1-2.遥係り
―2―
下駄箱で靴を履き替え、和隆は校舎の四階に上がった。これから一年間お世話になることになる3-1の教室に向かう。
もう先生が来てHRを始めているだろうと思い教室の後ろからこっそり中に入ろうとしたが、教室の引き戸は滑りが悪く、予想以上にガタガタと大きな音を立てた。
席についていた生徒たちが一斉にこちらを振り向く。
和隆はしまったという顔をしながらキョロキョロと教室の中を見回したが、教卓のどこにも、教師の姿はなかった。
「……あれ、先生はまだか?」
「なんだ、赤坂かよ」
現れたのが先生ではないと知ったクラスメートたちは、居住まいを崩してそれぞれ友達らとの雑談に戻った。席から離れたりして、休み時間中のようにガヤガヤと騒がしくなる。
とりあえず初日から遅刻扱いされるのは免れたようだ。和隆はふぅと安堵の息を漏らし、自分の席を探した。
「高三に進級した早々遅刻してやってくるとは、大物ですな」
一番後ろの席についていた男子生徒が声をかけてきた。
それは中学の頃から付き合いのある旧友、渡辺若文(わかふみ)だった。「よっス!」と嬉しそうに手を挙げる。
「おお、若文。また一緒のクラスか」
和隆も手を挙げて答えた。
彼とはこれで中学高校と六年間、全部同じクラスだ。
二人の名字は赤坂と渡辺なので、出席番号順に並ぶと一番前と後ろになる。初めて出会った頃は席も遠く接点はなかったのだが、いつの間にか親しい間柄になっていた。
「また一年一緒だな」
彼は嬉しそうにニコニコと笑っていた。
「いい加減お前の顔も見飽きたよ」
「そう言うなよ。俺とお前の仲じゃなぁい」
なぜか彼は、お姉口調で媚を売ってきた。
若文はずりずりとイスを引きずり、座イスごと体をこちらに向けた。
「ところでさー、和隆。春休み中お前の携帯に電話が繋がらなかったんだけど、どうかしたのか?」
和隆は何気ない口調で答えた。
「ああ、ちょっとな」
「ちょっと、なんだよ?」
「ちょっと讃岐うどん食いたくなったから、香川まで食べに行ってたんだ」
そう答えると、彼は訝しげに「香川ぁ?」と言って眉をひそめた。
「香川って……あの、四国の?」
「うん」
「県庁所在地が高松の?」」
「うん。いいとこだったよ。うどんも美味かったし」
「一人で行ってきたのか?」
「ああ。えっちらおっちら自転車で」
彼は驚きの表情を作り、大仰に叫んだ。
「自転車でっ!?」
「なんだよ、変な声出して?」
「いや、『ちょっと自転車で行ってきました』って言うけど、ここから四国まで四百キロ近くあるじゃん。それを全部、自転車で走破したのか?」
和隆は平然とした顔でまあなと答えた。
「さすがに日帰りでって訳にはいかなかったから、公園とかで野宿しながら行ってきた。途中で携帯の電池が切れたことには気付いたんだけど、まあいいかーって思って」
「はあ……」
「ついでに吉野にも寄って、桜見ながらお餅食ってきたよ。さすが桜の名所だな。すげー奇麗だった、吉野」
「はあ……」
「で、これがお土産」
和隆はゴソゴソとカバンを漁り、友人に香川県で買ってきた携帯電話のストラップを手渡した。
それは、その地方の名産品などを模したご当地マスコット、うどんのゆるキャラのストラップだった。
彼は手渡されたストラップを空中でプラプラと揺らし、呆れ顔をしていた。
「相変わらず無駄に行動力あるよな、お前。帰宅部のくせに」
「帰宅部なのは関係ないだろ」
「まったく。お前のせいで、俺の携帯は重くなる一方だよ」
若文はぶつくさ文句を言いながら、ポケットから自分の携帯電話を取り出した。
その携帯には、すでに十数個のゆるキャラのストラップがくくりつけられてあった。全国津々浦々のご当地マスコットたち。みな和隆が一人旅に出掛けては、旅先で買ってきたものだ。
どこか遠くに出掛けては、ご当地マスコットのストラップを買って帰ってくる。それが目下のところの和隆のライフワークだった。学生の身なのであまり時間も金もないが、いつか四十七都道府県、すべてのゆるキャラを制覇したい。
「こんなにプレゼントされてもいらねぇつーの」
彼は愚痴をこぼしながらも、新たにプレゼントされたゆるキャラのストラップを携帯電話にくくりつけていた。
「邪魔くさいなら、わざわざ全部付けなくてもいいんだぞ?」
そう忠告したが、彼は真面目な表情をして首を振った。
「いや、まあ、せっかくお前が買ってきてくれた物だし」
割かし律儀な奴である。
「それにね、こういう物を一杯付けてたら、初対面の女の子とも話しやすいんだよね」
和隆は首を傾げて問い返した。
「女の子?」
「話の取っ掛かりになるんだよ。これは何県のどこどこで買った、なんとかっていうキャラクターで……とか」
つまり、ナンパ目的で付けているのか? 会話のきっかけを作るいい話の種になるからと?
「何とかとハサミは使いようってね」
彼は得意げな顔をして、ゆるキャラだらけの携帯をジャラジャラと振って見せた。
「これ全部、俺が自分でツーリングして買って来たって事になってるから。そこんとこの口裏合わせは、よろしく!」
ビシッと、軍人のように敬礼をしてくる。
和隆は苦笑しながら肩をすくめた。
「ま、いいけどね」
若文は新たに加わったうどんのゆるキャラを眺めながら、質問してきた。
「お前、休みのたびにどこか出掛けてるけど、そんなに暇なの?」
「別に暇って訳じゃないけど」
「チャリンコ一つで日本中フラフラしやがって。そんなに体力有り余ってるなら、何か部活でも入ればいいのに」
和隆は高一高二と、ずっと帰宅部で過ごしてきた。
部活なり趣味なり恋愛なり。一心に打ち込めるものがあればまた違ったのだろうが、自分が長期休暇のたびに自転車に乗ってフラフラと旅行に出かけるのは……彼の言うとおり、体力が有り余っているせいだろう。
何かをしたい、何かを成さねばならないという焦燥感はあるのだが、自分の体の使い方が分からない。
で、有り余る体力を持て余して、スナフキンのように気まぐれな旅をする。
そんな和隆を小馬鹿にするように、あるいは少し羨ましそうな顔をして、彼は「この根なし草め」とやっかみ言葉を口にした。
「もしかして今日遅刻したのも、そのせいか? 今朝ツーリングから帰ってきたとか?」
「いや、それとこれとは無関係だよ」
「だったらなんで?」
「登校中な、学校のすぐそこで……」
裏門の方を指差しながら遅れた訳を説明しようとしたが、和隆は車イスの少女の名前を聞いていないことに気付いた。
「あー……なんだっけ?」
中途半端なところで言葉を区切った和隆を見詰め、若文は首を傾げた。
「なんだよ?」
「ああ、いや……。まあ、いっか。後で話すよ」
じきに先生が来てしまう。和隆は手を振って若文の席から離れた。
みんな出席番号順に座っているらしく、和隆の席は廊下側の一番前だった。夏は天国のように涼しいけれど、冬は地獄のように寒い席だ。和隆はカバンを置いて席に着いた。
―3―
しばらくして担任の教師がやって来た。
三十代の、眼鏡をかけた線の細い男。
一重の瞳とキラリと鋭い銀縁眼鏡のせいだろうか。何となくとっつきにくい印象がある教師だった。
担任は「遅くなってまない」だとか、「これから一年よろしく」などと簡単に挨拶し、その後教卓に手をつき、重大発表をするように勿体ぶった態度で生徒たちの顔を見回した。
「えー、突然だが、このクラスに転校生が加わることになった」
その言葉に和隆は反応した。
「……転校生?」
「高三で編入なんて珍しいな」
クラスメートたちもざわざわと色めき立つ。
「さっそく紹介しよう。入ってきて」
担任が廊下に声をかけた。
全員の視線が教室の扉に注目する。
ガラガラと軋んだ音を立てて、ゆっくりと引き戸が開かれた。
転校生が現れる。
皆の視線を一身に受けて3-1の教室にしずしずと入って来たのは、車イスに乗った少女だった。
貞子のように前髪が長すぎの感がある、ベージュ色の膝掛けをかけた女の子。車イスのグリップには、スヌーピーの人形がぶら下がっていた。和隆が桜並木の下で出会った、さっきの子だ。
少女は緊張した面持ちで両腕を動かし、車イスの車輪を回して教室の中に入って来た。
しんと静まり返った教室に、車イスの軋む音が静かに響く。
少女は教卓の横まで移動し、車イスを半回転させてみんなの方を向いた。
誰かが呟いた。
「車イス……」
転校生はどんな奴だと期待して教室の入り口を見詰めていたクラスメートたちは、面食らったような、期待を裏切られたような顔をしていた。
可愛い子だったらいいな、だとか、格好いい男の子だったらどうしよう、などとワクワクしながら待っていたクラスメートたちは、車イスの少女を見た瞬間、一様に口をつぐみ、異物でも見るような目をして少女のことを見詰めていた。
――転校生は障害者。
教室の空気が凍りついたような気がした。
「関西からの転校生、春川遥さんだ」
そんな空気に気付いているのかいないのか、担任は構わず少女のことを紹介した。
「見ての通り足が不自由で車イス生活を送っているので、色々と不自由することもあるだろう。みんなで助け合い、力になってあげるように」
教室内はしんと静まりかえっていた。
担任はみんなの顔を見回し、返事を期待するようにもう一度「力になってあげるよーに」と繰り返したが、誰も返事をすることが出来なかった。
クラスメートたちは戸惑い気味にお互いに顔を見合わせ、ひそひそと小声で喋りだした。言葉にならないざわめきが、さざ波のように教室中を行き交う。
何も、障害者を初めて見た訳ではない。
誰しも町中や病院などで、車イスに乗った人間を見たことがあるだろう。
でもそれは、あくまでも「自分には関係のない赤の他人」だった。
町中で車イスの人を見かけても、すぐに視線を逸らして通り過ぎる。それで許される程度の距離感。その程度の関係性。
まさか自分と同じ学校、同じクラスに車イスの身体障害者が転入してくることになるとは夢にも思わなかったに違いない。みんなどう反応したものかと戸惑い、困惑していた。
障害者。
車イスの女の子。
それがクラスメートになると言う事。
和隆は体を起こし、じっと少女のことを見詰めていた。
「はい、君からも挨拶して」
担任が遥の肩に手を置いて促した。
遥は頷き、みんなの顔を見回した。心持ち背筋を伸ばす。
「私は……」
その時、和隆と少女の目が合った。
まさか別れてすぐにこんな風にして再会するとは思っていなかったのだろう、彼女は驚いたように目を見張っていた。
和隆が黙って頷くと、彼女もこくんと頷いた。
大きく息を吸い込み、改めて正面を向いて自己紹介をする。
「兵庫県から来ました、春川遥です。こんな体なのでみなさんには色々と迷惑をかけると思いますが、よろしくお願いします」
彼女は膝に手を置いて、深々と頭を下げた。
初めての挨拶という事で方言を抑えようとしていたようだが、関西特有の独特のイントネーションは隠し切れてはいなかった。けれど、よく通る澄んだ声だった。
「みんな仲良くなー」
担任が拍手をして転校生を迎え入れた。それに釣られるように何人かの生徒がパチパチと手を叩いたが、多くの者は手を動かさずに黙っていた。
パチパチパチ。
まばらすぎる拍手が、白けたような空気の教室に響く。
微妙に間が開いた。
「ええと……」
担任はゴホンと咳払いをして、気を取り直して喋り出した。
「この通り、彼女は両足が不自由だ。階段の上がり下りも一人では出来ないし、トイレに行くのも難しい。そこでこのクラスでは、『遥係り』というものを作ることにする」
「……遥係り?」
誰かが尋ね返した。
「みんなも知っての通り、この学校にはエレベーターもないし、車イス用のトイレもないからな。誰かが手を貸してやらなければ、この子はこの学校で生活出来ないだろう。だから明日から、毎日交代でお前たちには遥の世話をしてもらいたい」
言葉を続ける。
「男子は階段の上がり下りを、女子はトイレの時に、彼女に手を貸してやるんだ」
「ええー!?」
そのセリフを聞いた瞬間、一斉にブーイングが起こった。
明確な言葉にはならなかったさざ波のようなひそひそ声が、大きな津波になった。教室中が騒がしくなる。
「何だよそれ!?」
「聞いてねーよ!」
生徒たちは口々に文句を言った。
この反応を予想し、予め覚悟していたのだろう。車イスに座る彼女は、今にも泣き出しそうな感じで、力なく自虐的に微苦笑していた。顔を俯かせる。
……ああ、またか。
そういう風に、彼女は全てを諦めたような顔をしていた。
「なんで私たちがそんなことしなくちゃならないんですか!?」
ある女子が叫ぶ。
「今年は受験だっていうのに、他人の世話なんか焼いてる暇ないよ」
「なんでこんな子がうちのクラスに……」
少女の小さな体に、鋭いナイフにも似た言葉が雨のように降り注いだ。
ざわめきは治まらない。
担任はため息交じりに言った。
「仕方ないだろ、障害者なんだから」
仕方ないだろ、障害者なんだから。
本人は意識せずに、何の気もなしに呟いたのだろうが、その言葉が遥の胸の奥深くにぐさりと突き刺さり、心をえぐったのが分かった。
予め覚悟をしていたとはいえ、心を鎧で覆い尽くすことなんて出来やしない。
言葉はいつでも残酷だ。
たやすく人の心を傷付ける。
少女の肩がビクッと震え、膝の上に置かれた彼女の両手が硬くなったのが分かった。痛みに耐えるように、ぎゅっと拳を握りしめている。
遥は居たたまれなさそうに顔を伏せていた。長すぎる前髪の陰に隠れて、彼女の表情が見えなくなる。
学校というある種の社会の縮図の中で、その刺々しいすさんだ空気にさらされて……遥の肩は、小さく震えていた。まるで雨の中の子犬のように。寄る辺ない子猫のように。
思えば先程担任の言った「お前たちには遥の世話をしてもらいたい」というセリフもひどい物だった。まるで厄介な生き物をクラスで飼うことになった、みたいな言い草だ。担任自身、遥のことを「面倒な物を背負いこまされたものだ」とでも思っているのかもしれない。
萎縮してじっと痛みに耐えている少女を見詰め、和隆は自分でも気付かぬうちに立ち上がっていた。
バンッ! と大きく机を叩く。
突然立ち上がった和隆に驚き、クラスメートたちは口をつぐんだ。
教室内は一転、水を打ったようにしんと静まり返った。みんなの視線が和隆に集まる。
一拍の間。
「……まだ話の途中だろ。黙って聞けよ」
言い終わった瞬間には、和隆は己の不甲斐なさを呪っていた。
情けない。
なんという低能さだ。
もっと他に、言うべきことがあっただろう。
これが映画やドラマの主人公ならば、人々の琴線に触れるようないいセリフを吐いてこの場を丸く収めていたのだろうが、決まりが悪くて、居たたまれなくて……ただのガキである和隆には、そんな言葉しか出てこなかった。
和隆はわざとガタンッと大きな音を立てて、乱暴に椅子に座った。誰とも目を合わさず、むすっとした顔をしてじっと正面を睨みつける。
遥は俯かせた顔を上げて、目をパチクリさせて和隆の顔を見詰めていた。
そして感謝するように目を細め、彼女は声には出さずに「ありがとう」と口の形だけで言った。
照れくさくなって、和隆は視線を逸らした。
教室内が静かになったので、担任は仕切り直した。
「ええと……と、とにかく! 彼女は人の助けがないと学校生活を送れないんだ。みんなにも力を貸してもらうぞ」
担任は強制的に言い、教室の最前列にいる和隆の方を指差した。
「ちょうどいい、赤坂。初めての遥係りはお前に任そう。まずは出席番号が一番の男女、赤坂と石川が遥の面倒をみてやるんだ」
和隆はチラリと横目で、隣の席の女子の様子を盗み見た。
彼女は髪の毛を茶色に染めていて、HR中だというのに、我関せずという風に爪の手入れをしていた。見るからに今時の女子高生、という感じの女の子である。
名前を呼ばれた彼女は眉間にシワを寄せて、舌打ちしながら小声で呟いた。
「うっわ、最悪……」
忌々しげに遥の事を睨んでいた。
担任は「この話は以上!」と手を打って話を終えた。
教卓の隣りにいる遥に言う。
「君も席に着きなさい。席はあそこだ」
「はい」
遥は車イスのハンドリムに両手をかけて、動かしだした。ゆっくりと車イスを前進させて、机の間を抜けて自分の席に向かう。
その一挙手一投足を観察するように、クラスメートたちはじっと遥の事を見詰めていた。
みんなはひそひそと声をひそめて、あるいは聞えよがしに囁いていた。
「車イスだなんて面倒くせぇな……」
「このクラス、ハズレだわ……」
「なんで俺らのクラスに……」
「障害者用の学校行けばいいのに……」
理不尽なナイフのような言葉が飛び交う。
敵意といってもいいほどきつい眼差しが、少女には注がれていた。
そんな中、彼女はピンと背筋を伸ばして車イスを進めていた。そこには先程までの怯えや、委縮した雰囲気はなくなっていた。
こんな所でくじけるな、負けるものかと強くまっすぐな瞳をしている。
遥の席は予め椅子が撤去されていた。彼女は自分の席に車イスごと納まり、じっと黒板を見詰めた。
その顔は、差別や障害など、この世のすべての物に真っ向から勝負を挑むように、凛としていた。
念のためおことわり。
設定が設定なだけにアレな描写も出てきますが、障害を持つ方を貶めるもの、差別や偏見を助長するものではありません。