらしい。露地栽培ができるのは、農家にとっても手間がかからずいい事なのかもしれない。穏やかな気候に、感謝・感謝。
僕たちは一時間半、州の様子を見て過ごした。
州の人たちには大歓迎された。何といっても、畏まったところがなくみんなが親しげに話しかけてくれたのが嬉しかった。
州の人たちは、みんなが生き生きとしていた。この土地が好きで、この仕事が好き。どの顔にもそう書いてあるように見えた。
初めての長時間の外出に、帰りの車に乗り込む頃には疲れに押しつぶされそうになっていた。今は、午前十一時。僕にとっては夜の十一時だ。それでも、車は庁舎までなので、僕は、マットを連れて帰らなければならない。
僕は、眠い目を擦りながら瞬間移動した。
移動した先は、玄関ホールではなく、僕のベッドだった。
その後も、一日おきに一つずつ州を視察してまわった。それぞれの州にそれぞれの特徴があり、見るもの全てに興味がわいた。
中でも、公共の乗り物や教育・医療などは全て無料にはビックリした。国と自治体が合同で運営しているためらしい。
どの州でも、僕たちは大歓迎された。この国の人たちにとって、平和で豊かな生活を保障してくれる僕たち王族はとても尊敬され、それでいてとても身近な存在のようだ。
しかし、そうではない国があることを、僕は知った。
僕たちが、七州の視察でチェンバレン国との間に流れるレオン・チェンバレン川の堤防を利用して果物が栽培されているところを見ていた時の事だ。
川幅は、堤防から堤防まで一キロ強ありそうだ。その川の向こう側にたくさんの人だかりができているのが見えた。
一キロ先まで見えるなんて、ヴァンパイアの視力って凄いななんて思っていたら、その人だかりの中から一組の男女が川に飛び込んで、こちらへ泳ぎ始めた。僕は、ビックリして父さんに声を掛けた。すると、父さんは州長に幾つかの指図を始めた。そして、マットには仲間を呼ぶように言った。
マットは、すぐに狼の姿になると町に向かって地面を揺さぶるような遠吠えを一つした。するとすぐに、あちこちからダークブラウンの狼の姿が見えてきた。ダークブラウンの狼は、マットの半分くらいの大きさしかないが、風のように走ってきた。
その時、あちらの堤防から一発の銃声が聞こえた。川を泳ぐ人間に向かって撃ったらしい。その銃弾は、後ろを泳いでいた男の肩にあたったようだ。男の泳ぐ速度が見る見るうちに落ちていく。
川は国境としての役割もある。川の中央部には、一本線を引いたように水草が植えられ境界を示している。この草を二人が超える事が出来るまで、こちらからは何も手を出す事ができない。
また、銃を構えようとしている者がいた。マットをはじめとする数頭の狼が低い声で威嚇をすると、銃を放り投げて何処かへ逃げて行ってしまった。
あちらの堤防に残された人々は、口々に「二人をよろしく」と言っている。
ようやく二人が川の境界線を越えた。ダークブラウンの狼たちはすぐに川へ飛び込み、二人を背中に乗せこちらへ泳いできた。
二人の服装は、ボロボロで手足も痩せ細り、命がけで泳いできた事が伺えた。
こちらの堤防に付くと「ありがとう」と一言口にすると、安心したように気を失ってしまった。
すぐに、一番近い総合病院へと運ばれた。そこには、州長と数名の医師や看護士が待っていた。二人は処置室へと運び込まれた。
隣の国で、何が起こったのだろう。
次の日、僕たちは昨日の病院へ行ってみた。
二人は、ナースステーションの隣の部屋をあてがわれていた。部屋に入ると、二人は点滴に繋がれてはいるものの笑顔で迎えてくれた。
すこし世間話をすると、僕とマットは部屋の外へ出されてしまった。それと入れ替わりに、州長が部屋に入っていった。僕たちは、部屋の前の長椅子で待つ事にした。
「マット、あの二人どうして逃げてきたのかな? 隣の国ってどんな国なんだろう?」
「姉さんが言うには、『王を頂点とするヴァンパイアたちが狼の兵隊を使って、人間を奴隷のように扱っている国』らしいよ」
「奴隷?」
「そう、それで何人も川を渡って逃げてくる。今回の二人は、ラッキーだったのかもね、僕たちがいたから。普通はね、逃げ出すと銃で殺されちゃうんだって。だから、あの国だけ人間の数がとても少ないらしいよ」
「どうしてそんな事をするんだろう。あの国のヴァンパイアだって人間から生れてきているよね」
「それはそうだろうけど、王様の奥さんって言う人、出産の途中で死んでしまったらしいよ。それで今の王子は死んだ母親のお腹を食い破って生れてきたって噂があるんだって」
「食い破るって……、生まれてくる子供にそんな事ができるの?」
「さあ知らない。でも、あの国は人間が何人死のうが気にしないらしい。人間はすぐに増えるからって」
「そんな……。ねえ、狼たちもどうして言いなりになっているの?」
「それは、群のリーダーには背けないからだよ。もしも、背いたら殺されてしまうから。きっと嫌々やっているんだと思うよ。リーダーが無能だと困るよね」
「そうだね」
マットの言葉に深く頷いて、父さんが病室から出てくるのを待った。
病室での話しは、ずいぶんと長い時間がかかった。その間、何度も看護士が病室を出入りし患者の様子を診ていった。
父さんたちが話を伸ばしているわけではなく、患者の方が父さんに話したくて仕方がないようだと、看護士たちは苦笑していた。
父さんたちが病室を出て来たのは、二時間後だった。二人とも、何かに対してとても怒っているようだった。父さんが怒るところを見たことはないが、怒りのオーラが見え隠れしている。それを外に出さないように必死で堪えているように見えた。
州長は、すぐに病院を出て行った。
僕とマットは、父さんに話を聞こうと詰め寄った。しかし、父さんは押し黙ったまま何も話してくれない。そして、一瞬で姿を消した。
僕とマットは呆気に取られながらも、家に帰る事にした。
瞬間移動で、玄関ホールに着いて驚いた。
いつも綺麗にされているホールは、嵐でも来たかのように色々な物が壊れて散乱していた。天井から吊るされているシャンデリアは、大きく揺れ今にも落ちてきそうな感じだった。
そんなホールの真ん中に、父さんとグスターが倒れていた。
父さんは無傷だが、グスターは酷い怪我をしていた。そして、二人とも声を掛けてもピクリとも動かない。
僕たちは、それぞれの父親を背負いベッドへと運んだ。
僕が父さんの部屋の前まで来ると、知っていたかのように母さんが部屋の中からドアを開けてくれた。
「エリック、ありがとう。後は母さんがやるから、お前はもう休みなさい」
「うん。父さんどうしちゃったの?」
「大丈夫よ。ちょっと、感情が高ぶって力が暴走しただけだから。何か、とてもショックな事が起きたようね。でも、明日になればいつものエドガーに戻っているはずよ」
「暴走って?」
「普段、エドガーもあなたと同じように強い力を外に出さないようにコントロールしているのよ。でも、感情が高ぶったりしてその力が暴走すると、エドガーに近づけるのはグスターだけなの。エドガーが落ち着けば、私やエリックでも大丈夫なんだけれど……。それよりも、グスターはどうな様子だったかしら?」
「グスターは酷い怪我をしているみたいだったよ。父さんみたいに意識もなかったし」
「そう。後で様子を見に行ってみましょう。エリックは心配しなくて大丈夫よ。早く休みなさい」
「うん。お休み」
僕は、玄関ホールを片付けるメイドたちの様子をちらりと見てから、部屋に戻った。
入浴や着替えが終わった頃、クララが部屋にやって来た。
「エリック様、今日はとても驚かれたでしょう。ハーブティーを入れてきましたから、お休み前に召し上がって下さい」
「僕のことは良いよ。それよりグスターは大丈夫なの?」
「ご心配頂ありがとうございます。ナナ様に全ての怪我を癒してもらいましたから、後はゆっくり体を休めるだけで、明日はいつものグスターですよ」
「そうなの? 良かった。僕が見た時は、意識もなくて酷い怪我をしているみたいだったから……」
「マットも真っ青な顔をして部屋に飛び込んできましたよ。のんびりやのマットが慌てるなんて珍しい物を見ることが出来ました」
「クララは暢気だね。夫が、ボロボロの状態で部屋に担ぎこまれたのに……」
「エドガー様が帰宅される十五分位前には、こういう事になるとグスターには分かっていたようで、屋敷中の者に、指示を出していましたから」
「どんな指示?」
「どんな音がしても部屋から絶対に出てきてはいけない。そして、エリック様とマットが帰ってきたら、玄関ホールの片付けを始めるようにって事です」
「なぜ、僕とマットなの?」
「それは、エドガー様もグスターも重くて、他の者には運べないからですよ」
「じゃあ、僕とマットが居なかった時はどうしていたの?」
「その期間は、一度もこういうことはありませんでしたから。二人が若い時は、それぞれの父親が運んでいましたけど……」
「なにそれ? でもさ、こんな事が何度もあったらグスターの命が危ないよね」
「そんな事はないですよ。グスターは頑丈に出来ていますから」
「頑丈って、いくらなんでも限度があるでしょう」
「エドガー様の暴走に対しては、限度がないんですよ」
「どうして?」
「ホワイト狼は、生れた時から自分の主人の傍にずっといます。そして、小さい時は力のコントロールが出来ない主人の力を無意識のうちに体内に吸収しているのです。それで、免疫みたいなものが出来るのです。そのため、主人がどんな術を使おうが暴走しようが、取り込まれることはないのですよ。例えば、極端な話をしますと、エドガー様が暴走してこの国が壊滅したとします。そんな中でも、グスターだけは死ぬ事はないのです」
「グスター、凄い」
「エリック様には、マットがその役目を負います」
「そうなんだ。でも、僕そんなに力ないと思うよ」
「そんな事はありません。エリック様がお生まれになる五ヶ月くらい前にマットは生れました。生まれたばかりの狼は人の姿に成ることは出来ないのですが、そんなマットでもエリック様の存在が分かるようで、常にナナ様の傍にいました。エリック様がお腹の中で動き回っている時には、ナナ様にとってはとてもお辛かったようで、よくマットを抱き締めていました。そうすると、エリック様からの力をマットが吸収して楽になれるのだとお話されていました。エリック様がお生まれになってからは、エリック様が泣くたびに大きな力が部屋中を満たし地震が起きたように屋敷全体がグラグラと揺れ始めるのです。その部屋に一番に入れるのはマットだけでした。他のものが入ると大怪我をしてしまいますから」
「父さんやグスターでも駄目なの?」
「グスターはエドガー様の狼なので駄目なのです。エドガー様は大丈夫なのでしょうけれど、マットが嫌がって入れさせませんでした」
「クララにはそういう力はないの?」
「私は、ナナ様に対してだけ、それに近い事はできますが、元々が普通の狼ですから、グスターやマットとは違うのですよ」
「でも、マットを産むのは、普通の狼には出来ないでしょ?」
「どうなんでしょうね。私は、生れて間もなく両親に連れられてこのお屋敷に来ました。他にも同じくらいに生れた仔がたくさんいました。そして、一家庭ずつグスターとその御両親に会うのです。もちろんグスターは狼の姿でした。その当時、グスターはすでに百歳は超えていたと思います。それまでの期間、伴侶が見つからなかったのも、可愛そうな話ですよね。エドガー様がお一人だったのも関係しているようですが……。グスターの大きな姿に私の両親は縮み上がったと言っていました。平和な日常の中では、ホワイト狼を見ることはありませんからね。でも、私は大きなグスターを見ても怖くありませんでした。両親の腕から床に下りて、グスターの傍まで行って、尻尾を振ったり、グスターの前足を舐めたりしました。他の仔は、縮み上がってお漏らしをしたそうです。私の度胸が気に入られたのでしょう、それから、私はグスターの両親に預けられ育ちました。ホワイト狼の伴侶として、そして後に生れてくるホワイト狼の母親としての知識、そして、王家についての知識を身に付けるためです」
「クララも大変だったんだね。生まれもっている力だけじゃ、この家では暮らせないんだね。ところで、マットはどこに居るの?」
「あの子は、グスターの部屋で寝ています。父親の無事を知ってホッとしたのでしょう、私が声を掛ける前に床で眠ってしまいました。」
「床で? マットって本当に気にしないよね。僕がベッドへ運ぶね」
僕は、グスターの部屋からマットの部屋まで、マットを背負って運んだ。
う、重い。
マットは、僕とあまり体格が変わらないのに、どうしてこんなに重いんだ。父さんよりずっと重いよ。これじゃあ、クララには運べないよな。
僕は、膝が笑いそうになるのを堪えながらマットを運んだ。




