1-3.ポケットにスヌーピー
―4―
翌日、桜並木の下を通って登校。相変わらずポカポカといい陽気だった。
昨日は遅刻してしまったが、和隆は今日は時間通りに登校していた。前後に高校生の群れが歩いている。
裏門から学校に入り、欠伸交じりに玄関へ向かった。
下駄箱で靴を履き替えようとしたのだが、そこには見知らぬ外履きの靴が納まっていた。
「誰のだ、これ?」
俺の上履きはどこにいったんだと辺りをキョロキョロと見回して、気付いた。ここは去年まで使っていた、二年生の下駄箱だ。
どうやらまだ眠気が取れていないらしい。和隆は頭をかきかき三年の下駄箱へと移動し、自分の使い古された上履きを発見した。
屈んで靴を履き替えていると、「よーッス」と声をかけられた。
そこには旧友の若文が立っていた。
「おはよーさん」
挨拶を交わす。
彼は下駄箱から自分の靴を引っ張り出しながら言った。
「いやぁ、間違えて二年の方の下駄箱に行っちまったわ」
「ああ、俺も」
「俺たちも、もう三年生になったんだよなぁ。慣れるまで時間かかりそうだわ」
「なー」
靴を履き替え、並んで廊下を歩いた。
階段を見上げ、若文はげんなりした表情を作って肩を落とした。
「今日から毎日、四階まで上がっていかなきゃいけないのか……嫌になるな」
朝っぱらからグロッキーになっていた。
「なんでエレベーターないのかな、この学校」
「公立だもん、仕方ねーよ」
そんな詮無い会話をしながら、二人は階段に足をかけた。
「あー……」
階段を五段目まで登った所で、和隆は思い出した。
「ん、どうした?」
若文が振り返る。
「もう来てんのかな?」
「誰が?」
「春川遥」
「ああ……そういやお前、遥係りだったか」
二人は階段を下りて下駄箱に戻った。
彼女の靴箱を調べると、そこには白い上履きがきちんと揃えて並んでいた。どうやらまだ登校してはいないらしい。
遥が登校してくるのを待たなければいけない。
「若文は先に教室行ってていいよ」
和隆はそう言ったのだが、彼は「俺も付き合うよ」と気さくに答えた。
一人では裏門を上がって来れないから、多分彼女は、学校の周りをぐるりと回って正門の方からやって来るだろう。二人はグラウンドを横切って正門へと向かった。
校門の所には、登校してくる生徒たちに朝の声かけをしている教師が立っていた。
「車イスに乗った三年の女子って、もう登校してきました?」
「いいや、見てないな」
教師はスカートが短すぎな女生徒を見つけては、「そこの女子、スカートの裾を短くしすぎだ。もっと下ろしなさい!」などと注意していた。
二人は教師の脇に立って遥が登校してくるのを待った。
ポケットに手を突っ込み、手持ち無沙汰に空を見上げる。
若文が口を開いた。
「先生が転校生って言った時は『どんな子だろう? 可愛い女の子だったらいいなぁ』とか思ったけど、まさか車イスの女の子だったとはねぇ」
何気なく言ったその言葉に、和隆は半ば鼻白んで旧友のことを睨みつけた。
「ああ? なんだよ、お前まで何か文句があんのかよ?」
「いや、文句はないよ」
「じゃあなんだよ?」
「他意はないよ。ただ少し驚いたってだけで……何怒ってんのさ?」
若文は突然不機嫌そうな顔をして怒り出した和隆を見詰め、首を傾げた。
「……別に。なんでもねーよ」
和隆は仏頂面をしてそっぽを向いた。
昨日のクラスメートたちの態度を思い出したら、なんだか余計にむかっ腹が立ってきた。
彼女は何も、悪いことはしていない。
ただ車イスに乗っているだけだ。
足が動かず、車イスに乗っているだけだ。
一番辛いのは彼女自身であるはずなのに、それなのになぜ、彼女があんな矢面に立たされなければならないのか。
教室の前で萎縮して、じっと拳を固めて耐え忍んでいる彼女の姿が脳裏に蘇ってきた。
和隆は苛立ちを紛らわせるために、ふんと勢いよく鼻を鳴らした。
若文が言葉を続けた。
「車イスに乗ってたけど、彼女、どれくらい足が悪いのかな?」
「……どれくらいって?」
「手すりや補助器具があれば何とか歩けるくらいなのか、本当にまったく足が動かないのか。それによっちゃあ俺たちの仕事……っていうか、接し方も変わって来るじゃん?」
和隆は昨日の教師の口ぶりを思い返した。
あれは「全治何ヶ月かの怪我を負ったので、完治するまでの間みんなで面倒を見てあげましょう」だとか、そんな感じではなかった。
彼女は恐らく、この先一生、車イス生活なのだろう。
裏門で見た彼女の細い足を思い出す。あの感じでは、自分で立つこともままならないのではないだろうか。
☆
しばらくして遥が登校してきた。
腕を大きく動かして車イスを前進させて、桜の花びらの舞う道をやって来る。
その後ろには車イスを押して補佐してくれる者の姿はなく、相変わらず彼女は一人だった。足元を見下ろし、機械のように規則的な動作で車イスを転がしている。口パクで何かを呟いてるのが見て取れた。また昨日のように、心の中で「いーち、にぃーい、さんまの、しっぽ……」と数え唄を歌っているのかもしれない
緩やかな坂を登り切って学校の敷地内に入り、彼女はふぅと大きく息をついた。
和隆と若文は少女に歩み寄り、声をかけた。
「おはよう、春川」
突然声をかけられ、彼女は驚いたように顔を上げた。
「あ……お、おはよう」
上履きに履き替えているのにこんな所に突っ立っていた和隆らを見上げ、遥は不思議そうに首を傾げた。
「こんな所で何やってるん? 誰か友達でも待っとったん?」
「お前を待ってた」
「え?」
「ええと、ほら、その……遥係り」
和隆が言うと、彼女は「あ、ああ……」と頷き、申し訳そうに顔をしかめた。
「そうか、私が登校してくるのを待っててくれたんか……。わざわざごめんな」
彼女はひどく恐縮していた。
並んでグラウンドを横切りながら、遥が和隆に言った。
「昨日はHRの時、庇ってくれてありがとうね」
「別に……俺は何もしてないよ」
実際、和隆は何もしていなかった。
冷たい言葉の雨に打たれる彼女を見て居たたまれない気持ちになって、何とかしてやりたいと思ったけれど、結局何も出来なかった。ただ立ち上がって、お前ら静かにしろよ、などと学級委員長的なセリフを吐いただけだ。
それでも彼女はううんと首を振った。
「みんながああいう反応するのは、無理ないと思う。私やって逆の立場やったら、面倒だな、同じクラスにはなりたくないな、って思ってたかもしれへんし……。それなのに、あんな空気の中、みんなのことをいさめてくれて……だから、ありがとう」
彼女はぺこりと頭を下げた。
顔を上げて、嬉しそうに目を細めて微笑む。長い髪の毛がさらりと揺れる。
改めてこんな風にお礼を言われても恥ずかしい。何となくばつが悪くなり、和隆はもう一度「俺は何もしてないよ」と言った。
「ええと、二人の名前は……赤坂和隆くん、やっけ?」
「ああ。で、こっちは渡辺若文」
「以後よろしく!」
隣を歩く若文は、八十年代の好青年のようにピッと指を振って挨拶した。
「赤坂くんには裏門の時といい、お世話になりっぱなしやなぁ」
「裏門? なになに、裏門で何かあったの?」
若文が首を突っ込んできた。
遥が簡単に説明する。
「裏門の所はちょっとした坂になってるやんか? 昨日の朝、そこを無理に通ろうとして倒れそうになったのを、赤坂くんが助けてくれてん」
「へえ、そんなことしてたんだ、お前」
「まあ……な」
あの時は倒れそうになった遥を受け止めようとして、思わず彼女を抱きしめる形になってしまった。
その時のことを……超至近距離でお互いに見詰め合った時のことを思い出し、和隆はなんとなく気まずい気分になって赤くなった。
ちらりと遥のことを見下ろすと、遥も和隆のことを、ちらりと長い髪の毛の隙間から見上げているところだった。
一瞬、二人の視線が絡み合う。
まるで小学生の男女のように、二人は顔を赤らめて慌てて視線を逸らした。
急に赤くなってそわそわしだした二人を見て、「どうしたんだ?」と若文が不思議そうに首を傾げていた。
「そ、そんなことより、それ何なん?」
話を変えるべく、遥が若文のポケットからジャラジャラと覗いているたくさんの携帯ストラップを指差した。
「ずいぶんと沢山、ストラップを付けてるんやね? それ全部、ご当地もののゆるキャラ人形?」
「ん? おお、よくぞ聞いてくれました! これはね、実は今年の春休みに自転車で香川に行った時に買ってきた奴で……」
彼は和隆が買ってきたストラップを使って、さっそく楽しげな口調でナンパトークをしていた。
☆
一行は校舎の玄関前に到着した。
下駄箱が並んでいるフロアに上がるには三段の小さな階段を上らなければならないのだが、そのたった三段の段差ですら、車イスの彼女は自力では登れなかった。教員用の下駄箱の方に設けられているスロープを使い、大きく迂回して段差をクリアする。
3-1の下駄箱へ。
「よいしょ、っと」
彼女は下半身を覆っていたベージュ色の膝掛けをめくり、自分の足を持ち上げた。車イスのフットレストに乗せていた足を引き寄せ、靴を脱がし、上履きに履き替える。
靴を履き替えるという常人には何でもない動作も、車イスの彼女には大変そうだった。
上履きも外履きも全然汚れておらず、新品同様にピカピカのままだった。
靴を履き替えている彼女の姿を見守りながら、和隆はひとり言のように呟いた。
「やっぱり靴、履き替えるんだな」
何気なく口にしてしまったが、すぐにハッと気付いた。
今のは、嫌味だっただろうか?
どうせ歩けないんだし、わざわざ靴を履き替える必要があるの? だとか、そんな悪意のある風に受け取られはしないだろうか?
「あ、いや、その……」
慌ててフォローしようとしてあたふたとしている和隆を見て、遥は静かに微笑んだ。
「そんなに気を遣わんといて。普通に接してくれてかまへんよ」
逆に気を遣われてしまった。
和隆は気まずげに口をつぐんだ。
「……すまん」
普通に接してくれと言われても、なかなか難しいものがあった。今まで車イスの人間と触れ合ったこともないし、なんだか気後れしてしまう。
意識しないようにと意識するたびに、その思いは強くなってしまった。頭のどこか片隅で、「障害者」という単語がチラチラとちらつく。
和隆は遥に尋ねた。
「靴を履かせるの、手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。平気。自分で出来ることは、なるべく自分でするようにしてるから。時間かかってごめんやけど」
「そんなことは気にするなよ。なあ?」
同意を求めるように話を振ると、隣の若文も頷いた。
「ああ。ゆっくり自分のペースでやりゃあいいさ」
膝掛けがめくれ、スカートの裾から細い足が覗いていた。
ふと、和隆の脳裏に、ある疑問が浮かんできた。
この子はいつから、車イスで生活をしているんだろう?
生まれつき足が悪いのだろうか? それとも最近、事故か病気をして車イス生活に?
まだ出会って二日目だし、足のことを訊くのは失礼だろうか? もし話しにくい事だったら、質問するのも悪いし……。
そんな事をゴチャゴチャと考えていると、隣に突っ立っていた若文が遥に尋ねかけた。
「ところでさ、どうして遥ちゃんは車イスに乗ってんの? 生まれつきの病気か何か?」
「うぉい!」
和隆は思わず盛大にツッコんだ。
旧友の首根っこを掴んで後ろを向かせ、ひそひそと忠告した。
「おい、いきなり何を言いだすんだよ、若文!?」
「いや、だって気になるじゃん?」
旧友はあっけらかんとした表情をしていた。
「同じクラスメートなんだし、いつか誰かが訊くでしょ?」
彼は基本的には気さくなイイ奴なのだが、ノリが軽いのが玉に傷である。遠慮という言葉を知らんのか。
「だからって、もっと言い方とか、タイミングってもんがあるだろ」
「そうかな?」
「そうだよ」
ひそひそと内緒話をしていると、背後の遥が笑って言った。
「ええよ、ええよ。何でも質問してくれて」
彼女はまるで動じてはいなかった。
和隆は複雑な表情を浮かべながら、遥の顔を見詰めた。
自分は、一方的に彼女に対して気を回し過ぎているのだろうか?
これではまるで、腫れ物に触れるような……おっかなびっくりとした対応だ。これならばまだ、若文の接し方の方が着飾らないというか、誠実なのではないかという気もした。
距離感が分からない。
そんな和隆の戸惑いや躊躇いもひっくるめて、彼女は優しく微笑んでいた。
「聞いてもつまらん話やけど……」
そう前置きして、遥は先程の若文の質問に答えた。
「中一の時にな、交通事故に遭ってしもてん。で、車体に足が挟まって……それから足が動かんようになってしもた」
彼女は話しながら、ベージュ色の膝掛けに隠れた足をさすった。
中学一年生。
小学校を卒業し、ようやく個人の世界が広がり始めた頃ではないか。
何もかもがこれからというまさにその時、彼女はいきなり両足を失い、車イスでの生活を余儀なくされてしまった。
その時の彼女の絶望は、いかほどだっただろう。
「そっか……」
和隆は当たり前のように動き、思うがままに歩くことが出来る自分の足をチラリと見下ろした。
三人の間に気まずい沈黙が生じた。
周りの生徒たちの明るく楽しげな話し声が、いやに大きくうるさく聞こえた。学生たちの軽やかな足音が、和隆らの傍らを通り過ぎていく。
気まずい空気を振り払うかのように、遥が切り出した。
「ねえ、スヌーピーって知ってる?」
「……スヌーピー?」
和隆は小首を傾げた。あの世界一有名な白いビーグル犬のことか?
遥の座る車イスのグリップ部分には、小さなスヌーピーの人形がぶら下がっていた。よく見ると学生カバンにも、別種のスヌーピーのキーホルダーが取り付けられてあった。
「私はスヌーピーが大好きやねんけど、ある話の中で、スヌーピーがこんな事を考えるシーンがあるねん。『YOU PLAY WITH THE CARDS YOU'RE DEALT.WHATEVER THAT MEANS』って」
彼女は奇麗な発音である英文を読み上げた。
「……どういう意味?」
「『配られたカードで勝負するしかないのさ。それがどういう意味であれ』って感じかな」
犬のくせに中々深いことを言う奴だな、と思った。
というか、あいつは喋れたのか?
遥は自分の足を見下ろした。
「人間生きていれば、色々あるわ。宝くじに当選する人がいる一方で、お金を騙し取られる人がいる。大きな花を咲かせる人がいる一方で、蕾のまま枯れてしまう人がいる……。この足が……この不幸が私に配られたカードなら、私はそれを受け取って、全力で勝負するまでだよ」
そう語る彼女の横顔は、自分の前に立ちはだかる障壁などには屈しない強さがあった。
気高さ、凛々しさといってもいい。
車イスの少女。
自力では歩けない彼女。
和隆は「自分と同い年なのに、こんな体になってしまって可哀想に」などと勝手に引け目を感じて痛ましい気持ちになっていたが、けれど彼女は、そんな他人の独善的な同情や気遣いとは別の次元に立っていた。
その魂の在り方は孤高である。
思わずちょっと見惚れてしまった。
少し格好つけ過ぎたと思ったのか、彼女は照れたようにはにかんだ。
「さすがスヌーピー、いいこと言うよね」
遥はとぼけたような顔をして揺れているキーホルダーを、こつんと指先で突っついた。