2-3.昼休みB
―5―
四時間目の授業が終わり、お昼休みの時間になった。途端に教室の中が騒がしくなる。
強風が窓をガタガタと揺らし、小粒の雨が窓ガラスを叩いていた。
遥は教科書類を片付け、机の横手に下げているカバンの中から小さな弁当箱を取り出した。熱いお茶が入った水筒も取り出す。
いただきますと手を合わせ、お昼ごはんを食べ始めた。
遥は転校してきて以来、ずっと一人飯をしていた。
ご飯をパク付きながら、教室の中を見回してみた。
今日はあいにくの天気なので、普段は外にお弁当を持って食べに行っている屋外組も、教室に残っていた。いつもより人が多く賑やかである。
どこかのグループに混ざれないだろうかとも思ったが、それぞれ馴染みの固定グループが出来上がっている風で、車イスの遥が横から入っていける感じではなかった。
遥は未だクラスに馴染めずにいた。
教室の異物。まざりもの。
今まで遥係りになった女の子の中には気を遣って色々と話しかけてくれる人もいたが、係りの日が終えると、みんな自然と離れて行ってしまった。
こんな体だ。気が引けて、なかなか自分から積極的に話しかけてみようとは思えないのだろう。みんなが遥のことを避けて通る。
(まあ、最初から分かってたことだけどね……)
こういう反応をされるのは、分かっていた。
前の学校でもそうだった。
けれど、それでも構わないと思っていた。
学校は勉強をする場所だ。卒業証書さえもらえればそれでいいと割り切っていた。
しかし……いくら頭の中でそう思っていても、なかなか心までは付いてこない。お昼ごはんを一緒に食べてくれる友達すらいないというのは、やはり少し寂しかった。
教室から窓の外を見下ろすと、真剣な顔をしてクラブ活動に打ち込んでいる運動部の人たちや、ベンチに座って楽しげにお喋りをしている男女の姿などが見えたりした。
みんな青春を謳歌している。
高校生活をエンジョイしている。
しかし自分は車イス。
一人では、満足に階を移動することすら出来なくて……。
そういう人を見るたびに少し嫉妬心が湧き、劣等感のようなものがぽこぽこと心の奥底から溢れてきて、鼻の奥がつんとした。
☆
一人物思いにふけってもさもさと食事を続けていると、突然頭上から声が降ってきた。
「やあ遥ちゃん。不足はないかい?」
ポンッと肩を叩かれる。
その声に、遥の肩はビクリと震えた。
ゆっくりと振り返る。
そこには、間山正志が立っていた。狐のように細い目で、ニコニコと微笑みながら遥の事を見下ろしている。
間山が親しげに話しかけてきた。
「飲み物とか必要? 買ってきてあげようか?」
「いや……水筒を持ってきてるから、間に合ってるよ」
「なんでも頼んでよ。今日は僕が、遥係りなんだから」
彼は何かというと『遥係り』という言葉を繰り返して、遥の世話を焼こうとした。二時間目の休み時間の時は、女子トイレにまで付いて来ようとしたほどだ。
遥は観察するように間山のことをじっと見詰めた。
何を考えているかよく分からない表情。表面上はニコニコと笑っているが、目の奥は笑っていないような気がした。
今朝の階段での出来事を思い出す。
おんぶ中に、担ぎ直す振りをして脚を撫でられたような気がするのだが、あれは……。
遥は半ば警戒しながら彼に尋ねた。
「……私に何か用、かな?」
間山が答えた。
「先生が君のことを呼んでたよ。職員室まで来て欲しいってさ」
「先生が?」
遥は訝しげな顔をして聞き返した。
今までは、話がある時は先生の方から遥の許を訪ねてくれていた。職員室に呼ばれるのは初めてだ。
「僕が職員室まで連れて行ってあげるよ。なんたって、僕は遥係りだからね」
彼はにこりと微笑み、遥の了承も取らずに、勝手に遥の車イスを動かしだした。車イスのグリップを掴んで押し始める。
「え? ちょ、ちょっと……!」
遥は慌てて手に持っていたお弁当箱と箸を机に置いた。箸が乱雑に机の上を転がる。
どうしてこの人は、こうも独善的に物事を推し進めるのだろう。遥の都合などお構いなしである。
思わず助けを求めるように一番前の廊下側の席を見詰めたが……購買部かよそのクラスに出掛けているのか、そこに彼の姿はなかった。
遥は半ば強制的に教室から連れ出された。
車イスは廊下をしずしずと進んでいく。
遥は背後の間山に尋ねた。
「……私のことを呼んだ先生って、どの先生?」
「うちの担任だよ」
「先生が、何の用やの?」
「さあ、僕は連れて来いって言われただけだから」
階段の前に差し掛かったが、間山は立ち止らなかった。そのまま車イスを押していく。
「下に行くんやないの?」
「うん? ああ、ちょっとね」
彼は適当に返事をして、ふんふん鼻歌を歌いながら車イスを前へ前へと進ませていった。
特別教室棟にある職員室に行くには、二階に下りて渡り廊下を渡らなければならなかった。教室脇の階段は利用者が多くて込み合っているから、四階の渡り廊下を通って特別教室棟に行ってから、階段を下りるつもりなのだろうか?
車イスが渡り廊下に出た。
途端に強い風が吹き抜け、遥の長い髪をバタバタと揺らした。髪が顔にまとわりついてくる。
雨は一層激しさを増しているようだった。
二人は渡り廊下を渡り切り、特別教室棟に入った。
昼休みという事もあって今まで来た道には生徒たちの姿が多くガヤガヤと騒がしかったが、特別教室棟に着た途端、まるで別次元にワープしたのではないかというくらい静かになった。喧騒が遠のく。
こっちの校舎の四階には、社会科室や理科実験室などがあった。今は生徒が一人もいないのか、廊下はひどく静かだった。しんと静まりかえっている。
二人は階段の前までやって来た。ここを下りて行けば職員室に行ける。
しかし、それでも間山は立ち止らなかった。
さらにその先へ、廊下のどん詰まりの方へと遥の車イスを押し進めていく。
彼は鼻歌を歌い続けていた。
どこかで聞いたことがある曲だと思っていたら、それは映画『雨に唄えば』の曲だった。
あるいは、『時計じかけのオレンジ』の……。
表では、ザーザーと陰湿な雨が降りしきっている。
☆
事ここに至って、さすがの遥も何かおかしいと思った。
「ちょ、ちょっと待って……。どこに連れて行くつもりやの?」
車イスの肘掛けのバーをぎゅっと握りしめて、警戒して体を強張らせる。
振り向いて確認したいのに、なぜか体は金縛りにあったように動かなかった。後ろを振り返ることが出来ない。嫌な予感がして、額に脂汗が伝った。
背後の間山に問いかける。
「ちょっと、間山くん!?」
問いかけても、返事はなかった。
背後で気配が動いた。
間山の両手が遥の頭の両脇からぬっと伸び出し、遥の髪に触れた。さらりとした細い黒髪を、指先で弄ぶ。
露わになった首筋に、彼の生暖かい吐息がかかった。
両肩を掴まれる。
「遥ちゃん……」
耳元で囁かれ、遥の体にゾッとおぞけが走った
「い、いや、離してっ……!」
遥は思わず叫んでいた。
ハンドリムに手をかけて、ダッと車イスを前進させた。
距離を取って車イスを反転させて、正面から間山と向き合う。
「……なんで逃げるのさ?」
間山は遥の肩を掴んだままの恰好でその場に立ち尽くし、心外そうな表情を浮かべていた。
じっと遥のことを見詰めている。
じっと視線を外さない。
表面上はニコニコと笑っているが、目の奥は、全然笑っていないように見えた。
遥は少し身震いした。まるで蛇に睨まれた蛙のような気分だ。
どうしよう、少し怖い……。
遥は意を決して、問い詰めるように間山に言った。
「こんな所に連れ出して、何のつもり……?」
「僕さぁ、君に話があったんだよね、遥ちゃん」
「先生が呼んでるっていうのは、嘘か?」
相手の事をキッと睨みつけて、詰問するような口調で問いかけたのだが、彼は飄々とした態度で「ああ、嘘だよ」と答えた。悪びれた風もなく、けろりとしている。
「話ってなんやの? 話なら、教室でも出来るでしょ」
「人前じゃ話しにくいことなんだよ」
「……私は別に、話なんてないから」
遥はそう言い捨てて、間山の脇をすり抜け教室に戻ろうとした。彼と二人きりになるのはまずいと思った。
しかし、間山が道を塞いだ。車イスの前に立ち塞がる。
「そ、そこを退いて」
「嫌だ」
「退いてって言ってるやろ!」
緊張と恐れで、半ば声が震えた。
叫ぶように退いてと言うと、彼は面倒くさそうにチッと舌を鳴らした。
「人が下手に出てれば、調子に乗りやがって……」
口調がガラリと変わっていた。
平穏だった彼の口調が、急に刺々しい物に変わっていた。
コツコツコツと足音を響かせて、間山が遥の方に肉迫してきた。
「なっ……」
慌てて距離を取ろうと車イスをバックさせたけれど、すぐに距離を詰められて、車イスのバーを掴まれてしまった。がっちりと固定されて、その場から逃げられなくなる。
吐息が吹きかかるほど顔を近付け、ひどく冷淡な口調で、彼は言った。
「逃がさねーよ」
空で雷が光った。