3-2.青空ランチ
―2―
三年一組の教室に到着した後、和隆はいつ間山がやって来るだろうと警戒して教室の入り口を睨みつけていたのだが、ついに彼は登校して来なかった。
その後も間山は学校には現れず、不登校になっていた。
後で知った話だが、彼は家で自分の部屋から出てこなくなり、引きこもり状態になったらしい。
(お灸が効き過ぎたかな……?)
和隆はこの休日、二度とあんな事が出来ないようにと彼の家に壊れたビデオカメラを送りつけたり(データは抜いておいた)、怪文書を投函したりして間山にプレッシャーをかけていた。
元々逆境に弱い線の細い性格をしていたようだし、自分の殻に閉じこもってしまったのかもしれない。いつ警察が自宅に踏み込んでくるかと、ベッドの中でビクビクしている。
少々やり過ぎたかなとも思ったが、まあいいやと開き直った。自業自得だ。ざまあ見やがれという感じである。
そしていつの間にか、彼は「転校」した事になっていた。
何事もなかったかのように世界はまた日常を取り戻し、退屈な授業は続いていった。
四時間目の授業が終わり、昼休みの時間となった。
「終わったー」
「昼飯だー!」
勉強から解放されたクラスメートたちは、次々と猫のようにうーんと大きく伸びをした。ある者は売り切れ御免のコロッケパンを求めて、購買部目指して教室から飛び出していく。ある者は馴染みのグループで一緒にご飯を食べようと、机を動かしてくっつけ合う。途端に教室や廊下の方がガヤガヤと賑やかになった。
そんな中、遥は相変わらず一人飯だった。
自分の席にちょこんとついたまま、そそくさとカバンから弁当箱を取り出す。
その様子を眺めていた和隆は、意を決したようにすくっと自分の席から立ち上がった。
遥の机に歩み寄り、声をかける。
「今日も教室で食べんの?」
弁当の包みを広げようとしていた遥が顔を上げた。
「うん、そのつもりやけど。どうしたの?」
「ええと、その……」
なんとなく照れくさくて、気恥しくて。
和隆は視線を逸らしてポリポリと頬をかきながら、自分のお弁当箱を片手に切り出した。
「た、たまには外で食べないか? 一緒に食おうぜ」
そう誘われて、遥は面食らったような表情をしていた。
「え……。どうしたん、急に?」
「いつも教室の中じゃ息が詰まるだろ? せっかくのいい天気だしさ。たまには表で食おうぜ」
和隆は窓の外を眺めた。
そこには、抜けるような青空が広がっていた。教室に籠ってご飯を食べるには惜しいくらい、いい陽気である。
遥はしばらくの間眩しそうに教室の窓から外の景色を眺めていたが、表情を曇らせて、小さく首を振った。
「外で食べるっていっても、私は……階段の上り下りとか、大変やし……」
人に余計な迷惑をかけないようにと気を遣って、遠慮する。
「ごめんやけど、私は行かれへんわ。誰か他の人を誘ってくれる?」
しかし、和隆は引き下がらなかった。遥の前に座り込み、半ば強引に食事に誘う。
「いいじゃん、俺が外で食いたいんだよ。付き合ってくれよ」
「でも……」
「なんだよ? それとも何か? 俺なんかとは一緒にご飯は食べたくないって思ってるのか? お前なんか一人で便所飯でも食ってろって?」
「ええっ!? だ、誰もそんなことは言ってないよ!」
彼女は慌てたように、大真面目な顔をしてブンブンと両手を振った。
和隆はとりわけ気軽い口調で言った。
「だったらいいじゃん。一緒に行こうぜ。外で食った方が、絶対美味いよ」
遥はしつこく「ええと、でも……だけど……」などと消極的な言葉を呟いていた。膝掛けに覆われた自分の下半身を、ちらりと見下ろす。
けれど和隆に熱心に誘われて……最終的に、遠慮がちに、彼女は言った。
「……本当に、いいの?」
おずおずと、上目遣いに和隆の顔を覗き込んでくる。
和隆はニッと微笑みながら答えた。
「おう、もちろんだ」
「ほんとにほんと?」
「だからいいって言ってんだろ。むしろこっちがお願いしてんだよ」
そう言うと、彼女はなんだか照れたような、嬉しそうな顔をして、小さく綺麗にはにかんだ。
「ん……分かった……。それじゃあ私も、喜んで、お供させてもらうわ」
☆
「なになに、表にご飯食べに行くの?」
若文が話しかけてきたので、三人で行くことにした。
和隆は若文と協力して、遥を車イスに乗せたままえっさほいさとお猿のかごやよろしく階段を下りていった。
宙に揺られながら、申し訳なさそうな顔をして遥が言った。
「いつもごめんね。渡辺くんも、一緒に運んでもらって」
「いいってことよ。気にしなさんなって」
彼は気軽い口調で答えた。
「そういえば和隆。お前、その手どうしたんだよ?」
若文が和隆の左手の包帯を見詰めながら尋ねてきた。
「ああ、これか……?」
しばし逡巡した後、和隆はナチュラルに嘘をついた。
「料理しようとしたら、間違って包丁で切っちゃって」
間山に斬りつけられたなんて話したら、そうなった経緯まで説明しなければならなくなる。遥を守るためにも、出来ればあの事件のことは全部無かったことにしておきたかった。
事の真相には気付かず、彼は自分が傷を負ったみたいに痛そうに顔をしかめた。
「何してんだよ、ドジだなー。気をつけろよ?」
「ああ。慣れないことはするもんじゃないな」
遥が物言いたげな顔をして和隆の顔を見上げてきたが、目配せして黙っていてもらった。
「で、でも、赤坂くん……」
「いいんだよ」
彼女が無事だったのだから、自分としては他に何もいらない。
一階に到着した後、和隆は若文に尋ねた。
「それはそうと若文。お前弁当は?」
和隆の弁当は遥に持ってもらっているが、彼は手ブラだった。
「ああ、俺はいいよ。今日弁当持ってきてないし。よそで食べるわ」
「ん? だったら購買部で何か買ってくればいいじゃないか。一緒に食おうぜ」
そう言って昼飯に誘ったのだが、彼はノーサンキューという風に手を前に突き出して、静かに首を振った。
「……和隆。お前だって彼女と青空の下で、二人っきりで食事がしたかったんだろ? そのために勇気を出して誘ったんだろ? 邪魔はしないぜ」
彼は訳知り顔をして、一人でうんうんと頷いていた。
和隆は少し赤くなりつつ否定した。
「な、何言ってんだよ? 別に俺は、そんなつもりじゃ……」
「皆まで言うな。お前の気持ちは分かっている」
グッと親指を突き立ててきた。
「てめぇ、何をどう曲解しやがった」
「とにかく、俺は行くわ。渡辺若文はクールに去るぜ」
そう言って、彼は何事かを背中で語りながら、クールに去っていった。
去り際、和隆の肩をぽんと叩いて「頑張れよ!」と無駄に熱いエールを残していった。
てっきり三人で昼飯を取るものだと思っていたので、予期せず遥と二人きりになってしまい、和隆は変に意識してドギマギしてしまった。
(あの野郎、変なこと言いやがって……)
チラリと遥のことを見下ろすと、彼女の方もほんのりと頬を赤くしていた。車イスの上で赤くなって、「いや、別に……あの……ねぇ……?」などと呟きながら、膝の上に置いたお弁当箱の紐をもじもじと指先で弄っている。
和隆はため息をつきながら言った。
「ったく、あいつはろくな事を言わないな」
「でも、いい人だよね」
「……あいつがぁ?」
和隆は「冗談だろ?」という風に訝しげに眉をひそめた。
「ま、いいや。とりあえず行きますか」
和隆は遥の後ろに回り込み、車イスのグリップを握った。
二人で中庭に出る。
☆
「あそこにしよっか」
二人は大きな木の下の日陰に入った。地面には青々とした芝生が茂っている。
テニス部のコートの方から部員たちの練習の声が聞こえ、どこからか音の外れたブラスバンドの演奏が響いていた。
日差しは穏やかでいい陽気だった。風が吹き抜け、遥の長い髪をさらりと撫でる。
そこここに、和隆らのように外で昼食を取っている学生たちがいた。
「降りられる?」
遥が車イスから降りようとしたので手を貸そうとしたが、彼女はよいしょと両腕の力で体を持ち上げ、自分の力だけで器用に地面に下りてみせた。芝生の上でちょこんとお姉さん座りになる。
「うまいもんだな」
感心したように言うと、彼女はやや自慢げに胸を張って答えた。
「これでも車イス歴五年ですから」
足の位置や膝掛けを直す。
そういえば彼女は、中学一年の時に、事故で足を失ったんだったか……。
和隆は遥の車イスを見詰めた。
彼女の青春、学生生活は全て車イスと共にあったのだ。
好きな時に好きな所に行くこともままならず、ちょっとした段差にもつまずいてしまう人生。
元気にのん気に、部活だ何だと青春を謳歌している同級生たちを見ては、「どうして私だけが」と、己の動かない足を責め苛んだこともあるだろう。枕を濡らした事があるに違いない。
しかし現在、和隆の前にいる彼女はそんな色は一切見せず、元気にのん気に「さあ食べるぞー」と弾んだ声を出していた。
二人はお弁当を広げてお昼ごはんを食べ始めた。
和隆は彼女のお弁当箱を見ながら言った。
「ずいぶんとちっちゃな弁当箱だな」
「そお?」
「小学生用なんじゃないか、それ? そんなんで足りるの?」
「うん。割とお腹一杯になるよ」
育ち盛りの男子からすると、よくそんな量で夕食まで持つなと思った。
「まあ、あんまり激しい運動とかしないからね」
そう言って、彼女はパクッとご飯の塊を口の中に放り込んだ。
「その卵焼きうまそうだな」
「いる?」
「いいの?」
「ええよ。味は保証できへんけど」
「じゃあ代わりにひじきをやるよ、ひじき。丸ごと持ってけ」
「ひじき嫌いなん?」
「や、そんなことはないですよ。大好物ですよ」
彼女は笑いながら言った。
「そんな事言って、嫌いな物を私に押し付けようとしてるだけやないの? セリフが棒読みですよ」
昼下がりの青空の下。
芝生の上でお昼ごはんをパクつきながら、二人は色んなことを話した。
「ところで、こっちのうどんやお蕎麦のおつゆって、からくない? 濃すぎるっていうか」
「そうかー?」
「あんなん、よう飲めんで」
「……え、飲むの?」
「……え、飲まんの?」
二人は顔を見合わせた。軽くカルチャーショックである。
☆
和隆は改めて遥のことを観察した。
彼女はなかなか頭が良かった。この間のテストも、クラスで一番だった。全体の成績も、かなりのレベルの高さにいる。
穏やかで人当たりのいい性格をしているし、いつも朗らかだし、容姿も……なかなかにかわいい系の顔立ちをしている。
関西弁はきつく聞こえるという先入観があったが、彼女の話す方言はゆったりとしていて、聞いていてなんだか心地よかった。優しい感じがする。
チラリと、和隆は膝掛けのブランケットに覆われた彼女の脚を見下ろした。
幸せそうな顔をして、ほくほくとご飯をパクついている遥の顔を見詰める。
(どうしてこいつは……)
ふいに、会話が途切れた。
じっと見詰められていることに気付き、遥がお弁当から顔を上げた。
「どうしたん? 私のほっぺたに何かついてる?」
「いや……」
前から聞こうかどうしようかと迷っていたことがあったのだが、この和やかな空気を壊すのもなんだ。「何でもない」と和隆は首を振った。
しかし、気持ちが顔に出てしまったらしい。遥は言った。
「なにか質問? があるなら、何でも聞いてくれてええよ」
「何でもっスか?」
「スリーサイズ以外ならね」
彼女は冗談めかして微笑んだ。
「ええと……」
和隆はかなり逡巡した後、躊躇いがちに口を開いた。
「別にそれが悪いっていうわけじゃないし、ただ前から気になってた、ってだけなんだけど……」
などとたくさん言い訳を重ねた後、正面から彼女に尋ねた。
「春川は、どうしてこの学校に転入してきたんだ? 養護学校とかでなく」
今は特別支援学校というのだろうか?
そっちの方が建物のバリアフリー化が進んでいるし、整備やサポートも整っていたはずだ。車イスという事でクラスメートから白い目で見られることもなかっただろう。
小学生でもなし、わざわざ自分から突っかかってイチャモンをつけるという事はなかったけれど、教室には未だ遥を極端に避けている者は多かった。そういう学校に行っていれば、間山みたいな奴に嫌な目に遭わされることもなかったはずだ。
「うーん……」
彼女は箸を置いてしばし思案してから、喋り出した。
「家から遠くて通えんかった」
和隆は半ば呆気に取られたような顔をして答えた。
「距離の問題なのか?」
「養護学校は、一番近くてここから電車で九十分くらいの所にあってん。毎日通うには、ちょっとね」
「遠くて通えんかったって……関西からこっちに引っ越してくる時に、学校のことは考えなかったのかよ?」
娘が車イス生活者なのだから、真っ先に考えそうなことだと思うのだけど。親御さんは何をしていたんだ?
遥は表情を曇らせた。
言おうかどうしようかと迷うように、何かを言いかけては口をつぐむ。
「えと……」
「なにか、あるのか?」
なにか……他人が安易に踏み込んではならない領域にズカズカと土足で踏み入ってしまったような気配を感じ、和隆は不安げな表情を作った。やはり訊くんじゃなかったか。
遥は言いにくげに、言葉を選ぶような慎重な口調で答えた。
「私の足は交通事故に遭って動かんようになった、ってのは話したっけ? 別に隠してたわけじゃないんだけど……その時に、私の両親は亡くなってしもてん」
「……え?」
和隆は絶句した。
「事故に遭った日、私は両親と一緒に車に乗ってたんやけど、その時、前から走ってきたトラックと正面衝突して……。後部座席に座ってた私は足の怪我だけですんだんやけど、前に乗っていたお父さんとお母さんは……」
「そうか……」
知らなかったとはいえ、嫌なことを思い出させてしまった。和隆は「ごめん……」と頭を下げた。
気まずげに恐縮して顔を伏せると、遥は慌てたように明るい声を出して「別にいいよ」と手を振った。
その後、両親を失い車イス生活になった遥は、親戚の家を転々としていたらしい。
「今までは関西に住む親戚たちの家を渡り歩いてたんやけど、今度は、この町に住む父方の叔父さんの家に厄介になることになって……。この家で、八件目かな」
和隆は気難しげに眉をひそめた。
「親戚の家をタライ回し、ってやつか? ひどいな……」
よくある話とはいえ、実際に自分の耳で聞くとなると……その実例を目の当たりにしてしまって、やっぱり少し、ショックだった。
親戚の家を八件もタライ回し。
まるで厄介な荷物を押し付け合うように、「次はお前の所で面倒を見ろ」、「いいやお前の所だ」などと醜く話し合っている大人たちの姿が目に浮かんだ。
そして、そのやり取りを廊下で盗み聞きしてしまい、唇を噛みしめて涙を流す車イスの少女……。
いや、まあ、それは和隆の勝手なイメージなのだけど。
憤る和隆に対し、遥は曖昧な表情を作って言った。
「養ってくれるだけ、ありがたいと思ってるよ」
力ない微笑みを浮かべる。
公園の側に建つ、離れ付きのでかい屋敷のことを思い返した。あそこには実の家族と住んでいるのではなく、あくまで、下宿させてもらっているだけなのか。
そういえば、と和隆はある事を思い出した。
間山に襲われそうになった後、一人になった遥は「お父さんっ……お母さんっ……」と嗚咽交じりに両親の事を呼んでいた。あれは、天国にいる両親に語りかけていたのか。
ひとりぼっちの、春川遥。
下宿させてもらっている叔父の家からは養護学校は遠かったし、叔父たちの支援は望めない状況だった。だから彼女は、この普通の公立高校に通うことになったという。
遥は気持ちを切り替えるように明るい声で言った。
「でも私は、この学校を選んで良かったと思ってるよ」
「なんで?」
「養護学校卒だと、この先の進学や就職に不利になる、ってこともあるらしいしね。私も、元々夢の実現のために普通の高校に通いたいと思ってたし」
「ああ、そうか……。そういう事も考えなきゃいけないのか」
高校を卒業したらそれで終わりなわけではない。
大学に行くか、どこかの会社に就職するか……。どちらにしても、これから先も彼女の人生は続いていくのだ。この動かない足を引きずりながら。
和隆は自分の考えの足りなさを恥じた。
この先のことを考えると、やはり遥は、普通学校に通った方が良かったのだろう。足が動かない以外は至って健全なのだし。例え風は冷たくとも。
そこまで考え、ふと思った。
(……つーか、夢ってなんだ?)
遥は朗らかに言葉を続けた。
「うん……やっぱり、この学校を選んで良かったと思うよ。赤坂くんとも、出会えたしね」
そう言って、彼女は和隆の顔を見詰めながら、にこりと春風のように優しく笑った。
「……そうっスか」
よくそんな気恥しいセリフを臆面もなく言えるな、と思った。
和隆はどう反応したものかと、若干照れて赤くなりながら答えた。
「……お前さ、天然って言われない?」
「えー?」
彼女は不思議そうに小首を傾げていた。