1-4.学校の階段
―5―
靴を履き替え、三人は校舎の中に入った。
その方が楽だろうと思って和隆は車イスの後ろを押してやろうとしたのだが、彼女はそれを断った。
「あ、いいよ。自分で押してくから」
「ん、なんで?」
和隆は首を捻った。
「人に任せりゃいいのに。背後に立たれるのが嫌なのか?」
「ゴルゴ13みたいだな」
若文と共に口を揃えて不思議がると、彼女は「ちゃうねん」と言って困ったような顔をした。
「自分でカバーできる範囲のことは、全部自分でやろうと思ってるから……」
極力人に迷惑をかけないようにと心掛けているらしい。
和隆は感心したように言った。
「はぁ、真面目だなー。遠慮してないでもっと人に頼ればいいのに」
「あんまり人頼みばっかしてても、甘え癖がついちゃうしね」
「俺は立ってる者なら親でも使うがな」
しかし、いくら遥がそう思っていても、自分で出来ることの限界はある。
三人の前に階段が立ちふさがった。
さすがの彼女も、自力ではこの階段は上がれないだろう。
和隆らの通う高校は、鉄筋コンクリート造りの古い学校だ。エレベーターなんてハイカラな物はこの校舎にはない。
「さて……」
和隆は腰に手を当てて階段を見上げた。
どうしたものか。どうやって遥を四階まで連れて行けばいいんだ?
本人に尋ねてみた。
「車イスに乗せたままでも行けるか? こう、両脇から車イスの肘掛けとかを持って」
「うん、それでもいいけど……」
実際に試してみよう。和隆は若文に指示を出した。
「若文、そっちを持ってくれ」
「合点」
二人は自分のカバンを肩に担ぎ、少女が乗った車イスを両脇から挟んだ。屈んで肘掛けとフレーム部分を掴む。
「春川、しっかり肘掛け掴んでろよ」
「うん」
タイミングを計り、二人は一気に車イスを持ち上げた。
「せーの!」
しかし、持ち上げる勢いと高さがズレてしまった。
遥を乗せた車イスはあばれ神輿のように空中で斜めに傾き、遥は危うく車イスから転げ落ちそうになった。
「きゃあ!?」
「やばい、下ろせ下ろせ!」
二人は慌てて車イスを地面に下ろした。
「あ、危ないな……」
数段の段差ならともかく、この方法で校舎の四階まで遥を連れていくのは危険だった。安定感に難がある。階段を上っている途中でバランスでも崩したら、階下に真っ逆さまだ。もう少し人手があれば、遥を囲って上がっていけるのだろうが……。
和隆は遥に質問した。
「昨日はどうやって四階まで上がって来たんだ?」
「先生におんぶしてもらった」
「おんぶかぁ……」
まあ、それが一番安定した運び方だろう。
「他にどんな方法があるの? 階段の移動法」
「ええと……こうやってだっこしていくとか」
遥は両腕を前に持ち上げ、お姫様だっこのようなポーズを取った。
「お姫様だっこかぁ……」
介護の世界ではメジャーなやり方なのだろうが、いくら足が悪いからとはいえ、同級生の女の子をみんなの前でおんぶにだっこというのは何だか気恥しいな……。
思春期の少年の心は微妙である。和隆は「うーん……」と呻いて頭をかいた。
「なんならこう、肩に担いでってくれてもええよ」
遥は首の後ろで人を背負いこむようなジェスチャーをした。
消防士などが負傷した人間を運ぶ時の担ぎ方、ファイヤーマンズキャリーってやつか? 素人がそんな難易度の高い抱え方をしたら、それこそ危険な気がした。バックフリップ気味に階段を転げ落ちるぞ。
どうしたものかと迷っていると、若文がポンと和隆の肩を叩いた。
「気張れよ、和隆!」
「ああ、何が?」
彼は顔を近付け、ひそひそと耳打ちしてきた。
「美少女をおんぶにだっこと、大接近出来るんだぜ? むしろこれは、ラッキーな事ではないだろうか!」
若文は非常に大真面目な顔をしていた。
「……お前は一体、何を考えてるんだよ?」
呆れ顔をする和隆。
「よっ、羨ましいぞ、この野郎!」
「だったらお前がお姫様だっこしていけよ」
「俺の遥係りはまだまだ先だもん」
彼は他人事のように飄々と軽口を叩いていた。基本的には気さくなイイ奴なのだが、ノリが軽いのが玉に傷である。たまに友達を止めたくなってくる。
「いくらお触りし放題だからって、変なところを触ったら駄目だからねっ」
「うっせえ、バカ」
「あの……」
ごにょごにょと小声で囁き合っていると、不安げな顔をした遥が声をかけてきた。
「どうかしたん?」
「や、なんでもないよ」
こんな所でいつまでも押し問答していても仕方ない。和隆はおんぶをして彼女を連れて上がることに決めた。さすがにお姫様だっこは恥ずかしい。
何だか緊張してきた。
転倒しかけた彼女を抱きとめたこともあったが、あれは無意識の、とっさの行動だ。改めて女の子の体に触れるとなって、和隆の体は無意味にしゃちほこばっていた。
和隆は車イスの前に背中を向けてしゃがんだ。
「ええと……ほら、乗れよ」
不器用な口調で言いつける。
「ごめん、もうちょっと近付いてもらっていい?」
「こ、こうか?」
和隆はしゃがんだまま、言われた通りにズリズリと少し後退した。
遥はお尻をずらして車イスの前方に移動し、身を乗り出して和隆の肩に手をかけた。
「じゃあ、いきます」
「おう」
自分では結構近付いたつもりでも、実際には、二人の間は距離が開いていたらしい。遥は少し勢いをつけて、半ばダイブするように和隆の背中に飛び乗って来た。
「うおぅっ!?」
思わず前のめりに倒れそうになる。
背中の遥が慌てて謝った。
「ご、ごめん! 大丈夫!?」
「い、いや、こっちこそ……」
人をおんぶするなんて久しぶりの事だった。
(えーっと……あれ? 手ってどこを持てばいいんだっけ……?)
後ろ手に手を重ね合わせてお尻を支えるんだっけ? それとも太ももの部分を持って背負うんだっけ?
和隆は一瞬混乱してまごついた。
(ああ、普通太ももを持つんだよな)
和隆はなんとか体勢を立て直し、スカートを押さえるように彼女の太ももを抱えた。
「いいか? 立つぞ」
遥の動かない足が、反動でぷらぷらと揺れた。
「おぉー、結構高いな」
和隆はクラスの中でも背が高い方だった。四六時中座って生活している遥にとっては、この程度の目線の高さでも「高所」になるらしい。
「ごめんね、重くない?」
和隆の肩にちょこんと手をかけ、、恐縮するように遥が言った。すまなそうに体を小さく縮こませている。
遥の頭が、和隆のすぐ横にあった。
彼女が何かを喋るたびに、耳に息が吹きかかって少しこそばゆかった。
背中に、彼女の小さな胸のふくらみが触れている。
まるで背中に全神経が集中したみたいに、和隆は背中越しに彼女の体温を感じていた。背中越しに、とくんとくんと彼女の心臓が脈打っているのを感じる。いや、さすがにそれは気のせいか? 若文が変なことを言うもんだから、変に意識してしまったではないか。
和隆はどもり気味に答えた。
「べ、別に重くないよ」
実際、遥の体は軽かった。
元々小柄な体型をしているとはいえ、少々軽すぎな気がした。四十キロ前半。あるいは、体重は三十キロ代なのではないだろうか? ちゃんと物を食ってるのか、こいつ?
和隆はよいしょと遥の体を抱え直した。
「若文、悪いけど俺のカバンと車イス頼むわ」
「ん、分かった」
若文は和隆の荷物と、空になった車イスを持ち上げた。
「渡辺くんも、手伝ってもらってごめんね。ありがとう」
「いいって事よ。気にしなさんな」
「じゃあ、行くか」
和隆は最初の一歩を踏み出した。
☆
和隆は遥を背負ったまま階段を上り始めた。
背中の上で、遥が緊張して硬くなっているのが分かった。遠慮がちに和隆の肩に手をかけて、そわそわとしている。そりゃまあ、ろくすっぽ知りもしない男におんぶをされるのは、居心地のいいものではないだろう。
周囲の生徒が、興味深そうに和隆たち一行の様子を眺めていた。
会話がなく、なんとなく間が持たない。
気まずい空気を埋めるように、遥が話しかけてきた。
「赤坂くんって背中広いね」
お世辞を言ってきた。
和隆は軽く笑いながら答えた。
「なんだよ、お世辞を言っても何も出ねぇぞ」
「お世辞とちゃうよ。背も高くて脚も長いし」
「母親にはもっと縮め縮めって言われるけどな」
「なんかお父さんにおんぶされてるの思い出すわ」
ポンポンと背中を叩かれた。
まさかこの年で、同い年の女の子にお父さんを彷彿とさせるなんて言われるとは思っていなかった。
「もしかしてそれは、俺がお父さん世代並みに老けて見えるってことか?」
冗談めかして尋ねると、彼女は慌てたように「そういう意味とはちゃうよ!」と言って首を振った。
いくら少女の体重が軽いとはいえ、人一人おぶって校舎を四階まで上がるというのは、なかなか骨が折れる仕事だった。
何とか四階まで上がりきる。
「到着、っと」
若文が担いできた折りたたみ式の車イスを広げ、和隆はゆっくりと、その上に遥を下した。
「大丈夫か? 下すぞ」
「うん……」
和隆はゆっくりと腰を落とし、慎重に遥を車イスに座らせた。
その後、安堵の息を吐き出してトントンと腰を叩く。
「ふぅ……。なんとか上がってこれたな」
なんだか無駄に肩がこった。
車イスの上で居住まいを正し、遥は改めて二人に感謝と謝罪の言葉を言った。
「連れてきてくれてありがとう。ほんまごめんな」
なんだかこいつは、さっきから謝ってばっかだな。
ありがとうという言葉の前後に、ごめんなさいという言葉がやってくる。彼女はこの先、何度人に「ごめんなさい、ありがとう」と言っては、頭を下げなければならないのだろう?
和隆は半ば怒ったように答えた。
「いいよ、そんなに謝らなくたって。同じクラスメートなんだし。困った時はお互い様だろ?」
「うん、ありがとう……」
彼女は感謝するように目を伏せた。
和隆は思った。
遥はこれから毎日、違う男子に代わる代わるおんぶされて階段を上って来なければならないのか。
(気まずいだろうな……)
自力では歩けないのだから仕方がないとはいえ、彼女も年頃の娘さんだ。階を移動するたびに男子に体を預けておんぶにだっこでは辛いだろう。遥係りのことをよく思っていない者も多いようだし。
何か他に、方法はないのだろうか? 車イスでの移動法。後で調べてみよう。
学校がエレベーターを設置・導入してくれるのが一番いいのだろうが、まず無理だろうなぁ。工事だけで数千万円以上かかるだろうし。
☆
三人は3-1の教室に移動した。
「おはよー」
扉をくぐり、遥が教室のみんなに声をかけた。
遥が手を挙げて挨拶をしても、返って来る反応は鈍かった。
聞こえないフリをしてスルーする者、かろうじて「おはよー」と返事をするも、すぐに視線を逸らして友達との会話に熱中するフリをする者など、まちまちである。
一晩経って、それぞれクラスメートに車イスの女の子が加わるという事実を受け止めたようだが、まだどこか、ぎこちない空気が漂っていた。
遥は持ち上げた手を所在なげに下ろし、居心地悪げな表情を浮かべた。
こればかりは時間が解決してくれるのを待つしかないか。いずれ彼女も、自然と3-1の教室に馴染む日が来るはずだ。来るだろう。来るべきである。一日も早く、その日が来ることを願う。
「運んでもらってありがとうね」
もう一度和隆らにお礼を言って、遥は自分で車イスを操って、立ち並ぶ机の間をすり抜けて自分の席へと向かった。
和隆は黒板の隅、日直の所に赤いチョークで遥係りという言葉が書かれてあることに気がついた。
その下に赤坂と、女子の石川の名前が並んでいる。
「ん……?」
しかしよく見ると、それは遥係りではなく、『運係り』と書かれてあった。
(誰だ、これを書いたのは……。わざとか……?)
誰かが運んであげなければ、教室にやって来れない遥ちゃん……。
和隆はチッと舌打ちし、乱暴に黒板の文字をかき消した。