2-2.昼休みA
―3―
四時間目の授業が終わり、お昼休みの時間になった。途端に教室の中が騒がしくなる。
強風が窓をガタガタと揺らし、小粒の雨が窓ガラスを叩いていた。
和隆は席についたままうーんと大きく伸びをし、チラリと遥の事を盗み見た。
彼女は教科書やノート類をトントンと整えて、机にしまう所だった。
机の横手にひっ下げているカバンの中から小さな弁当箱を取り出す。
(今日も一人か……)
春川遥は、今日も一人飯のようだった。
この天気では外に昼飯を食べに行く者はいない。多くの生徒が教室内で弁当を広げていたが、誰一人、彼女に「一緒にご飯を食べようよ」とは声をかけなかった。
転校してきて以来、彼女はずっと一人でお昼ごはんを食べていた。
みんなは友達同士机をくっつけたりして、複数人で楽しげにお喋りしながらお昼を食べているというのに、彼女は教室で一人ぼっちだった。
遥はお弁当箱を開き、「いただきます」と丁寧に手を合わせてお昼ごはんを食べ始めた。
クラスの用事などで人から話しかけられたら明るく受け答えをするけれど、彼女は基本的に、自分から人に話しかけよう、近付いて行こうとはしなかった。
車イスの自分が声をかけて話の輪に入っていっても、みんなに気を遣わせて空気を悪くしてしまう。だったらいっそ、一人の方が気が楽だ……。
そんな風に考えているのかもしれない。
自分がクラスで浮いた存在なのは知っている。
けれど、それでも構わないというスタンス。
春川遥は孤高である。
しかし、ガヤガヤと騒がしい教室の中で、一人静かにお弁当を食べている少女の姿は、見ていてなんとも物寂しげだった。
たまに楽しげにお喋りをしている同級生たちのことを眺めては、何かに憧れるような、何かを諦めたような表情を浮かべて、ハァと小さくため息を漏らしている。
そんな少女の事を見詰めながら、和隆はガタガタと所在なげに貧乏揺すりをしていた。
何とかしてやりたい、何とかしてやらねばという衝動にかられていた。
これはか弱い者への保護欲? それとも憐憫の気持ちから来るもの?
今日の遥は特に元気がないように見えた。
基本的に彼女は教室内では静かにしているが、今日の遥は、とりわけて物静かだった。アクションが少ないというか、なんとなく物憂げである。
(一緒に昼飯を食おうぜって、声かけてみようか……?)
ちらっとそう思ったが、なかなか体は動かなかった。
(でも、それで断られたらどうしよう……)
「うわ、何この人……? 何かと私に関わってきて気持ち悪い……」
的な表情をされたらどうしよう。ストーカーと勘違いされたらどうしよう。立ち直れなくなるかもしれない。赤坂和隆はチキンである。
まあ、彼女の性格からしてその反応はないだろうけど。
ただ遥は、和隆が食事に誘っても、次のように受け取るかもしれない。
「一人で食べるのは寂しかろうと気を遣って、赤坂くんは私を誘ったのかもしれない」
と。
私は同情されていると、そう受け取るかもしれない。
そう思われるのは本意ではない。逆に彼女の心に傷を付けることになる。
こちらは気を遣ったつもりでも、その行為が逆に相手を傷付けてしまった、なんてことはままある話だ。その気遣いこそが、障害者と健常者を隔てる差別と区別の現れなんだ、みたいな。
過度の同情や気遣いは、あるいは差別のようなものなのかもしれない。多分に気を遣われて腫れものに触るような対応をされては、誰だって嫌な気分になるだろう。
しかし、このままでは遥はこの先もずっと一人寂しくぼっち飯なわけだし、遥だってそれはそれで寂しいだろうし、何もそこまで深く考えなくてもいいのか?
もっと普通に、気軽に話しかけるべき?
「よう、春川~。一緒に飯食おうぜ~」
的な。
若文じゃあるまいし、それでは軽すぎるか?
「ああ、もう……」
和隆はくしゃくしゃと頭をかいた。思考が堂々巡りし、なかなか考えがまとまらなかった。
車イスの女の子。
その子との付き合い方。向き合い方。心の在り方。
何をもって誠実とするのか。
どう接するのが正解なのか。
つーか、いちいちそんな事を考えること自体不自然というか、彼女に対して失礼な事をしているような気もする訳で……。
考えががグルグルと頭を廻る。
(お前は女の子一人、満足に食事に誘う事も出来ないのかよ……)
自分のヘタレ加減が嫌になってきた。呻きながら机に突っ伏す。
「君、偽善者ってよく言われない?」
間山に言われたセリフが、脳内でリフレインしていた。
うじうじと色んな事を考えて、身動きが取れなくなってしまう。
ふと、この感じは何かに似ているな、と思った。
心がもやもやとしたこの感じ、何だっけ?
特定の女の子の事ばかりが脳裏に浮かび、声をかけようと思ってもなかなか話しかけられずにヤキモキしているこの状況。この感じ。
一瞬「あれ? これって恋わずらいっぽくね?」とも思ったが、すぐにまさかなと打ち消した。
チラリと遥の顔を盗み見る。
「……とりあえず、昼飯買ってくるか」
母親が弁当を作ってくれなかったので、今日は昼飯を持ってきていなかった。
和隆は気だるげに立ち上がり、購買部にお昼ごはんを買いに行った。
―4―
混雑する購買部でパンと紙パックの飲み物、ついでに豆サラダを購入した。生徒たちにはあまり人気がないが、ここの豆サラダはなかなかに美味である。
「……あれ?」
なぜか、教室の中から遥の姿が消えていた。
彼女の机の上には、食いさしのお弁当箱が乗っていた。お弁当は食べかけで、魔法瓶の水筒のコップには湯気の立ちのぼる熱い飲み物が注がれてあった。
ご飯を食べている途中に突然忽然と消えてしまった、という感じである。
教室の中を見回すが、彼女の姿はどこにもなかった。トイレにでも行ったのだろうか? しかし、今日の遥係りの女子は向こうにいるし……。
湯気の立ちのぼるコップを見詰め、和隆はメアリー・セレスト号の事件を思い出していた。
和隆は机をくっつけ、ケラケラと笑いながら食事を取っていた女子三人組に話しかけた。
「春川ってどうした?」
「春川って……車イスの? あの人がどうかしたの?」
「さっきまでそこで飯食ってたのに、戻ってきたらいなくなってたからさ」
三人のうちの一人が答えた。
「先生が呼んでるって言って、間山が職員室に連れて行ったよ」
「……間山が?」
和隆は間山正志の名前を聞き、訝しげに眉をひそめた。
「先生が呼んでるって、うちの担任がか?」
「さあ、知らない。たぶんそうじゃないの?」
この学校の校舎は、普通授業を受ける『一般教室棟』と、音楽室や調理実習室などの特別教室がある『特別教室棟』の二つに分かれていた。それが渡り廊下でHの形に繋がっている。職員室は、渡り廊下を渡った特別教室棟の二階にあった。
遥は車イスなんだし、話があるなら先生の方から教室に会いに来ればいいのに。階の移動が面倒だ。
実際、遥に話がある時は、担任はそうしていた。自ら教室にやって来ていた。
二人きりで落ち着いて話をしたいというなら、この階には生徒指導室という個室もある。遥を職員室に呼びつけるだなんて、一体どういう風の吹きまわしだ?
三人娘は顔を突き合わせて、ひそひそと小声で喋りだした。
「間山ってなんかキモくない? いっつも目細めて、ヘラヘラ笑ってるみたいな顔してるし」
「うん、何考えてるか分かんないよね」
「あれは絶対に変態だよ。時々女の子の事をじーっと怪しい目付きで見詰めてるもん」
「それに、あいつマザコンっぽい」
「そうなの?」
「お母さんっぽい人と一緒に買い物してたの見たことあるよ。お母さんのことを『ママ~!』って呼んで、ベタベタくっついてた」
「やだ、キモーイ!」
「怖ーい!」
女三人寄れば姦しいとはよく言ったものだ。
少女たちは和隆の存在を無視して、本人のいない所で言いたい放題好き勝手にマシンガントークを繰り広げていた。どこで息継ぎをしてるんだと不思議になるくらい、少女たちの喋りは留まることを知らなかった。冗談を言ってはケタケタと笑う。少し圧倒された。
この分だと自分も陰で何を言われてるか分からないな、と思った。
それはともかく……和隆は少女たちの席を離れ、もう一度遥の机を見下ろした。
彼女のお弁当の蓋は開きっぱなしだし、水筒のコップにもお茶が注がれたままだった。机の上に、無造作に箸がころんと転がっている。
食事の途中で唐突に、半ば強引に連れ去られた、という感じだった。
(間山が連れて行った、か……)
和隆は前方の黒板を見やった。
黒板の隅には赤いチョークで『遥係り』の文字があり、その下に間山の名前が書かれてあった。
一緒のクラスになったのはこれが初めてなので、彼の事はよく知らない。
女子たちの言い分を鵜呑みにするわけではないが、彼は、何を考えているのかよく分からない少年だった。狐のような細い瞳を思い出す。
彼は『遥係り』をかさに、何かというと春川遥にまとわりついていた。
二時間目の休み時間の時もそうだ。
休み時間、遥は係りの女子に「ごめんやけどトイレに付き合ってもらえへん?」と話しかけた。
その時も、間山は横から口を挟んでいた。
「何なら僕が、連れて行ってあげようか?」
「え?」
「ほら、遠慮しないで」
遥は困ったような顔をしてその申し出を断った。
「いや、さすがにそれは……」
「どうして? 赤坂もトイレまで付き合ったんだろう?」
和隆の事を引き合いに出してきた。
「いや、あれは本当に、我慢が出来なくて仕方なく……」
当時の事を思い出し、遥は頬を赤らめてごにょごにょと小声で言い訳を呟いていた。
その時はもう一人の遥係りの女の子が遥に付き添ってくれたので事なきを得たが、彼はそうやって、事あるごとに遥に付きまとってずいずいと迫っていた。
朝の事を思い出す。
遥をおんぶする時、間山は彼女の太ももを撫でていたように見えた。
さわさわと、彼女の細い脚に指を這わせていた……ように見えた。
先日の和隆のように、手の置き場所が分からずにまごついているだけかと思ってその時は何も言わなかったが、あれは……狙ってやっていたのか?
靴を履き替えさせる時に遥の脚を撫で回したり、いきなり抱きついたり……。
まさか本当に、わざとやっていたのか?
介助にかこつけた、一種のセクハラ?
もしそうだとしたら、こんな酷い話はない。
遥は人の助けがなければ、満足に学校生活を送れない。多少体を触れられたとしても「きゃあ、えっち!」とは騒げないだろう。
太ももを撫でられたのだって、ちょっと手が滑っただけだ、何かの間違いだ、と自分に言い聞かせて、我慢してしまうかもしれない。
電車の中で痴漢に遭ってしまったか弱い少女のように、何も言い返せず、抵抗することが出来ない。強く糾弾することが出来ない。
間山がそういう弱みに付け込んでいるのだとしたら……。
いや、さすがにそれは被害妄想に過ぎるか?
ガヤガヤと騒がしい教室。
いつもの昼休み。
変わらない日常。
その中に、車イスの彼女の姿が見つからない。
窓の外を見やると、空は低く、すごいスピードで黒い雲が流れていた。雨粒が窓ガラスを叩き、ザーザーと冷たく世界を支配する。
何かの凶兆のように、遠くの空で雷が轟いた。
なんとなく嫌な予感がした。
和隆は昼飯の袋を机に投げ出し、教室から飛び出した。