表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
車イス少女  作者: 君鳥
第一章 桜並木と車イス
1/23

1-1.桜並木と車イス


  ―1―


 四月一日。

 赤坂和隆(かずたか)は桜並木の下を歩いていた。

 風に吹き上げられた桜の花びらたちが踊るように宙を舞う。

 桜をひとひら掴もうとして手を差し伸ばしたが、それは生きているみたいに和隆の手をするりとすり抜け、風に吹かれて彼方へと飛んでいった。

 日差しはポカポカと温かく、いい陽気だった。絶好の始業式日和である。

 和隆は抜けるような青空と満開の桜を見上げながら呟いた。

「今日から三年生か……」

 高校一年生、入学したての頃はブカブカだったこの制服も、いつの間にだか体にぴったり合うようになり、そして今では少しきつい程だった。

 母親に制服を新調したいと言うと、「あんたは無駄に背が伸び過ぎなのよ。後一年なんだからその制服で頑張って」と言われた。「伸びてばっかりいないでたまには縮みなさい!」などと無茶なことをのたまう。そんな、尺取り虫じゃないんだから。



 みんなもう登校し終えたのだろう、和隆の他に通学路を歩いている生徒の姿はなかった。

 しかし和隆は急がない。

 このペースならギリギリ間に合うだろうと高をくくり、のんびりと桜を堪能しながら歩いていた。

「こうも暖かいと、またどこかに旅に出たくなるなぁ」

 春は出会いの季節だ。

 新たなる旅立ちの季節だ。

 愛車の自転車にまたがって、風の吹くまま気の向くまま、春の陽気に誘われてどこか遠くへフラフラと旅行に出かけたくなる。

 しかし、かといって新学期早々学校をサボるほどの度胸はないし、春休み中もツーリングに行ってきたばかりだ。これ以上フラフラしていると、またぞろ母親に文句を言われてしまうだろう。

 和隆はあくびを噛み殺しつつ、仕方なく通学路をとろとろと歩いていた。



 入学以来、和隆の人生は絵に描いたように平々凡々としていた。

 何かを見つけたくて、何かを成したくて。

 時折友達を誘って、あるいは一人で、バッグ一つ背負ってチャリンコ旅行に出かけたりするが、ロバが旅に出たところで馬になって帰ってくる訳もなし。大抵、大した事件に巻き込まれることも大きな飛躍を遂げることもなく、そのままの姿で帰ってくるのが常だった。

 どこか遠くに出掛けても、ただひたすらその場足踏みをさせられているような……空回りをし続けているような徒労感に苛まれるだけだった。何かを成さねばならないという焦燥感が増すだけだった。

 何者にもなれない自分の体を持て余す。



 今日からまた、何の変哲もない日常が始まる。

 新しい教室で新しい教科書を受け取り、去年とは少し違ったメンバーで授業を受け、受験という目に見えない魔物に急き立てられるような日々が始まる。

 同じことの繰り返し。

 退屈のリフレイン。

 和隆は、またそんな日々が始まるのだと、思っていた。

 変わり映えのしない、判で押したような日々が始まるのだと思っていた。

 そう。

 この道の角を、曲がるまでは。


  ☆


 前方に人影が見えた。

 遅刻ギリギリの時間だというのに、和隆の他にも登校中の人物がいた。

「ん……?」

 その人物は、車イスに乗っていた。

 桜の花びらが舞い降る道を、ゆっくりと車イスの車輪を転がして進んでいる。

 車イスの背もたれから、黒髪に包まれた頭部が見えた。女学生、女の子のようだ。

 通りに風が吹き抜けた。

 風が枝々を揺らし、桜の木々はざわざわと波打った。まるで踊るようにひらひらと桜の花びらが舞い、穏やかな春風が少女の髪を撫でていく。

 少女は車イスを進ませる手を休ませ、片方の手で髪の毛を押さえた。

 春の息吹を感じるように、気持ちよさそうに少女は澄んだ青空を見上げた。桜の木々の隙間から差し込む木漏れ日が、少女の顔をまだらに照らす。

 ――桜並木と車イスの少女。

 その光景は、まるで一枚の絵画のように見えた。



 和隆は少女の後ろ姿を見詰めて呟いた。

「……うちの生徒か?」

 少女はよしと頷き、車イスのタイヤの外側についた持ち手――ハンドリムに手を添えて、再び車イスを進ませだした。

「いーち、にぃーい、さんまの、しっぽ……」

 少女は何か、奇妙な歌のようなものを口ずさみだした。

 言葉を一つ喋ると同時に、ハンドリムを握る手にぐっと力を込めている。一生懸命、リズミカルに両手を動かして車イスの車輪を前に押し出している。

「ごーりーらーの、むーすーこー……なっぱ、はっぱ……くーさーあーたー、とうふっ!」



 学校というものは津波対策や、土地の値段が安いからという理由で高台のような場所に建っていることが多く、和隆の通う高校もまた、坂の上にあった。

 坂といっても健常者にはどうということもない、ごく緩やかな登り坂だ。

 しかし、車イスの人間にとってはこんな緩やかな坂でも大変だろう。見た所電動車イスでもないようだし。大変そうである。

 和隆はカバンを肩に抱え直し、小走りに走りだした。



 少女に駆け寄り、声をかける。

「よぉ、後ろ押すの手伝おうか?」

「うわっ!?」

 突然声をかけられ、少女はびっくりしたように歌うのを止めて顔を上げた。

 車イスに座っているので、少女の頭は和隆の胸の辺りの高さにあった。

 和隆と同じブレザーの制服に身を包んでいる。膝にはベージュ色の膝掛けがかけられてあった。

 車イスを後ろから押す時に介助人が握るグリップの部分には、小さなスヌーピーの人形がぶら下がっていた。とぼけたような表情をして、プラプラと揺れている。

 制服の首に巻いたリボンの色は赤。和隆と同じ新三年生だ。

(うちの学校に、車イスの女の子なんていたっけか?)

 和隆は記憶を手繰り寄せながら少女の顔を覗きこんだ。見知らぬ顔である。



「そこの学校の生徒だよな? 後ろ押すの、手伝おうか?」

 もう一度問いかけると、少女は困惑したように呟いた。

「あー、っと……」

 和隆の顔を見上げる。

「お、お構いなく……」

 間に合っていますという風に、彼女は片手を挙げた。

「大丈夫か? きつそうに見えるけど」

 少女は少し息が上がっていた。肩が小さく上下し、額に汗も浮いている。

 彼女はにこっと優しく微笑んで答えた。

「心配してくれてありがとう。でも大丈夫。先に行って。君まで遅刻してしまうよ」

(関西弁……?)

 少女の喋る言葉は標準語ではなく、微妙に訛りが感じられた。「ありがとう」というセリフも、「ありがとぉ」と下に伸ばし気味だったし。この独特のイントネーション、近畿方言というのだろうか? 関西方面のものだ。



 少女は「よいしょ!」と掛け声を出して、止まってしまった車イスを再び前進させ始めた。

 先に行ってと言われても、車イスの女の子を見捨てて自分だけ先に行くのも気が引ける。

 和隆は歩くペースを落とし、なんとなく少女の横を歩き出した。

 桜並木を並んで歩く。

 グリップにくくりつけられたスヌーピーが揺れる。

 キュルキュルと車イスが軋む音だけが、静かに響いた。


  ☆


「ねぇ……」

 少女が喋りかけてきた。

「ん?」

「さっきの聞こえた?」

「聞こえたって、何が?」

「ええと、その……私の独り言っていうか、鼻歌っていうか……」

「ああ、『ごーりーらーの、むーすーこー』とか口ずさんでたあれか?」

 そう答えると、彼女はあちゃーと顔を覆った。

「やっぱ聞こえとったんか。恥ずかしいな」

 誰もいないと思って気持ち良く歌を歌っていたら、いきなり背後から自転車が駆け抜けて行って、慌てて音量を押さえて口をつぐむあの感じ。彼女は恥ずかしそうに頬を染めた。

「でも、伸びのある、いい歌声だったよ」

 そう感想を述べると、彼女は余計に恥ずかしそうに顔を赤らめ、にゃははと照れ笑いを浮かべた。



「今の歌、数え唄ってやつだっけ? すげー久しぶりに聞いた気がする」

「ん……。なんかね、こうやって歌を歌いながら漕いでると、テンポが取りやすいんよ。腕振りの。それに数を数えるこの歌やったら、『一歩ずつ着実に、前に進んでる!』って感じがするし」

「へえ……」

 和隆は興味深そうに少女の顔を見下ろした。

「でも俺が知ってるのと、だいぶ違うな」

 そう言うと、彼女は「そうなん?」と言って子猫のように小首を傾げた。黒い髪がさらりと揺れる。

「違うって、歌の歌詞が?」

「ああ。俺が子供の頃は『いち、にぃ、さんまに、しいたけ、でっこん、ぼっこん、ちゅーちゅー、かりかり……』とか歌ってた気がする」

 和隆が指を折り曲げながら教えると、彼女は不思議そうな顔をして聞き返してきた。

「ちゅーちゅー、かりかり?」



「そ。ちゅうちゅう、かりかり。で、最後は『ですとんぱっ』って言って締めるんだ」

「ですとんぱっ?」

 彼女は初めて聞いた外国語をリピートするように、真面目な顔をして口の中で「ですとんぱっ、ですとんぱっ……?」と繰り返していた。

「ですとんぱっ……。そんな言葉、初めて聞いた気がする。どういう意味なんかな?」

「さあ? 俺も知らないまま歌ってたわ」

 そもそも『さんまにしいたけ、でっこん、ぼっこん……』の時点で意味不明である。

「でもなんか、可愛い感じがするね」

 少女はそのフレーズが気に入ったのか、車イスを操りながら、楽しげに「ちゅーちゅー、かりかり、ですとんぱっ」と口ずさんでいた。それに合わせて、リズミカルに腕を動かす。



 和隆は足を動かしながら、隣を進む少女の事をそっと見下ろして観察した。

 少女は、綺麗な黒髪をしていた。

 背の肩甲骨辺りまで伸びたロングストレート。こういうのを烏の濡れ羽色というのだろう。漆黒のように艶やかでしっとりとしていて、日光を反射して天使の輪っかが出来ていた。

 しかし、ヘアスタイルにはあまりこだわりがない性質なのか、髪の毛先は伸ばしっぱなしで不揃いだし、前髪も少々長過ぎの感があった。なんとなく貞子っぽい。

 髪の毛の隙間から覗く黒目がちな瞳は、大きくてぱっちりとしていた。長いまつげ。目鼻立ちの整った端正な顔立ち。なかなかの美少女である。



 流れるような動作で細い腕を動かし、車イスを前に漕ぎだす。

 前方を見詰めて一心に車イスを漕いでいる彼女の横顔は凛としていて、そこには、そこいらの女子高生にはない意志の強さのようなものが感じられた。

 朝靄にけぶる澄んだ湖のような、凛然とした雰囲気。

 障害なんて物ともせずに我が道を行く、という感じ。

 こんな顔をして学校に登校する少女を、和隆は他に知らない。

 綺麗だな。

 容姿云々ではなく、彼女の存在そのものが……彼女の纏う空気が、凛として気高く見えた。



「綺麗やな」

 唐突に少女が言った。

 別にやましいことを考えていたわけではないが、じっと少女の事を眺めていた和隆は、一瞬心が読まれたのかと思ってドキリとした。若干どもり気味に尋ね返す。

「え? な、なにが?」

「桜。綺麗やね」

 彼女は頭上を見上げた。

「あ、ああ……」

 二人の頭上には、まるで薄桃色の雲が漂うように満開の桜が咲いていた。ひらりひらりと花びらが宙を舞う。何の変哲もないただの通学路も、桜が咲いているだけで、映画の舞台になったかのようにドラマチックな景色に映った。

 うちの学校前の桜並木は市内でも有名だった。この桜並木を歩きたくてこの高校に進学を決めた生徒もいるとかいないとか。

 和隆は少女に尋ねた。

「もしかして、転校生?」

 彼女はこくりと頷いた。

「うん。この春こっちに越してきてん」

 三年で編入というのも珍しいな。しかも車イスの少女が、ただの公立高校に転校してくるなんて。

「通学路がこんなにも綺麗やったら、明日からこの坂道を行くんのも、頑張れそうやわ」

 彼女は眩しそうに目を細めて、桜の木々を見上げていた。


  ☆


 二人は高校の裏門に到着した。

「あー……」

 少女は裏門を見詰めて呟いた。

「そうか、ここは坂やった……」

 裏門の入り口は急斜面になっていた。今まで辿ってきた緩やかな道とは違い、結構な傾斜である。長さは五メートルもない小さな坂だが、車イスの人間にはかなり厳しいだろう勾配だった。ちょっとした小山である。

「この坂は一人じゃ無理だろ。手を貸すぜ」

 和隆は少女の背後に回り込もうとしたが、しかし、少女はふるふると首を横に振った。

「ううん。一人でやってみるわ」

「でも結構な坂だぞ?」

「今日から毎日、一人でこの学校に登校しなあかんのやからね。自分一人でも登れる道か、試してみたい」

 彼女は挑戦的な口調で言った。



 少女は車イスを動かして、学校の裏門と向き直った。

 まるでスタート直前の短距離走の選手のように、ゴールである坂の頂上を見詰める。

「よし……!」

 少女はハンドリムに指をかけた。

 位置について。

 よーい……ドン。

 少女は勢いをつけて坂に挑みかかった。

 長い黒髪が翻る。



 しかし、無情にも、車イスは斜面の途中で止まってしまった。

 後ちょっとで登りきれるというのに、そこから前に進めない。

「んんっ……!」

 少女はハンドリムを掴む手に力を込めて、体を前のめりに倒して懸命に踏ん張ったが、車輪は遅々として前に進まなかった。

 踏ん張りきれず、ぐぐぐっと、徐々にタイヤが斜面を後退しだす。

 ハンドリムを掴む指が汗で滑り、少女を乗せた車イスは真っ逆さまに坂を逆走しかけた。

「あっ……!」



 少女は慌ててブレーキをかけようとしたが、遅かった。

 車イスが斜面に対して半回転し、少女の体が車イスから放り出された。坂の下に向けて投げ出される。

「きゃあ……!」

「危ない!」

 後方で少女のアタックを見守っていた和隆は、とっさに駆け出し、両手を広げて少女を受け止めようとした。何とか少女の体をキャッチする。

 が、衝撃を吸収しきれずに体勢を崩し、二人はそのままどさっと地面に倒れ込んだ。

「痛っ……!」

 少女を受け止めるのに必死で、受け身を取る暇がなかった。強か腰を打ちつけてしまい、小さく呻く。

 腕の中の少女が慌てて顔を挙げた。

「ご、ごめん……! だ、大丈夫!?」

「そっちこそ……怪我はないか?」



 少女は和隆に抱きつくように……和隆に覆いかぶさるように地面に倒れ込んでいた。

 物凄い密着感。

 少女の小さなふくらみが、和隆の胸板に触れていた。

 目と鼻の先に、少女の顔があった。桜のように薄桃色をした小振りな唇が、目の前にある。

「あっ……」

 至近距離で目と目があった。

 数秒間。

 まるで時が止まったかのように、二人はじっとお互いの瞳を見詰め合っていた。

 すぐ側で、倒れた車イスの車輪がカラカラと音を立てて空転していた。二人の体に、雨のようにひらひらと桜の花びらが舞い落ちる。




 二人は顔を赤らめて、慌てて視線を逸らした。

「ご、ごめん、今退くから……!」

 少女は慌てて和隆の上から退こうとしたが、足が動かずままならない。和隆の胸の上であたふたとしていた。

 見た所、少女に怪我はないようだ。

 和隆はほっと安堵の息を吐き出しながら、彼女の額にチョップを繰り出した。

「とりあえず落ち着け」



 最近の女子高生は制服のスカートを膝上十数センチと短く改造してはいている者が多かったが、彼女は逆に、膝下丈の長めのスカートをはいていた。

 倒れたショックで少女の下半身を覆っていた膝掛けはどこかに吹き飛び、スカートがめくれ上がって少女の生足が露わになっていた。

 その足は、ゾッとするほどか細く見えた。

 もう何年も自分の足で立って歩いたことがないような、細く脆弱な足。靴下のゴムも、細い足首を締めつけきれずにスカスカ気味になっていた。

 何だか見てはいけないものを目の当たりにしたような気がして、和隆は言葉に詰まり、思わず視線を逸らしていた。

 乱れたスカートの裾を指先で払って手早く直し、少女を傍らに座らせる。



 和隆は転倒した車イスを持ってきた。

「一人で座れるか?」

「うん。そこ置いといてくれる? 自分で上がれるから……」

 少女は車イスを引き寄せ、自力でその座席に這い上がった。両足を引きずりながら体勢を整え、後ろ向きに肘掛けに両手をついて、よいしょと体を持ち上げる。

 その動作を見ながら、和隆は心の中で呟いた。

(本当に、足、動かないんだな……)

 彼女は自分の太ももを両手で掴み、まるで物を扱うかのような手付きで、自分の両足を持ち上げていた。車イスの足乗せ、フットレストの上に足を下ろす。

 そこまでやって、少女はようやくふぅと一息ついた。

 和隆の顔を見上げ、少女は申し訳なさそうに謝った。

「ほんまごめんな、ありがとう……助かりました」

「何にしても、怪我がなくて良かったよ」

 和隆は放り出されたベージュの膝掛けを拾い、砂ぼこりを払って少女に渡した。



 腰に手を当てて忠告する。

「あんまり無茶な事するなよ? やっぱりこの坂は一人では無理だわ。一人では通ろうとしない方がいい」

「うん、そうやね……」

 彼女は車イス生活者である自分の限界、一人で行動出来る範囲の限界を知って、やるせなさそうに頷いた。

「行けると思ってんけどなぁ……」

 顔にすっと影が落ちる。



 このまま放ってはおけないな。

 和隆は気落ちしている彼女に声をかけた。

「これから下駄箱の方に行くのか? 俺が後ろ押して連れて行ってやろうか?」

 しかし、少女はふるふると首を振って答えた。

「いや、そこまで面倒はかけられないわ。向こうで先生と会う事になってるし、そこまでは一人でも行けるから……。うん、大丈夫です」

 和隆に心配をかけないようにと、少女は健気に明るい声を出していた。

「そうか?」

「支えてくれてありがとう……じゃあ、私は行くわ」

 彼女は礼を言って、一人で車イスを操り、校舎の向こうに去って行った。



 が、渡り廊下を横切ろうとして、そのちょっとした段差に車イスのタイヤが引っかかってしまい、立ち往生していた。

「ん、あれ……?」

 少女は足元を見下ろして、車イスをガシンガシンと前後させていた。

 何だか見ていてひやひやするな。

「やっぱり手伝おうかー?」

 口元に手を当てて後ろから声をかけると、「大丈夫、平気ですよー」という気丈な返事が返ってきた。

 少女は一度車イスを引いて勢いをつけて、なんとか段差を乗り越えた。

 和隆の方を振り返って照れ臭そうにはにかんで笑い、小さく手を振って、今度こそ彼女は本当に去っていった。

 その姿が校舎の向こうに消える。



 和隆は少女が見えなくなるまで、その後ろ姿を見守っていた。

 その後、振り返って背後にある裏門を見詰めた。

 学校裏の急勾配。

 どこにでもあるような、ちょっとした登り坂。

 普通の人には何でもないような坂だけど、彼女のような車イスの人間には……一人では越えられない道だった。

 ここは古い学校だ。

 校内にエレベーターは付いていないし、バリアフリー化もされていない。

 一人では階段を上り下り出来ないし、わずか一センチの、ハイハイをする赤ん坊にだって簡単に乗り越えられる段差にも、彼女はいちいちつまづくことになる。

 こんな設備の整っていない公立の高校に転入してきて、彼女はやっていけるのだろうか?

 そんな事を考えてながら、少女の去っていった方向を見詰める。

 と、学校のチャイムが鳴った。

「しまった、完全に遅刻だ」

 和隆は腕時計を見下ろし、慌てて下駄箱の方に走り出した。


これは以前、別の場所に投稿したものに細かい修正を加えた改訂版です。

知ってる人も知らない人も、よければよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ