4-7.青空美容室2
―8―
「ったく……」
和隆は腰に手を当てて、逃げて行く少女たちの後ろ姿を見送った。疲れたように、ハァと深いため息をつく。
「なんだったんだ、あいつらは?」
「さあ……? でも、かわいい子たちやったね」
遥は自由気ままに駆けていく少女たちの後ろ姿を眺め、愉快そうにニコニコと微笑んでいた。
「かわいい? あれがぁ?」
散々茶化された和隆は、ひどくうっとおしそうな表情を作った。
閑話休題。
和隆は遥のヘアカットに戻った。美容ハサミを持ち直す。
「しっかし髪の量が多いな、お前」
「そう?」
頭が重いというか、切っても切っても彼女の髪の量は減らなかった。既に二人の足元には大量の毛が散らばっていた。
ある程度全体を短くし終えた後は、全体のボリュームを抑えるためにすきバサミを入れていった。
今のところ目立った失敗もなく、ヘアカットは順調に進んでいた。
「さて、と……」
和隆は一息ついて遥の正面に回り込んだ。
とりあえず後ろやサイドは何とかなったが、問題は前髪である。
前髪を失敗したら、今までの全てが台無しになってしまうだろう。美容師のお兄さんからも「前髪は特に注意してね」と忠告されていた。
「どうすっかな……」
どうハサミを入れたらいいものかと、美容師のお兄さんの教えをブツブツと呪文のように復唱したり、テーブルの上に置いたヘアカットの入門本と何度もにらめっこをした。
遥の前髪を持ち上げたり、撫でつけたりして、眉間にシワを寄せながら真剣な顔をして悩む。
そんな和隆の様子を見上げながら、彼女はくすりと小さく微笑んだ。
「赤坂くん、変な顔してる」
白いシーツをてるてる坊主のように纏ったまま、彼女はのん気に屈託なく笑っていた。
「笑ってる場合かよ。ここを失敗したら、すげー悲惨なことになるんだぞ。お前の頭が」
遥は楽観的な口調で答えた。
「まあ、よほどの事がない限り大丈夫なんじゃない?」
「そんなもんか?」
「リラックスしないと、出来るものも出来なくなってしまうよ」
「それもそう……なのか?」
「リラックス、リラックス。顔が怖くなってるよ?」
彼女はスマイルと言うように、口の端に指を当ててニコッと笑ってみせた。
和隆はアドバイスされた通り、リラックスすべくふぅと息を吐き出してみた。肩の力を抜き、腕を回したりして心を和らげる。慣れない作業をしていて、肩がすごく強張っているのが分かった。
「よーし、いくか」
余計な力も抜けてリラックス出来たことだし、和隆は気を取り直してハサミを握った。
その前髪にハサミを入れる。
――ヂョキン。
ちょっと嫌な音がした。
「あっ……」
和隆の手が止まった。
思わず口をぽかんと開けて、その場に棒立ちになる。
「え、何……? 何か起きたの?」
今まで安穏としていた遥も、これには不安げな表情を作った。
和隆のことを、上目遣いにこわごわと見詰めてくる。
「も、もしかしてアレですか……? 失敗しましたか?」
「いや……ま、まあ待て。大丈夫だ。計画通りだ。万事順調です」
内心の焦りを押し隠しつつ、和隆はフォローを入れた。
「ほ、ほんまに?」
「ほんまです! すべからくほんまです!」
思わずおかしな関西弁で受け答えをする。
「ほんまにほんま? とても大丈夫とは思えない『あっ……』やってんけど……」
遥が車イスから身を乗り出して、テーブルの上に置いてあった鏡を覗きこもうとしたので、和隆は慌ててそれを体でディフェンスした。背後の鏡を体で隠す。
「あ、あんまり動くなよ! 手元が狂う」
「ちょっと鏡を見たいんやけど」
「それはほら……完成してのお楽しみという事で」
言いながら、和隆は後ろ手にぱたりと鏡を伏せた。
和隆は心の中で呟いた。
(やべぇ、前髪ばっさり行き過ぎた……)
本当は少しずつハサミを入れていかなければならなかったのに、ちょっと気を抜き過ぎて、思わずばっさりと一太刀でいってしまった。
和隆は二、三歩下がって遥の頭を見詰めてみた。
彼女の前髪は、まるで日本人形のように一直線になっていた。
前髪ぱっつん。
子供っぽく見えるというか……幽霊の貞子が座敷わらしに進化した、みたいなことになっていた。
自分のせいとはいえ、これはひどい。
「ぶっ……!」
思わず噴き出しかけた。慌てて口元を押さえて笑いを堪える。
遥が不安げというか、泣きそうな表情をしながら尋ねかけてきた。
「ねぇ、本当に私の頭は大丈夫なの?」
「う、うん……。大丈夫だ、問題ない」
和隆は笑いを噛み殺しながら頷いた。
それでも笑いを堪えきれず、ひくひくと口の端が引きつってしまう。
「なんか赤坂くんの肩、小さく震えてるんやけど……」
「ごめん……や、なんでもないっス……」
やべぇ、ツボった。
ヤバイ、前髪ぱっつんの遥ヤバイ。
なんだかすごく幼く見えて、かわいかった。
記念に写メでも撮っておくか。
しかし、いつまでも笑ってはいられない。
(さて、どうするべ……?)
一直線に切ってしまったとはいえ、彼女の前髪は元々ひどく長かったし、まだリカバリーは効きそうだった。
まだだ、まだ終わらんよ。
とにかくここから何とか挽回しよう。
ハサミを真横から入れたのがそもそもの間違いだった。和隆はハサミを縦に持ち直し、ちょこちょこと少しずつ彼女の前髪をカットしていった。
さらにすきバサミをも活用して、前髪を自然な感じにばらけさせようと試みた。ぱっつんになってしまった前髪を全力で誤魔化しにかかる。
ここまでくると、ヘアカットというよりオペだった。
悪戦苦闘、思考錯誤の末、なんとかヘアカットは終了した。
「うーん……こんなもんか?」
和隆は自信なさげに言いながら、静かにハサミを置いた。
とにかく、自分に出来る事は全てやった。彼女の頭をばーっと引っかき回して、細かい髪の破片などを払い散らす。
手ぐしで髪の毛を軽く撫でつけた後、伏せておいた鏡を遥に手渡した。
「とりあえずこれで完成なんだけど……どうかな?」
「拝見させていただきます」
遥は鏡を受け取り、黙って自分の頭をじーっと見詰めた。前髪をパラパラと払ったり、首をひねったりしてサイドの様子を確認する。
しばしの間、二人の間に静寂が訪れた。
和隆はドキドキとしゃちほこばリながら彼女の感想を待った。緊張の一瞬である。気分は面接試験中の就活生だった。
遥はうんと大きく頷き、明るい声で言った。
「すごくうまく切れてるやない。うん、大変気に入りました!」
「マジか?」
和隆は自信なげに聞き返した。
「なんなら今からでも美容院に行ってもいいんだぞ?」
遥はふるふると首を振った。
「ううん、この髪型が気に入ったから……。これでいい」
和隆は一歩後ろに下がって、改めて大胆にヘアチェンジした彼女の頭を眺めてみた。
背の肩甲骨ほどまであった彼女の長い髪は、今やばっさりと切り落とされていた。肩より少し上の長さの、カジュアルな感じのショートカット。
頭が軽くなり、前より明るく活動的な感じになっていた。
前髪に隠れがちだった顔も、ちゃんと表に見えている。
自分で言うのもなんだけど、初めてのヘアカットにしてはなかなかうまくいったと思う。
最初はやっちまったと思った前髪もちゃんと修正して自然な感じに仕上がったし、童顔な顔の作りをした遥にはショートの髪はよく似合っていた。すきバサミ等で髪の量を減らしたおかげで、もっさりと重くなりがちだった黒髪も空気感のあるふんわりとしたものに仕上がっている。
髪型が変わるだけで、ここまで見た目の印象も変わるものなのか。
つい先程まで貞子のように雑然とした頭をしていたのが嘘のようだった。自分でカットしたものとはいえ、思わずちょっと見惚れてしまう。
和隆は大いに頷いた。
「うん……似合ってるよ」
さすがショートカット属性歴十余年の俺。ショートカットの髪型に関してだけは外さない。
遥はくしゃくしゃと髪に手ぐしを入れた。水浴びをした犬のようにふるふると頭を振ったりする。
感動したように言った。
「おおー、頭が軽い!」
首に巻いたシーツを取り去り、遥は改めて鏡の中の新しい自分を見詰めた。
「すごいね、これが私……?」
信じられないという風に、ぽぉっと鏡を見詰めている。
今までなんとなく垢抜けず野暮ったい雰囲気を醸し出していた車イスの少女も、重たい髪をばっさり切ったことで洒脱な感じになっていた。
和隆は改めて思った。
いやぁ、やっぱりいいわ。ショートカット。
かわいさ百倍増し、という感じである。
露わになった白い首筋が眩しかった。
遥が和隆のことを見上げながら言った。
「髪切るの上手やったんやね、赤坂くん。プロになれるよ」
「それほどでもねーよ」
和隆はふふんと得意気に鼻の頭ををこすった。
それもこれも、丁寧にヘアカットの仕方や仕上げのコツを教えてくれた美容師のお兄さんのおかげである。後で菓子折りでも持ってお礼に行こうと思った。
遥は車イスを動かし、和隆の方に向き直った。
まっすぐに和隆の事を見詰めながら、お礼を言った。
「……ありがとうね。髪を切ってくれて」
もう、その目元が髪の毛に覆われて隠れることもなくなっていた。長いまつげ、綺麗なふたえの瞳が和隆の目にまっすぐに飛び込んでくる。
「ん。また何かあったら言えよ。力になるから」
「うん、ありがとう」
彼女はもう一度ありがとうと言って、にこっと爽やかに微笑んだ。
まるで髪の毛と一緒に、今まで自分の内側に抱え込んでいたごちゃごちゃとした物も切り捨ててしまったかのように、彼女はすっきりとした表情を浮かべていた。
顔を覆っていた防御壁としての長い髪も無くなったことだし、これでもう、彼女は他人の視線から逃れられなくなった。
見たくないと思ったものでも、嫌でも直視していかなければならなくなった。
ありのままに受け止め、立ち向かっていくしかない。
和隆はそっと手を伸ばし、彼女の頭を優しく撫でた。短くなったその髪に指をからませる。
「……頑張れよ」
和隆がそう言ってエールを送ると、彼女は「なんのこと?」と言ってとぼけたような表情を作った。
照れくさそうに、にへへと笑う。
ヘアカットが終わったと知って、先程の小学生の少女たちが戻ってきた。
新生ショートカットバージョンの遥を見て、少女たちは口々に感想を言った。
「お姉さん、よく似合ってるよ!」
「うん、前よりも良くなった!」
「そう? ありがとう」
遥は前髪を弄りながら、気恥しげにはにかんでいた。
失敗しなくて本当に良かったと思いながら、和隆もうんうんと頷く。
いつの間にか、和隆の隣りにキャスケット帽子を被った女の子がこっそりと忍び寄っていた。ツンツンと肘先でつつかれる。
「やるじゃん、おにーさん」
「ん?」
「これでお姉さんの好感度もアップだね!」
パチリとおしゃまにウインクしてきた。
最近の子供は本当にませてんな、と思った。
「そいつはどーも!」
和隆は微苦笑しながら、大きな手で少女の頭をこねくり回した。
和隆は予め用意しておいたホウキとちりとりで散らばった髪の毛を集め、ゴミ袋に入れた。
「じゃあこれ処分してくるわ」
「うん」
ちゃんと後片付けをしておかないと、この大量の髪の毛を見つけた人は何事だと思うだろう。
ゴミを処分して戻ると、元いた場所から遥の姿が消えていた。
木製のテーブルの上にハサミや畳まれたシーツなどが置いてあるが、遥の姿が見当たらない。小学生の女の子たちもいなくなっていた。
「あれ、どこ行ったんだ?」
和隆は首を傾げて辺りを見回した。
すると、公園の向こうから、パコーンパコーンとバドミントンの羽根を打つ軽快な音が聞こえてきた。少女たちの楽しげな笑い声が響いてくる。
見るとそこには、小学生に混じってバドミントンで遊んでいる車イスの女子高生の姿があった。
「行くよー」と言って、遥がラケットを振ってバドミントンのシャトルを打ち出している。
和隆は半ば呆れたような顔をして呟いた。
「何やってんんだ、あいつ……」
和隆はトコトコと少女らに近付いて行った。
地面に描かれたコートの中で、元気にラケットを振り回している遥に尋ねかける。
「何やってんスか、春川さん?」
「見ての通りの、バドミントンです」
彼女は「見て分からないの?」という風に言い返した。
「いや、まあ、それは分かるけど……」
「『二対二でバドミントンの試合をしたいんだけど、三人じゃ数が合わないからお姉さんも一緒にやらない?』って誘われてん」
和隆は呆れ顔を作って尋ね返した。
「……で、そのお誘いに乗ったのか?」
彼女はあっけらかんとした口調で答えた。
「乗りました」
乗る方も乗る方だが、誘う方も誘う方だな……。
少女たちもよく、車イスの人間をバドミントンなんていうさりげに運動量の激しいスポーツに誘おうと思ったものだ。
その行動力というか積極性というか……その気負いの無さに少し敬服した。
腫れ物に触れるようとまではいかないにしても、普通はそこまで積極的に車イスの人間に接していくことは出来ないだろう。
遥とペアを組んでいるキャスケット帽子の女の子が言った。
「今までずっと、私たちはお姉さんのことが気になってたんだよ。車イスで移動するの大変そうだなぁ、って。私たちに出来ることはないかなぁ、って」
バドミントンは、遥に話しかけるためのきっかけだったらしい。
少女は遥の目を見詰めながら言った。
「私の家はすぐそこのご近所さんだしさ。何かあった時は……何も無くても、気軽に声をかけてよ」
反対のコートに立っているリンゴのヘアゴムをした女の子と、猫っ毛の少女も頭上でラケットを振りながら明るく追随した。
「私たちでよければ、いつでも力になります!」
「うん。困った時はお互い様だからね」
遥は自分のことを視線恐怖症だと言った。
他人の視線が怖いと語った。
みんながおかしな目をして、私のことを見詰めてくると……。
しかし現在、目の前にいる少女たちの瞳にはひとかけらの悪意も偏見もなく、遥自身、そこに恐怖は感じてはいないようだった。
「みんな……」
じんと感動したように、少女たちの瞳を見詰め返している。
(なんだ、普通にいい子たちじゃないか)
和隆も少女たちのことを見直していた。
最初は「くそ生意気なガキ共だ」などと思ったりもしたが、なかなか感心な若者たちではないか。
キャスケット帽子の女の子が付け加えるように和隆に言った。
「何かあれば手を貸すよ。ついでに二人の仲も応援するよ」
キャピっと可愛くウインクしてくる。語尾に星マークが付いていた。
「うっせぇ、くそガキ」
やっぱり最近の子供は生意気だ、と思った。
和隆は遥を見下ろして質問した。
「それはそうと、春川。お前そんなのに乗っててバドミントンなんて出来るのかよ?」
「世の中には車イスでバスケやフルマラソンをやってる人もいるくらいやからね。競技用の車イスじゃないから小回りは効かないけど、少しくらいなら多分いけるよ」
遥はラケットをぶんぶんと振り回していた。やる気満々である。
「こう見えて私は、昔はスポーツ少女やったしね」
「そうなんだ? 何かスポーツをやってたの?」
「陸上」
「全然種目が違うじゃねーか」
どこから来たんだ、その自信は。
「せっかくだからお兄さん、審判やってよ。ついでにネット係も」
和隆は審判を頼まれてしまった。そのついでに、センターネット代わりに紐を持たされる。紐の反対は、公園の街灯にくくりつけられてあった。
「んじゃあ、試合再開するよー!」
コートの向こうに立つ、猫っ毛の少女がぶんぶんと手を振った。
少女のサービスから勝負が再開した。
遥がそれをレシーブする。
ずりずりと靴を引きずって描いただろうコートの大きさは公式のものより大分小さかったし、あくまで遊びなので相手も力を加減してくれているのだろう。
しかしそれでも、遥は車イスというハンディを物ともせずによく戦っていた。
車イスを器用に操り、飛んできたシャトルを確実に打ち返す。
足元に落ちそうになったシャトルも、身を乗り出してギリギリの所ですくい上げていた。面目躍如の大活躍である。
パコンパコンと小気味いい音が響いてラリーが続いた。
相手が打ち損じ、遥の真上にシャトルが返ってきた。
「おっ、チャンス!」
遥はすっと背筋を伸ばし、車イスに座ったままきれいなフォームでスマッシュを決めた。
シャトルは和隆の持つ紐の上を超え、相手コートギリギリの絶妙な位置に突き刺さった。
「よっしゃ!」
彼女は弾んだ声を上げて、ダブルスを組んだキャスケット帽子の女の子と「いえーい!」とハイタッチを決めていた。
「今の見た見た、赤坂くん? 我ながらナイススマッシュ」
ぶいっ、と無邪気な顔をしてこちらにVサインを送ってくる。
和隆は微笑ましく思いながら笑って答えた。
「小学生相手になに本気出してんだよ?」
「私はいつでも本気ですよ」
彼女はラケットをバトンのようにくるりと回し、やんちゃに胸を張っていた。勝ち誇ったような顔をする。
相手の少女二人は、「くそー」と悔しげに唸っていた。
「次は負けないんだからね!」
「おお、遠慮するな。そんなお姉ちゃんは叩き潰してしまえ」
和隆も横からけしかけた。
遥がブーブーと口を尖らせる。
「ちょっと赤坂くん、どっちの味方よ?」
「俺は基本的に、負けてる方を応援するタイプなんだよ」
パコンパコンとラリーは続く。
切ったばかりのショートカットの髪の毛が、風に吹かれてふわりと踊る。
昼下がりの公園の中、彼女は子供のように無邪気に少女たちと笑っていた。