2-5.物理準備室A
―7―
和隆は遥の姿を探して職員室にやって来ていた。
職員室の中をキョロキョロと見回し、担任の教師を見つける。担任は昼飯のうどんをすすっている所だった。遥や間山の姿は見えない。
担任に近付き、声をかけた。
「先生、春川との話って終わったんですか?」
「ん、春川? 春川遥がどうかしたのか?」
「話があるって呼んだんでしょ?」
担任はうどんをすすりながら首を傾げた。
「うん? いや、私は知らないが?」
和隆は訝しげな表情をして尋ね返した。
「あれ……先生が春川を職員室に呼んだんじゃなかったんですか? 遥係りだった間山に頼んで」
「さあ、私じゃないぞ。職員室にも来ていない」
「……え?」
和隆は首をひねりながら職員室を後にした。
教室にいた騒がしい三人娘によると、間山が「先生が呼んでいる」と言って遥を連れ出したらしいが……実際には、二人は職員室には来ていなかった。他の先生たちにも確認してみたが、遥の事で間山に伝言を頼んだ者はいなかった。
(間山が嘘をついて、春川をどっかに連れ出したのか……?)
そう考えるのが妥当だろう。
嫌な予感がした。
ドクンドクンと和隆の動悸が早くなっていた。耳の奥で、自分の心臓が脈を打つ音が強く聞こえた。
とりあえず渡り廊下を渡って一般教室棟に戻った。
「どこに行ったんだ、あいつら……?」
ブツブツ呟きながら階段を上がる。
四階の最上段に腰掛けてだべっている男子生徒たちがいたので、彼らに質問してみた。
「ちょっと訊くけど、お前らってずっとここにいた? この階段を車イスの女の子を連れた奴が下りていかなかったか?」
「ん……?」
彼らはお互いに顔を見合わせた。
「車イスの子なら、さっき渡り廊下を通って向こうの校舎に行ったよ。後ろを目の細い奴が押して歩いてた」
「ああ、そういやなんか変な鼻歌歌ってたな」
その言葉を聞き、和隆は礼を言って走り出した。よそのクラスの教師に「廊下を走るな!」と注意されたが、構うものか。
渡り廊下に出る。
外に出た途端、強い風が頬を打った。黒い雲がすごいスピードで空を滑っている。雨が斜めに降りつけていた。
和隆は特別教室棟に入った。
こちらの校舎はひどく静かだった。今までいた一般教室棟と比べると、まるで別の次元のようにしんと静まり返っている。
遥は車イスなのだし、彼女たちはこの四階にいるのか?
いや、間山に仲間がいたとしたら、どこにでも担いで連れていくことが出来るか……?
天井のスピーカーからピンポンパンポーンという軽快な音楽が響き、『体育倉庫の鍵を持っている生徒は、至急職員室に戻してくださーい』という旨の校内放送が流れた。
和隆は、うるせぇ、今はそれどころじゃないんだよと八つ当たり気味に天井を睨みつけた。
雨はザーザーと降り続き、世界を陰湿に湿らせている。不吉な考えばかりが脳裏をよぎった。
とりあえず廊下を進む。
歩を進めていると、廊下の向こう、校舎のどん詰まりの所に白い何かが転がっていることに気付いた。
近付いて拾い上げる。
「これは春川の……」
それは、小さなスヌーピーの人形だった。遥の車イスのグリップにくくりつけられていた物だ。
和隆は横手を見た。
すぐ脇に、物理準備室の扉があった。
☆
準備室の中で、何か物音が聞こえたような気がした。
誰かが争うような……くぐもった悲鳴のようなものが聞こえた。聞こえたような気がした。
「まさか……」
和隆はスヌーピーの人形を握ったまま、呆然と硬直していた。ゆっくりと目を見開き、物理準備室の扉を見詰める。
まさか、この扉一枚挟んだ向こう側に、彼女たちが……?
もう一度、無理に口元を押さえつけられたようなくぐもった少女の悲鳴が聞こえてきた。
和隆は飛び付くように準備室の扉に手をかけた。
しかし、扉には鍵がかかっていた。
引き戸はガタガタと揺れるだけで、開かない。
その音に反応し、室内で何者かが息を飲んだのが分かった。
緊張が走る。
――やはり、中に誰かがいる。
「そこにいるのか、春川っ!?」
ドンドンと扉を叩きながら和隆が叫ぶと、扉の向こうから「んんっ……!」という鈍い呻き声が、切羽詰まった少女の悲鳴が返って来た。
……合鍵を取りに行っている暇はない。
和隆は思い切り扉を蹴りつけた。
助走をつけて体当たりをブチかます。
ガタンッと大きな音を立てて、扉が外れた。
扉を押しのけ、和隆は部屋の中に乱入した。
「春川ぁ!」
カーテンの閉ざされた、薄暗い部屋。
ビーカーや天秤などの実験道具で溢れかえった薄暗い物理準備室の床には、もぞもぞと蠢く影があった。
細かいホコリが宙を舞っている。砕けたビーカーの破片が、光を反射しながら地面に散らばっている。
そこには、四つん這いになった間山がいた。目を見開き、焦った顔をして和隆のことを見上げている。
そして、その体の下には……遥がいた。
制服のブラウスを左右に引き裂かれ、ブラと白い素肌を露わにされた遥がいた。
彼女の髪の毛は振り乱れて床の上に乱雑に広がっており、間山に馬乗りにされていた。上から手と口元を押さえつけられて拘束されていた。怯えたような顔をして、涙のにじんだ瞳で逆様に和隆の事を見上げていた。
薄暗い密室の中。
無理矢理地面に組み敷かれている遥と、それを押さえつけている間山。
そこに乱入してしまった和隆。
三人はお互いに呆然とした瞳で見詰め合っていた。
誰も何も言わない。
一瞬、世界が止まってしまった気がした。
☆
和隆は呆然と目を見開き、間山の事を見下ろした。
「何してんだよ……」
我知らず叫んでいた。
「何してんだよっ!?」
間山の事を睨みつける。
ぶわっと、全身の肌が粟立っていた。体中の血液が逆流したみたいに、一瞬で体がカッと熱くなる。
間山は慌てて遥の上から飛びのいた。緩めていたズボンのベルトをカチャカチャ鳴らして締め直す。
挙動不審に、どもりながら彼は言った。
「ま、ま、まあ、待てよ……。これは、その……ご、誤解だ!」
「なにが誤解だ! どう見てもこれは、これは……!」
レイプじゃないかと叫ぼうとしたが、途中で言葉に詰まってしまった。遥の前で直接的な言葉を使うのは気が引けた。そのままむぐっと口をつぐむ。
叫ぶ代わりに、和隆はずんずんと準備室の中に割って入って行った。床に倒れた遥を庇うように、彼女の前で仁王立ちに立って間山と対峙する。鬼のような形相をして間山の事を睨みつけた。
「あ、赤坂くん……」
背後の遥が、和隆のことを見上げて呟いた。
「お、お、落ち着けよ。これは……ちょっと魔が差したんだ! 彼女とは何もなかった!」
間山は和隆の眼差しに気圧されながら、怯えたようにしどろもどろに言い訳を重ねた。どもりながら必死にわたわたと両手を振る。
「じょ、冗談だよ。ちょっとした悪ふざけさ。本気じゃなかった……まだ何もしてないって!」
「ちょっとした悪ふざけだぁ? まだ何もしてないだぁ?」
和隆はチラリと遥のことを見下ろした。
ブラウスの胸元を引き裂かれて、ビクビクと震えている少女。
これで何もなかっただと?
何もしていないだと?
それ以上の事なんて、あってたまるか!
「だって、だって……仕方ないじゃないか! こっちは受験だ何だで自分の事で手一杯なのに、新学期早々遥係りなんて作られて……ムシャクシャしてたんだよ。遥係りなんて馬鹿らしい……こ、これくらいのご褒美、恩返しがあって当然じゃないか!」
間山は痙攣するような、引きつったようなヘラヘラとした笑みを顔面に張り付けていた。抜け抜けと、身勝手なことばかり並べ立てる。
そして、同類を見るような瞳で、和隆の顔を覗き込んできた。
「赤坂……君だってそうだろ? ヤりたかったんだろ? だから彼女に優しくして、手懐けようとしてたんだ」
「ああ?」
「な、なんなら君が先にヤってもいいよ。順番を譲るよ。僕は後でいい……」
この状況で、よくそんなセリフが吐けたものだ。
和隆は半ば呆れたように言葉を失っていた。
「もういい……何も言うな」
これ以上彼の言い訳を聞く気にはならず、また理性が抑えきれず、和隆はぐっと拳を握りしめて、間山の顔面をぶん殴っていた。
「うがっ……!」
間山は呻きながら吹っ飛んだ。
鼻血を垂らして地面を転がる。
拳を振り抜く時に間山の歯に当たって切れたのか、和隆の拳にも血が滲んでいた。
少女強姦なんていう大それたことを仕出かしたのだからもっと残忍な性格をしていて、逆ギレして激しく挑みかかってくるかと思ったが、倒れた間山は、そのまま無様にもがいていた。怯えたようにあわあわと叫んで、鼻を押さえて地面を転がっている。
弱者の前だととことん気が大きくなるが、予定外の事が起きたり逆境に立たされたりすると、途端に肝が小さくなるタイプか?
間山は突然の第三者の登場に大いに動転し、狼狽し、完全に腰が引けていた。
「や、止めろよ! 殴るなよ! い、痛い、止めて! 暴力反対っ!」
和隆は、床にビデオカメラが転がっている事に気付いた。録画中の赤いランプが灯っている。
「このカメラを使って、今後も春川の事を脅すつもりだったのか? この映像をバラまかれたくなければ、って?」
余計にむかっ腹が立った。
和隆は眉間に深いシワを刻み、思い切りカメラを蹴り飛ばした。ビデオカメラは壁に激突し、パーツが弾けて停止した。
「おい、立てよ」
ドスの利いた低い声で言い、間山の襟首を掴んで無理矢理引きずり立たせる。
「ち、違うんだ……これは違うんだ! ただちょっと、受験のプレッシャーだとか家のゴタゴタとかで気が立っていただけで……つ、つい魔が差したんだよ!」
彼はこの期に及んでも、まだ必死に言い訳を重ねていた。息継ぎをするのを忘れたみたいに、早口に弁明を垂れ流している。忙しなく手を動かしている。まるで自分こそが被害者だ、というように。
何が「つい魔が差した」だよ。カメラを用意したり、予め物理準備室の鍵を拝借しておいたり……全部が全部、計画的犯行じゃないか。
「自分が何をしたのか、分かってんのか!?」
自力では歩けない……逃げることが出来ない車イスの女の子を、人気のない所に連れ込んでの強姦未遂。手口が悪質すぎる。虫唾が走った。
和隆は間山の顔を睨みつけ、シニカルに笑った。
「良かったな。これでもう、受験だ何だに悩まされることも無くなったぞ」
少年院だか刑務所だか知らないが、こんな奴は塀の中にぶち込まれてしまえばいい。
「家族も悲しむだろうなぁ、おい」
和隆がそう口にした途端、間山はさぁっと青ざめた。
「……か、家族やママは関係ないだろ!」
和隆の手を払いのけて突き飛ばしてきた。呼吸困難に陥ったみたいに、ハァハァと息を荒げている。声が震えている。
家族、母親。
それがこいつのウイークポイントか?
怒りの収まらぬ和隆は、ふんと鼻を鳴らしてさらに間山のことを罵り、挑発した。
「息子が性犯罪者だと知ったら、父親や母親はどう思うだろうな?」
「ううっ……」
とにかく、こんな薄暗い所に引き籠っていないで明るい場所に引きずり出してやろうと彼の腕を掴もうとしたのだが、その途端、間山は怯えたように「ヒッ!」と短く悲鳴を挙げた。制服のポケットに手を突っ込む。
「ぼ、僕に触るなっ!」
間山はポケットから引き抜いた右手を一線させた。
空中にキラリと光が走る。
「痛っ……!」
いざという時はこれで遥の事を脅しつけようと思っていたのか……間山は、ポケットに小さなナイフを忍ばせていた。掴みかかった和隆の左手を切りつける。
和隆は舌打ちしながら左手を引っ込めた。手のひらから鮮血が溢れ出してきた。白いリノリウムの床に、ポタポタと赤い血痕の花を作る。
背後の遥が息を飲んで叫んだ。
「あ、赤坂くんっ……!」
間山はガタガタと震える手で、銀のナイフを構えていた。怯えたような瞳をして、和隆にナイフを突き出す。
「ぼ、僕のせいじゃないぞ。君が邪魔をするから……き、君さえ現れなければ、全てはうまくいってたんだ……君が悪いんだ!」
「……っの妄想野郎!」
和隆は思い切り上段蹴りを繰り出した。
鋭い蹴りが、ナイフを握る間山の手を直撃した。
ゴリッと鈍い音を立てて彼の指はひしゃげ、その手からナイフが転がり落ちる。
「歯ぁ食いしばれ!」
そのままの勢いで、和隆は血の滲む左手で間山の襟首を捕まえ、もう一度その顔面を殴りつけた。拳を振り抜く。
間山は体勢を崩しながらも出口の方に転がり、「わああああああああ!」と叫び声を上げながら、物理準備室から飛び出していった。
バタバタと足音が遠ざかって行く。
☆
「待てっ!」
すぐ様間山を追いかけようとしたのだが、このまま遥を一人置いていくわけにもいかない。
和隆はゆっくりと後ろを振り返り、改めて、遥の事を見下ろした。
彼女はぺたんと床にお尻をつけて座り、服の前を両手でかき抱いて隠していた。引き裂かれたブラウスをぎゅっと押さえて閉じている。
まるで雪山で遭難した登山者のように、彼女はカタカタと小さく震えていた。放心したような瞳をして、和隆の事を見上げている。
制服のブラウスを引き裂かれただけで、他に異常ないようだった。なんとかギリギリ、強姦未遂止まりで終わらせることが出来たらしい。
しかし、和隆はほっと胸を撫で下ろすどころか、苦渋に満ちた表情を作っていた。
事件が未遂に終わったからといって、それがどうしたというのだ。
実際に襲われた彼女の恐怖心、心の傷はいかほどだろう?
目の前に欲望を剥き出しにした人間が迫っているというのに、逃げられない。逃げ出せない。足は動かず、ろくに抵抗も出来ないまま押し倒されて、洋服を引き裂かれて……。きっと、死ぬほど怖かったに違いない。
「春川……」
和隆は痛ましげに、呻くように彼女の名を小さく呼んだ。
そっと遥の側に歩み寄り、ひざまずく。
「……大丈夫か、怪我はしていないか?」
そう語りかける和隆の顔は、今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「わ、私の事より、赤坂くんの方が……手を切られて、ち、血が……」
遥は血の滴り落ちる和隆の左手を見詰めながら、動転したように震える声で言った。
精神が不安定になっている時に血を見せるのはまずい。
「こんなんかすり傷だよ。大した怪我じゃない」
和隆は気軽い口調で答え、自分の体の陰に左手を隠した。
事件の元凶はいなくなったというのに、遥は未だ、怯えたように、凍えるように、ビクビクと震えていた。未だ心は平静を取り戻せていない。動転したように忙しなく視線を宙に泳がせている。
今のこの、精神が不安定になっている状態で男の自分が触れたら、余計に状態を悪化させてしまうだろうか?
そう躊躇いもしたが、意を決したように、和隆は遥の手を取った。
「あっ……」
一瞬、遥の体がビクリと震えた。
震え続ける遥の手を握りしめ、和隆は彼女の体を自分の方に引き寄せた。こつんと、彼女の額に自分の額を押し当てる。
「もう大丈夫だ。安心しろ。あいつは、もういなくなったよ。だから……もう大丈夫だよ」
和隆は遥を安心させるように、優しい声音で「もう大丈夫だから」と繰り返した。災いは、もう過ぎ去ったのだと。
遥の手は、ひどく冷たくなっていた。せめて自分の分の温もりが伝わればいいと、和隆は彼女の手をぎゅっと握りしめた。
「もう、大丈夫だから」
「うんっ……うんっ……」
遥は今にも泣きそうな顔をしながら、何度も小さく頷いた。
まるで恐れや不安が融解するように彼女の手は次第に温もりを取り戻していき、震えは治まっていった。
☆
和隆は血が付着しないように注意しながら、自分の上着を脱いで彼女に渡した。
「とりあえず、これでも着てろよ」
引き裂かれた胸元を隠させる。
「うん……」
遥は床に座り込んだまま、何とか心を落ち着かせようと大きく深呼吸を繰り返していた。自分の胸に手のひらを重ねている。
どうにか平静さを取り戻した遥は、ごそごそとスカートのポケットを漁って、一枚のハンカチを取り出した。和隆の左手を見やる。
「手、見せて……。手当てせな……」
こんな時だというのに、彼女は人の心配をしていた。
「いいよ、別に大した傷じゃないから。平気だよ」
今の彼女に、こんなものを見せたくない。
和隆は大丈夫だからと言って遠慮したが、遥は「いいから! とにかく、血だけでも止めな……!」と言って譲らなかった。心配そうな顔をして、和隆の顔を見詰めてくる。
遥に急かされ、和隆はおずおずと切られた左手を差し出した。
その傷を見て、遥は小さく呻き声を漏らした。
「うぁ……」
和隆の手のひらには、新しい生命線が出来たかのように深い裂傷が走り、ぱっくりと表面の肉が裂けていた。間山と揉み合っている時は頭に血が上って全然痛みを感じなかったけれど、改めて見ると、傷は結構エグかった。ドクドクと血が流れ続けている。今更ながら、じんじんと熱を持ったように傷口が痛み始めた。
「だ、大丈夫? 触るね……?」
遥はそっと傷口にハンカチを押し当てた。
白いハンカチはみるみる血を吸って、赤く滲んでいった。
純白に滲んでいく赤色を見詰めながら、和隆はぽつりと呟いた。
「ごめんな、春川……」
なぜ間山は春川遥を狙ったのか?
たぶんそれは、彼女が車イス生活者だからだ。
車イスさえ取り上げてしまえば、彼女はどこにも逃げられない。絶対的優位に立てる。彼は「こいつなら簡単に手籠めに出来る」とでも考えたのだろう。
自分よりも劣る者。
群れに馴染めずにいる、一人ぼっちの弱い羊。
もし遥が車イスの障害者でなければ、さすがのあいつも、こんな大それた真似は出来なかっただろう。
人の弱みに付け込んだ、人として最低の行為。
同じ男として、彼の存在を許すことは出来なかった。
それと同時に、間山の本性に気付かず、ギリギリのところまでその悪行許してしまった自分の存在をも、許すことが出来なかった。
自分がもっと早く、駆け付けていたら……。
自分がもっと、彼女のことを気にかけていたら……。
こんな事には、ならなかったかもしれないのに……。
和隆は顔を俯かせて、唇を噛みしめた。後悔が押し寄せる。
「ごめん……」
申し訳が立たなくて、まともに遥の顔を見ることが出来なかった。
しかし、そんな和隆に対し、遥は泣き笑いのような表情を作った。
「なんで赤坂くんが謝るん? 君が謝る必要なんて、全然ないよ」
「春川……」
彼女は傷を負った和隆の手を労わるように優しく撫でて、目を細めて小さく笑った。
「助けてくれて、ありがとう……」
☆
向かい合ったまま、地べたに座り込む二人。
二人の間に、しんとした静寂が訪れた。
一般教室棟にいる学生たちのにぎやかな喧騒も、ここまでは届かない。
遮光カーテン越しの弱い明かり。
棚の上に陳列している不気味なホルマリン漬けの瓶や、命を抜かれた剥製の動物たち。
ザーザーと鳴り止まぬ雨音。
狭く薄暗い部屋の中に、二人ぼっち。
「……ぅ」
今頃になって強姦されかけた恐怖心と、それが過ぎ去った安堵感などがないまぜになってやって来たのか、遥はくしゃっと顔を歪ませた。
「うぅ……」
じわっと瞳に涙が浮かぶ。
次の瞬間、せき止めていたダムが決壊するように、遥はぶわっと泣き出した。
小さな肩が震える。
嗚咽が漏れる。
涙を止めようと手の甲で目元をこするが、涙はぽろぽろと、次から次へと瞳から溢れて頬を伝っていった。
遥は小さな子供のように頬を赤くしてわんわんと泣いた。
怒りや悔しさをぶつけるように、和隆の胸に顔をうずめてポカポカと叩いてきた。小さく弱い拳が和隆の胸を叩く。
和隆は自分の胸の中でむせび泣く少女を見下ろししばし躊躇った後、遠慮がちに、彼女の小さな体を自分の方に引き寄せた。父親がやるような優しい手付きで、よしよしと彼女の背中を撫ぜた。
「うん、怖かったな……。怖かったよな……。でも、もう大丈夫だから……」
小さな少女を胸に抱く。
遥は身を委ねるように、そのまま和隆の胸に頭を預けて泣き続けた。
二人ぼっちの室内に、小さな嗚咽の声が沁みた。