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車イス少女  作者: 君鳥
第一章 桜並木と車イス
5/23

1-5.トイレ


  ―6―


 チャイムが鳴り、和隆らの日常が始まった。

 足が不自由な障害者といっても、机について授業を受ける分には、春川遥は一般の生徒と何ら変わりなかった。むしろ私語もなく、真面目に授業を受けている姿は模範的である。なかなかに頭もいいようだった。

 古典の授業中、ちょっとした事件が起きた。

 古典の担当教師はおじいちゃんといってもいいほどの年齢の老眼の教師なのだが、その老教師が、教科書を読み上げるようにと遥を差した。

 澄んだよく通る声で、しずしずと教科書を読み上げる遥。

「座ったまま読むとは何事ですか。立って読みなさい、立って」

 車イスに気付かず、老教師は席についたまま教科書を読む遥に対して怒り出した。

 一瞬教室が凍りついたように気まずい空気になったが、「先生、春川は車イスです」と和隆がフォローを入れて事なきを得た。

「ああ、そうでしたか……すみませんでした」

 教師は気まずそうな顔をして言葉尻を濁した。

 そんな事もありつつ、授業は滞りなく進んでいった。



 休み時間。

 転校生があれば……ましてやそれが黒髪の美少女となれば、クラスメートたちがその机を取り囲んで競うように質問攻めにするのが世の通例というものだが、誰も遥の机には近付かなかった。

 小学生でもなし、自分から遥にちょっかいをかけて悪戯をしたりからかったりする人間はいなかったが、同時に、彼女に話しかける人間もいなかった。

 中には彼女を気遣って話しかけようとする者もいたが、実際に声をかけるには至らなかった。

 理由は簡単。

 どう接すればいいか分からない。

 その一言に尽きる。

 チラチラと横目で盗み見たりするのだが、多くの者は、地雷を踏むのを恐れて遠巻きにしていた。

 そんなこんなであっという間に四時間目の授業が終わり、昼休み、昼食の時間となった。


  ☆


「和隆、飯食いに行こうぜー」

 若文が弁当箱の入った包みを持って和隆の席にやって来た。和隆も持参した弁当をカバンから取り出す。

「どこ行く?」

「せっかくのいい天気だし、外に行こう」

 昼食は基本的に校内ならばどこで食べてもいいことになっていた。生徒たちは主に、屋上や中庭で食べる屋外組、移動するのが面倒な教室組、などに分かれることになる。

 外で桜を見ながら食べるのも乙だろう。

 和隆は頷いて立ち上がったが、黒板に書き直された『遥係り』の文字が目に入った。

「あー、そうだ……」

 ある事に思い至る。

「ちょっと待ってて」

 若文に断り、和隆は遥の席に歩み寄った。



 遥は自分の机にかじりつき、教科書も仕舞わずにじっと俯いていた。何してんだ? と思いながら、その後頭部を見下ろす。

 人影に気付き、遥が顔を挙げた。

「……何?」

「春川ってお昼どうすんの? 弁当とか持ってきてる? 購買で買うつもりなら、付き合うけど」

 購買部は一階にある。一人では移動出来ないだろう。なんなら自分が使いっ走りとなって買ってきてもいい。

「ああ、うん……。お弁当があるから大丈夫……教室で食べるから……」

 遥の返事には元気がなかった。

 というか、なんだか顔色を悪くして辛そうにしていた。ひどく具合が悪そうだ。

 和隆は眉をひそめてその場にしゃがんだ。机越しに彼女の顔を覗きこむ。

「おい、どうした。気分でも悪いのか? 保健室に連れて行こうか?」



 心配して尋ねかけると、彼女は長い髪をぶんぶんと振り回して首を左右に振った。

「ち、ちゃうねん、気分が悪いわけやないねん。ただちょっと……」

「ただ、何だ?」

 遥は顔を伏せて言い淀んだ。

 何やらもぞもぞと体を揺すっている。

「あの、えと……」

「何?」

 彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめながら小声で呟いた。

「お、おしっこに行きたい……」



「……はい?」

 和隆は小首を傾げた。

 一瞬「だったらトイレに行けばいいじゃない」などと当たり前なセリフを吐いて切り返しかけたが、すぐに思い出した。

(ああ、そうか。一人では行けない……のか?)

 膝掛けに覆われた彼女の足を見下ろす。

 和隆は同じ遥係りである女生徒、石川某の姿を探して振り返ったが、彼女の席はもぬけの殻だった。

「あれ、石川は?」

 若文が廊下を指差しながら答えた。

「弁当を持って、他のクラスの女子たちと一緒にどっか行ったよ」

 和隆は軽く舌打ちした。あの女、遥係りのことを完全に忘れているな。あるいは、忘れた振りをしてシカトしているのか……。そういえば休み時間になるたびに、彼女はよそのクラスに遊びに行っていた気がする。



「おい、大丈夫か?」

 遥は猫背気味に体を折り曲げて、もじもじしていた。顔が青い。額には脂汗が浮いていた。この様子だと四時間目の授業が始まるより以前……大分前からトイレを我慢していたな。

「なんでそんなに我慢してたんだよ。他の……近くにいる女子とかに頼めば良かったじゃないか」

「だ、だって……」

 彼女は気まずそうに目を伏せた。

 そりゃあまだ親しくもないクラスメートに「トイレに連れて行って」とは頼みづらいだろうが、こればかりは仕方ないじゃないか。



「おい、誰か付き合ってやれよ」

 大声で言うのもなんだし、和隆は声をひそめて教室に残っている女子たちに声をかけた。

 が、全員にスルーされてしまった。おしゃべりに熱中している振りをして、こちらを見ようともせず知らんぷりをしている。

 近くを歩いていた女子を捕まえたが、パシッと手を払われた。

「今日の遥係りは、あんたと石川さんでしょ。あんたたちが何とかしなさいよ」

 つれない返事をして、つんとそっぽを向いて去って行った。

「なんだよ、クラスメート甲斐のない奴め」

 これだから最近の若い奴は……などとぶつぶつ文句を呟きながらその背中を睨みつける。



「そうだ、鶴木は……」

 このクラスには、女だてらに剣道部の部長をやっている女子がいる。面倒見のいい性格をしている彼女ならば、嫌な顔をせずに引き受けてくれるのではないか。

 そう思って和隆は教室内に視線を走らせたのだが、生憎と、鶴木舞花の姿は見当たらなかった。昼休みも休まずに、竹刀持って練習に向かったらしい。

「ええい、くそ。おい誰か……」

 他に頼めそうな奴はいないかとキョロキョロと辺りを見回した時、和隆の制服の裾を、遥がぎゅっと掴んだ。

 もう片方の手で自分の下腹部を押さえ、すがるような瞳で、上目遣いに和隆のことを見詰めてきた。

「もう……漏っちゃいそう……」


  ☆


 そんなことを言われ、和隆は大いに慌てた。

「ちょ……」

 まずい、このままでは非常にまずい。

 高校生にもなって教室でお漏らしというのは、かなりのレベルの恥辱である。転校早々登校拒否になるかもしれない。

「ちょ、ちょっと待て、もう少し我慢しろ! 落ち着け! 頑張れ!」

 あまり意味があるとは思えないエールを送った。

 背に腹は代えられないという風に、息も絶え絶えというように、遥が言った。

「ご、ごめんやけど、君が付き合ってくれへんかな……? その……トイレ行くの……」



「ええっ、俺がか!?」

 和隆は狼狽した。

 階段の上がり下りなどの力仕事ならば一向に構わないが、さすがに女子トイレに連れていくというのは、気後れした。お互いに思春期真っただ中の少年少女なのだ。気兼ねする、なんてレベルの話じゃない。

「あかん、ほんまあかん……」

 限界の時が近付いているのか、彼女は瞳に涙を浮かべながら、顔を真っ赤にして和隆のことを見上げていた。唇を噛みしめて、幼い子供のように和隆の服をぎゅっと掴んだままふるふると震えている。

 ……あ、おしっこ我慢してるこの顔、なんかかわいい。

 一瞬変な考えが頭をよぎったが、今はそんなことを考えている場合ではない。

「ええい、分かった! 分かったよ!」

 和隆は仕方なく頷き、車イスのグリップを掴んで彼女を教室から連れ出した。



 車イスを押して廊下を駆けた。

「退いた、退いたー!」

 廊下にいた生徒たちは、戦車のように疾走する車イスを見て驚いて道を開けた。

 トイレ前に到着。

 キキーッとドリフト気味に急ブレーキをかける。

 さて……トイレの前に来たはいいが、どうしたものか。やっぱり男子トイレに連れて行くのはまずいよな?

 和隆はひどく深刻そうな顔をして、女子トイレの赤いピクトグラムを見詰めた。

 女子トイレ。

 男子生徒が入って行こうものなら、エッチバカ変態痴漢と謗られ罵られ、卒業まで白い目で見られること受け合いの禁断の聖地である。男子禁制、乙女の花園。

 和隆は遥の後頭部を見下ろして尋ねてみた。

「やっぱり一人じゃ行けないかな?」

「とりあえず中に入って、トイレのドアを開けてもらえるかな?」

 そう頼まれれば断ることも出来ない。

 やたらキョロキョロと不審者の如く辺りの様子を確認しながら、和隆は車イスを押して女子トイレに踏み入った。



 トイレ内には五つの個室があった。現在、使用中の個室はないようだ。とりあえず人がいなくて助かった。

 一番手前の外開きのトイレのドアを開けてやった。幸い便器は洋式だった。

 遥は自分で車イスを進めて個室の中に入っていこうとしたが、入り口部分に車イスが引っかかってしまった。車幅が合わず、突っかかって中に入ることが出来ない。個室内を見回すが、彼女が掴まって一人立ち出来るような手すりはなかった。

 遥は絶望的な声を出した。

「手すりもない……」

「やっぱ一人じゃ無理か?」

「うん……。ごめんやけど手を貸してもらえる?」

「ど、どうすればいい?」

 問いかけると、遥は自分の膝に掛けていたベージュ色の膝掛けを取り払った。スカートをはいた細い足が露わになる。多くの女生徒がスカートの丈を短くしてミニスカートに改造しているのに対し、彼女は逆に、丈を伸ばしてロングにしていた。

 遥はスカートを膝の所までたくし上げて、閉じていた足を開き気味にした。

 一体何をしてるんだと黙って見詰めていると、遥は股の間に出来た空間をポンポンと叩いた。

「ここに足入れてくれる?」



「はい?」

 言ってる意味が分からず、和隆は呆気に取られて尋ね返した。

「……なに、どうすればいいって?」

「こっちに来て。私の股の間に足を入れて」

 聞き間違いではなかったらしい。

「え、なんで?」

 戸惑って躊躇っていると「いいから、はよぅ」と急かされた。大分切羽詰まっているらしい。急かすようにパタパタと手招きしている。

 遥に誘導されて、和隆は戸惑いながらも彼女の言う通りにした。正面から向き合って、少し開き気味になった彼女の足の間に自分の片足を差し入れる。

「こ、こうか?」

「うん。で、そのまま頭を下げて前屈みになってくれる?」

「頭を下げて前かがみに……」

 和隆は言われた通り、遥に顔を近付けるように頭を下げた。



 と、いきなり遥が和隆の首に腕を回して抱きついてきた。

 いきなりのハグ。

「ちょっ……!?」

 人気のない女子トイレで唐突に抱きつかれ、和隆は驚いて飛び上がった。思わず体を離してしまう。

 どもりながら叫んだ。

「な、なんだよ、いきなり!?」



 遥が狭いトイレの個室を見詰めながら言った。

「もう少しトイレが広くて、壁に手すりでもあれば、一人でも便器に移れるんやけど……」

「あ、ああ……」

 ああ、そうか。

 車イスから便器に移動するために抱きついてきたのか。和隆にそこまで運んでくれ、と。

 真意を理解し、和隆は安堵したようにほっと胸を撫で下ろした。一瞬何事かと思った。



 しかし、いくら介抱・介助のためとはいえ、真正面から同級生の女の子と向き合って抱き合うというのは少し勇気がいった。

 別にやましい気持ちがあるわけじゃないが、理性が横道にそれる。こんなにも女の子と密着するなんて、文化祭のフォークダンス以来ではなかろうか。

 そんな微妙な男心を知ってか知らずか、限界の近付きつつある遥は早口で指示を出した。

「あんまりへっぴり腰だと腰を痛めてしまうよ。もうちょっと体を近付けてくれる?」

「こ、こうか?」

 狭いトイレの中、さらに二人の体が接近する。

「そう。それで赤坂くんは私の腰とか脇とかに手を回して、そのまま私を前に引っ張り上げるように……」

 抱き起こすための介助動作とはいえ、それはもうほとんどハグだった。

 熱い抱擁だった。

 遥の顔が、和隆のすぐ真横にあった。ストレートのサラサラとした彼女の黒髪が和隆の頬に当たり、ほっぺたがくっつく。



「や、やっぱりちょっと待って!」

 和隆は反射的に体を離していた。顔が赤くなっているのが自分でも分かった。照れくさくなって、自分の頬を手の甲でごしごしとこすった。

 スーハースーハーと深呼吸して精神を統一する。

 余計なことは考えるな! 集中しろ!

(ほっぺた、柔らかかったなぁ……)

 心を無にしようとする端から、思いっきり邪念が入ってきた。

 今はそんな事を考えている場合じゃないだろうと、ぶんぶんと頭を振る。



 申し訳なさそうに遥が言った。

「あの……ごめんね、こんな事までさせて。こんな女に抱きつかれたりして……気持ち悪いよね」

 彼女は自虐的に言って顔を伏せた。

「いや、別にそんなんじゃ……」

 一人では階段を上がり下り出来ず、ろくにトイレにも行けやしない。

 好きでもない異性に抱きつかなければならないのだから、むしろ彼女の方が辛いはずである。同級生の男の子に、トイレの介添えを頼まなければならないなんて……。

 恥ずかしくって、居たたまれなくって……。きっと、消えてしまいたいような気持ちで一杯に違いない。

 自分がごちゃごちゃと躊躇っている場合ではないな。

 和隆はふぅっと気合を入れ直し、「じゃあ行くぞ」と言って遥を車イスから抱き上げようとした。



 が、その時、和隆らのいる女子トイレに一人の女生徒が入って来た。

「うわっ、何っ!?」

 少女は女子トイレ内の和隆の姿を認めて、ぎょっとして立ち止まった。それは二年生の時に一緒のクラスだった女子だった。

「あ、赤坂が女子トイレを漁ってるっ……!」

 トイレの個室のドアは外開きだった。ドアの陰に隠れて遥の姿は見えなかったのか、少女は和隆のことを指差してわなわなと震えていた。

「きゃー! 変態よぉー!」

「お、おい……」

 止める間もなく、少女はトイレから飛び出して行ってしまった。バタバタと廊下を駆けていく。「変態よぉー!」という少女の叫び声が、エコーしながら廊下に響いていた。



 変態よぉー、変態よぉー、変態よぉー……!

 耳の奥で、その言葉が響いていた。

「ああ……」

 嗚呼、何という勘違い。

 この噂は、あっという間に校内に行きわたるに違いない。和隆はがくりとこうべを垂れた。

 そんな和隆を見詰めながら、心底申し訳なさそうに遥が言った。

「あの……ほんと、ごめんね?」

「いいよ、もう」

 こうなったら開き直るまでだ。

「ところでまだ漏らしてないだろうな?」

「う、うん……。いったん波が治まって凪いだ感じ。でもまたすぐに第二波がきそう。次のビックウェーブはヤバいです」

 サーファーのようなことを言っていた。



 和隆は遥の体に手を添えて、改めて彼女を車イスから抱き起した。

「せーの……!」

 その動作に合わせて、遥も和隆に寄りかかりながら立ち上がった。傍から見たら、これから社交ダンスでも踊るような体勢である。

 和隆は遥を抱えたまま体を捻ってトイレの個室に入り、ゆっくりと、彼女を洋式便器の上に座らせた。

「ふぅ……」

 これだけのことをするのに大分手間取ってしまった。

 ちょこんと便器に納まった遥を見下ろす。

 和隆は言葉尻をぼかしながら、言いにくげに質問した。

「ええと、その……下着とかは……?」

 スカートやパンツを脱がせるのも手を貸さなければならないのだろうか? そうなると、もう気まずいとかそんなレベルの話ではなくなってしまう。

「あ……それは自分で出来るから……。うん、大丈夫です」

 彼女は赤面しつつ答えた。

「そ、そうか。うん、そうか。そうだよなー」

 和隆も赤くなってどもりながら答えた。視線を逸らしてドアを閉める。

「じゃあ外にいるから」

「うん、ありがとう」



 和隆は女子トイレの外に出た。

「はぁ……」

 深いため息をつく。なんだかどっと疲れた。

 しばらくして水の流れる音とノックの音が聞こえてきた。用を足し終えたらしい。和隆は再び女子トイレに入り、遥を抱えて車イスの上に戻した。

 遥は洗面台で手を洗い、スカートの乱れや膝掛けを直した。すっきりしたのか、顔色もだいぶ元に戻っていた。

 和隆の顔を見上げながら、改めて遥が謝る。

「ほんまごめんな。赤坂くんにはこんな事までしてもらって……」

「いいよ、気にすんな」

 二人はトイレから出た。

 並んで廊下を歩きながら、和隆は遥に注意をした。

「人に頼みにくいのは分かるけどさ、あんまり我慢しない方がいいよ。そのうち膀胱炎になるぞ」

「うん……」

 遥は曖昧に頷いた。


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