そして、届いた釣書は30通を超えた
エレオノーラが、
「そろそろ婚約者を考えたほうがいいかしら」
と、ティータイム中に呟いた。
それを聞いたグランディア侯爵家のメイド、侍従たちは固まった。
そして、すぐに秘密裏に会議が開かれた。
グランディア公爵家の地下にある秘密会議室では、十人の側近たちが集まっていた。
机の上には、一冊の分厚い冊子。
表紙には、
『エレオノーラ様婚約者候補・審査規定』
と書かれている。
その厚さ、三センチ。
ページ数、百二十六。
そして、審査担当は十人。
「まず確認する」
侍従長ヴィクトルが口を開いた。
「我々はそれぞれ、自分の専門分野から候補者を審査する」
「異議なし」
全員が頷く。
「ただし、最終的に婚約者を選ぶのはお嬢様ご本人だ」
ヴィクトルが念を押す。
「我々がするのは、候補者が本当にお嬢様を幸せにできる人物かを見極めること」
「承知しております」
マリアンヌが頷いた。
◇◇◇
グランディア公爵家には、異変が起きていた。
最初に届いたのは、侯爵家からの釣り書きだった。
次に、伯爵家。
その次には王都でも名の知られた公爵家。
そして――。
「ヴィクトル様」
マリアンヌが、一通の手紙を持って会議室へ入ってきた。
「どうしました?」
「第二王子殿下の側近からです」
「……第二王子?」
十人の視線が集まる。
マリアンヌは封筒を机の上に置いた。
「エレオノーラ様との婚姻を希望する旨の打診です」
「……」
沈黙。
ヴィクトルが封筒を見る。
「王族ですか」
「はい」
「なるほど」
ヴィクトルは頷いた。
「では、通常通り審査を」
「当然です」
ギルバートが即答した。
「王族だからといって、審査を免除する理由にはなりません」
「その通りです」
ノアも頷く。
「むしろ王族なら、確認すべき項目が増えます」
「外交関係も考えなければなりませんね」
マリアンヌが言う。
「王族との婚姻なら、国同士の関係まで絡みます」
「戦闘能力も」
セバスチャンが真顔で付け加える。
「王族でも、お嬢様を守れなければ意味がありません」
「健康管理も」
クララ。
「食事の好みも」
フィオナ。
「衣装への理解も」
ユリア。
「移動時の護衛能力も」
ロイ。
「魔法防御も」
エドガー。
最後に。
ヴィクトルが言った。
「では、審査を始めましょう」
――こうして。
王族候補者の審査が始まった。
◇◇◇
最初にやってきたのは、自国の第二王子だった。
王族らしい華やかな衣装。
完璧な礼儀作法。
周囲の護衛も一流。
普通なら、それだけで十分に好印象だっただろう。
だが。
「第一問」
ヴィクトルが口を開く。
「エレオノーラ様が王妃ではなく、公爵領の経営を続けたいと仰った場合、どうしますか?」
第二王子は少し考えた。
「王妃としての務めを優先していただきたい」
「不合格です」
「早い!」
ヴィクトルは淡々と書類に記入する。
『本人の意思より王族としての役割を優先する傾向あり』
「お嬢様が望む人生より、立場を優先する方にはお任せできません」
第二王子は愕然とした。
「しかし私は王族だぞ?」
「存じております」
「それだけで不合格なのか?」
「いいえ」
ヴィクトルは微笑んだ。
「王族であることは、合格条件ではありません」
◇◇◇
次に来たのは、第一王子。
自信に満ちた青年だった。
「エレオノーラ嬢とは、幼い頃からの付き合いだ」
「なるほど」
マリアが微笑む。
「では、お嬢様の苦手なものを三つ」
「……」
「好きな食べ物を五つ」
「……」
「疲れた時に出る癖を二つ」
「…………」
「不合格です」
「待て!」
マリアは首を傾げる。
「幼い頃からのお付き合いなのでしょう?」
「それは……」
「それなら、もう少しご存じかと思いまして」
「…………」
第一王子は撃沈した。
◇◇◇
三人目。
隣国の王太子。
国際的にも有力な婚姻相手だった。
「私はエレオノーラ嬢を王太子妃として迎えたい」
マリアンヌが尋ねる。
「エレオノーラ様が社交界で誰かに侮辱された場合、どう対応しますか?」
「私が相手を叱責します」
「その相手が自国の有力貴族なら?」
「それでも叱責します」
「相手国との外交問題になったら?」
「……」
「では、どうしますか?」
王太子はしばらく考えた。
「まず本人の意思を確認します」
マリアンヌの目が少し細くなる。
「続けてください」
「エレオノーラ嬢が望むなら、正式な抗議をします。本人が望まないなら、別の方法を探します」
「……」
マリアンヌは頷いた。
「社交面、合格」
王太子がほっとする。
しかし。
「次は財務です」
「え?」
ギルバートが立ち上がった。
王太子の顔から笑みが消えた。
◇◇◇
その後も。
次々と候補者が訪れた。
侯爵家令息。
公爵家嫡男。
辺境伯家の嫡男。
大商会の後継者。
隣国の公爵。
さらに――。
「マリアンヌ」
ヴィクトルが書類をめくる。
「これは?」
「他国の王女殿下からです」
「王女?」
「はい」
「お嬢様との婚姻を希望?」
「そのようです」
十人が顔を見合わせる。
「……同性婚が可能な国でしたか?」
ノアが資料を確認する。
「法的には可能です」
「では、審査を」
「当然です」
なぜか候補者の性別すら問題にならなかった。
重要なのは一つ。
――エレオノーラを幸せにできるか。
◇◇◇
そして。
二週間後。
グランディア公爵家の応接室。
机の上には、山のような書類が積み上がっていた。
「……何通あります?」
ロイが尋ねる。
ノアが数える。
「三十二通です」
「三十二……」
「そのうち、正式な釣り書きが二十七通」
マリアンヌが続ける。
「王族からの打診が五件」
「他国王族も?」
「はい」
「……」
全員が沈黙した。
ヴィクトルが一枚目をめくる。
「自国第二王子」
「不合格」
マリア。
「自国第一王子」
「不合格」
マリアンヌ。
「隣国王太子」
「一部合格。ただし財務審査で不合格」
ギルバート。
「北方王国の第三王子」
「戦闘試験で不合格」
セバスチャン。
「東方王国の王女」
「魔法試験で不合格」
エドガー。
「西方王国の公爵令息」
「食事の好みを間違えたので不合格」
フィオナ。
「……そこまで厳しくする必要があります?」
ロイが呟く。
フィオナは真顔で答えた。
「お嬢様の好きな料理を三回間違えました」
「三回も?」
「三回です」
「それは……」
ロイも黙った。
◇◇◇
別の日。
十人はまた審査をしていた。
「次の候補者です」
「どうぞ」
入ってきたのは、隣国の王弟だった。
彼は自信満々に微笑んだ。
「エレオノーラ嬢ほどの女性なら、私の妃に相応しい」
ヴィクトルのペンが止まった。
「今、何と?」
「私の妃に相応しい、と」
「……」
ヴィクトルが書類に一行記入する。
『不合格』
「まだ何も聞いていないぞ!」
「今の発言で十分です」
「なぜだ!」
ヴィクトルは穏やかに答えた。
「お嬢様は、あなたの妃になるために存在しているわけではありません」
「…………」
王弟は何も言い返せなかった。
◇◇◇
さらに別の日。
自国の有力侯爵家の嫡男が来た。
「公爵家との婚姻には、我が家にも大きな利益が――」
ギルバートが顔を上げた。
「不合格」
「まだ最後まで話していない!」
「最初の一文で十分です」
「…………」
「お嬢様の財産を目的とする方に、財務審査を受ける資格はありません」
「横暴だ!」
ギルバートは静かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「褒めていない!」
◇◇◇
そして。
三十二通。
そのすべてに目を通した。
審査した。
調べた。
試験した。
結果。
「……残りましたね」
クララが言った。
机の上には、三十二通の釣り書き。
その横には。
大量の不合格通知。
「二十九名、不合格」
ノアが記録を確認する。
「三名、再審査」
「王族は?」
マリアンヌが尋ねる。
「全員、再審査または不合格です」
「他国王族も?」
「はい」
「……」
ヴィクトルは深く息を吐いた。
「まさか、これほど来るとは」
「お嬢様ですから」
ユリアが当然のように答えた。
「美しく、聡明で、公爵家の後継者候補。そして財産も領地もある」
ギルバートが続ける。
「さらに本人の性格も良い」
フィオナ。
「料理も喜んで食べてくださいます」
クララ。
「無理をしがちですが、人に優しい方です」
セバスチャン。
「剣術の才能もあります」
エドガー。
「魔法適性も高い」
ロイ。
「馬もお好きです」
マリア。
「そして何より――」
マリアンヌが微笑んだ。
「お嬢様は、相手の身分ではなく、その人自身を見ます」
全員が頷く。
だからこそ。
彼らは妥協できなかった。
王族だから。
公爵家だから。
名門だから。
そんな理由だけで、エレオノーラの人生を任せるつもりはない。
◇◇◇
翌朝。
エレオノーラは朝食の席で首を傾げていた。
「ねえ、ヴィクトル」
「はい」
「最近、郵便物がずいぶん多くない?」
「……」
十人が固まった。
「昨日なんて、王家の紋章がついた封筒まであったでしょう?」
「…………」
「何かあったの?」
ヴィクトルは一瞬だけ考え。
完璧な笑顔を浮かべた。
「お嬢様への釣り書きが届いております」
「まあ」
エレオノーラは驚いた。
「そんなに?」
「はい」
「何通くらい?」
沈黙。
ノアが小声で答える。
「三十二通ほど」
「三十二!?」
エレオノーラが目を丸くする。
「そんなに……?」
「はい」
「王族からも?」
「……はい」
「他国からも?」
「……はい」
エレオノーラはしばらく黙った。
そして。
「でも、みなさんどうして私と結婚したいのかしら?」
十人は顔を見合わせた。
答えは簡単だった。
美貌。
家柄。
財産。
領地。
能力。
そして、エレオノーラ自身。
だが。
ヴィクトルは静かに答えた。
「それを確かめるために、我々が審査しております」
「……審査?」
「はい」
「私が知らないところで?」
「…………」
十人全員が視線を逸らした。
エレオノーラは目を細める。
「まさか……」
「お嬢様」
ヴィクトルが深々と頭を下げる。
「どうかご安心ください」
「何を?」
「不適格な者は、一人もお嬢様の前に通しておりません」
「……」
エレオノーラは呆れたように笑った。
「もう……」
そして。
少しだけ嬉しそうに。
「ありがとう」
その一言。
たった一言で。
十人全員の表情が明るくなった。
「……!」
「お嬢様が!」
「今!」
「ありがとうございますと!」
「全員、持ち場へ戻れ!」
ヴィクトルだけが必死に冷静さを保つ。
だが。
その日の午後。
秘密会議室。
「……次の候補者について」
ヴィクトルが資料を開く。
「隣国の王太子殿下です」
「再審査ですね」
「はい」
ギルバートが頷く。
「財務項目を追加しましょう」
「社交も」
「戦闘も」
「食事も」
「健康管理も」
「衣装も」
「魔法も」
「法律も」
「諜報も」
「移動も」
十人全員が立ち上がる。
ヴィクトルが最後に言った。
「お嬢様の人生を任せる相手です」
「はい」
「三十二通届こうが」
「百通届こうが」
「王族だろうが」
「他国の王族だろうが」
「関係ありません」
十人の声が重なる。
「――お嬢様が幸せになれる人物だけを通します」
そして。
机の上には、新たな書類が置かれた。
『婚約者候補・第33号』
その表紙を見たヴィクトルは、静かに息を吐いた。
「……さて」
ペンを握る。
「審査を始めましょう」
――エレオノーラの知らないところで。
三十名が落ち。
そして三十三人目の候補者が。
史上最も過保護な十人の審査へと挑むことになった。
◇◇◇
それから数日後。
最後まで残った候補者は、三名になっていた。
一人目は、隣国の王太子。
社交、外交、教養、財務のすべてにおいて高い評価を得ていた。エレオノーラの意思を尊重し、彼女が公爵領の経営を続けたいと望むなら、王太子妃となった後も領地運営を任せると明言している。
二人目は、北方辺境伯家の嫡男。
剣術と戦略に優れ、実戦試験ではセバスチャンをあと一歩まで追い詰めた。口数は少ないが誠実で、エレオノーラが危険にさらされた時には、身分も立場も捨てて彼女を守る覚悟を示した。
三人目は、王都の名門公爵家の令息。
穏やかで聡明な青年だった。エレオノーラの好みや生活習慣を細かく調べるのではなく、実際に彼女と向き合い、彼女自身の言葉を聞こうとする姿勢が評価されていた。
「三名とも、これまでの審査は合格です」
ヴィクトルが書類を閉じる。
「ならば、最後の審査を行います」
「最後の審査?」
マリアが尋ねる。
ヴィクトルは静かに頷いた。
「お嬢様とのお茶会です」
「……ついに」
マリアンヌが息を呑む。
「お嬢様ご本人に、三名を見ていただくのですね」
「はい」
「しかし、お嬢様には選考会のことを伏せたままでは?」
「婚約者候補との顔合わせとして、お茶会を開くとお伝えします」
「それでよろしいのですか?」
ノアが尋ねる。
ヴィクトルは迷いなく答えた。
「最後に決めるのは、我々ではありません。エレオノーラ様です」
その言葉に、十人は静かに頷いた。
どれほど審査を重ねても。
どれほど条件を満たしていても。
エレオノーラが心から望まなければ、意味がない。
◇◇◇
お茶会の日。
庭園には、春の花が咲き誇っていた。
白いテーブルクロスがかけられた丸いテーブル。
銀のティーセット。
エレオノーラが好む焼き菓子と、季節の果物。
そして、向かい側には三人の候補者が座っていた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
隣国の王太子が、丁寧に頭を下げる。
「こちらこそ。少し緊張しますわ」
エレオノーラが微笑む。
「私もです」
北方辺境伯家の嫡男が、正直に答えた。
王都の公爵令息も、穏やかに笑う。
「私も、これほど緊張するお茶会は初めてです」
その様子を、少し離れた場所から十人の側近たちが見守っていた。
もちろん、全員が給仕や護衛を装っている。
だが、視線は一瞬たりともエレオノーラから離れない。
「では、まずは簡単な質問から」
エレオノーラが言った。
「皆様は、私と婚約した場合、どのような生活を望まれますか?」
王太子が答える。
「私は、あなたと共に国を支えたいと思っています。ただし、あなたが公爵領を大切にされていることも理解しています。王太子妃としての務めと領地経営を両立できるよう、制度を整えたい」
「制度を?」
「あなたが無理をせず、望む仕事を続けられるようにするためです」
エレオノーラは感心したように頷いた。
次に、辺境伯家の嫡男が口を開く。
「私は、あなたが望む場所にいます」
「それは?」
「領地でも王都でも。戦場であっても、屋敷であっても。あなたが一人で抱え込まないよう、隣に立ちます」
「……」
エレオノーラの表情が、少し柔らかくなった。
公爵令息は、しばらく考えてから答えた。
「私は、あなたがあなたらしくいられる生活を望みます」
「わたくしらしく?」
「はい。公爵令嬢としてではなく、領主としてでもなく、一人の女性として。笑いたい時に笑い、疲れた時には休み、やりたいことをやれる生活です」
エレオノーラは、目を瞬いた。
「……皆様、ずいぶんとわたくしのことを考えてくださっているのですね」
「当然です」
王太子が答える。
「あなたと人生を共にしたいと願っているのですから」
「ですが」
エレオノーラは、少し困ったように笑った。
「皆様は、わたくしの何を知っていらっしゃるのですか?」
三人が黙る。
エレオノーラは続けた。
「わたくしは、強くもありませんし、いつも正しいわけでもありません。領地のことばかり考えて、周りが見えなくなることもあります。疲れていても平気なふりをしますし、助けてほしいと言うのも苦手です」
三人は、黙って彼女の言葉を聞いていた。
「それでも、わたくしと一緒にいたいと思われますか?」
最初に答えたのは、辺境伯家の嫡男だった。
「はい」
迷いのない声だった。
「強くないあなたも、間違えるあなたも、助けを求められないあなたも、すべてあなたです。私は、都合のいい部分だけを愛するつもりはありません」
王太子も続ける。
「あなたが弱さを見せられる場所を、私が作ります。王太子妃として完璧である必要はありません。私の前では、ただのエレオノーラでいてください」
公爵令息は、静かに微笑んだ。
「私は、あなたを変えたいとは思いません。ただ、あなたが自分を大切にできるよう、そばにいたいと思っています」
エレオノーラは、しばらく何も言わなかった。
庭園を風が通り抜ける。
花びらが一枚、テーブルの上に落ちた。
やがて、彼女は小さく笑った。
「皆様とお話しできて、本当によかったです」
その笑顔を見た瞬間。
少し離れた場所にいた次女のマリアが、両手で口元を覆った。
「お嬢様が……」
隣にいたマリアンヌも、目を潤ませている。
「心から笑っていらっしゃいます」
「まだ結果は出ていません」
ヴィクトルが小声で注意する。
だが、その声もわずかに震えていた。
エレオノーラは三人を見つめた。
そして。
「わたくしは……」
言葉を探すように、胸元で手を握る。
「わたくしは、誰かの妻になることで、自分の人生を失うのが怖かったのだと思います」
三人は黙って聞いている。
「けれど、皆様とお話しして、少し安心しました。わたくしの望みを聞いてくださる方がいる。わたくしの弱さも受け入れてくださる方がいる」
エレオノーラは、辺境伯家の嫡男を見た。
次に、王太子を。
そして最後に、公爵令息を見つめる。
「その中でも、わたくしが一番自然にいられたのは――」
彼女の視線が、公爵令息のもとで止まった。
「あなたです」
公爵令息が、息を呑む。
「私、ですか?」
「はい」
エレオノーラは頷いた。
「あなたと話していると、無理に立派に見せようとしなくてよかったのです。沈黙しても苦しくなくて、笑う時も、心から笑えました」
公爵令息は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。私も、あなたといる時が一番自然でいられました」
エレオノーラは、少し照れたように微笑む。
「わたくしと婚約していただけますか?」
「もちろんです」
公爵令息は立ち上がり、彼女の前で跪いた。
「エレオノーラ様。あなたが望む人生を、あなたと共に歩ませてください」
「はい」
その瞬間。
「……っ」
マリアが、とうとう涙をこぼした。
「お嬢様が……お嬢様が、幸せになれる方を……!」
「マリア、声を抑えてください」
ヴィクトルが注意する。
しかし、彼自身も目元を押さえていた。
「無理です、ヴィクトル様……!」
マリアンヌは両手を胸の前で組み、涙を流しながら微笑んでいる。
「見つかりました……ついに、見つかったのですね」
「お嬢様を幸せにできる方が」
ノアの声も震えていた。
「本当に……よかった」
ギルバートは眼鏡を外し、何度も目元を拭っている。
「財務審査も、社交審査も、すべて合格です……!」
「そこですか?」
ロイが呆れたように言う。
だが、彼の頬にも涙が伝っていた。
セバスチャンは拳を握りしめ、静かに天を仰いだ。
「これで、安心してお嬢様をお任せできます」
クララは泣きながら、エレオノーラの好きな焼き菓子を追加で皿に盛っている。
「お祝いです。今日は好きなだけ召し上がってくださいませ」
フィオナは鼻をすすりながら、紅茶を淹れ直した。
「お嬢様が一番お好きな茶葉です」
ユリアは涙で滲む視界の中、エレオノーラの髪に花びらがついているのを見つけ、そっと取り除いた。
エドガーは魔法で花びらを舞い上がらせる。
ロイが慌てて止めた。
「派手な魔法はまだ早いです!」
「ですが、祝福の演出を」
「お嬢様が驚かれます!」
その騒ぎに、エレオノーラが振り返った。
「皆さん、どうしたの?」
十人は一斉に姿勢を正した。
だが、誰一人として涙を隠しきれていない。
「お嬢様……」
ヴィクトルが、深々と頭を下げる。
「ご婚約、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
エレオノーラは、嬉しそうに笑った。
「皆さんが、わたくしのために頑張ってくださったことも知っています」
「……!」
「本当に、ありがとう」
その言葉に。
次女のマリアは、とうとう声を上げて泣き出した。
「お嬢様ぁ……!」
「マリア!」
「だって、だって……! お嬢様が、ちゃんと幸せになれる方を見つけられたんですよ!?」
マリアンヌも涙を拭いながら頷く。
「はい……本当に、よかったです」
「お嬢様が笑っていらっしゃる」
クララが呟く。
「これからも、その笑顔を守れます」
セバスチャンが力強く言った。
「ええ」
ヴィクトルも頷く。
「我々は、これからもお嬢様をお守りします。ただし――」
彼は婚約者となった公爵令息を見た。
「お嬢様を泣かせた場合は、婚約者であろうと容赦しません」
「もちろんです」
公爵令息は真剣な表情で答えた。
「私も、エレオノーラ様を泣かせるようなことは決していたしません」
「その言葉、忘れないでください」
ギルバートが念を押す。
「契約書に記載していただきます」
「契約書?」
公爵令息が目を丸くする。
「当然です」
十人の声が重なった。
エレオノーラは、そんな彼らを見て笑った。
「もう、皆さんは本当に過保護なのですから」
「お嬢様のためです」
ヴィクトルが答える。
「ですが、これからは」
マリアンヌが、婚約者となった公爵令息を見つめる。
「お嬢様を幸せにする役目を、共に担っていただけますね?」
「はい」
公爵令息は、エレオノーラの手をそっと取った。
「必ず」
その返事を聞いた瞬間。
十人の側近たちは、堪えていた涙を一斉にこぼした。
「よかった……!」
「本当に……!」
「お嬢様が……!」
「幸せに……!」
次女のマリアは、泣きながら拍手をしている。
侍従たちは互いの肩を叩き、抱き合い、感涙にむせびながら喜びを分かち合った。
長い審査だった。
三十二通の釣り書きを読み。
二十九名を不合格にし。
三名を最後まで見極め。
ようやく見つけた。
エレオノーラを、家柄や財産ではなく、一人の女性として見てくれる男。
彼女の望みを尊重し、弱さを受け止め、隣で共に歩いてくれる男。
――エレオノーラを、本当に幸せにできる男。
「これで、ようやく安心できますね」
ノアが涙を拭いながら言った。
「いえ」
ヴィクトルは、婚約者と微笑み合うエレオノーラを見つめた。
「これからが始まりです」
「始まり?」
「はい。お嬢様が幸せであり続けられるよう、我々の仕事はまだ終わっていません」
「もちろんです」
ギルバートが頷く。
「婚約式の準備」
「結婚式の準備」
ユリア。
「新居の設計」
ロイ。
「護衛計画」
セバスチャン。
「健康管理」
クララ。
「食事の好みの共有」
フィオナ。
「魔法防御の確認」
エドガー。
「外交手続き」
マリアンヌ。
「すべて、完璧に整えます」
エレオノーラは、呆れたように、けれど幸せそうに笑った。
「皆さん、本当にありがとう」
その笑顔を見て。
十人は、また涙を流した。
今度は、悲しみではない。
長い間願い続けていたものが、ようやく叶った喜びの涙だった。
――こうして、史上最難関の婚約者選考は、終わりを迎えた。
残った三名の候補者の中から、エレオノーラ自身が選んだ、たった一人の婚約者。
そして、次女と侍従軍団は、感涙しながらその婚約を祝福した。
お嬢様の幸せを願い続けた彼らにとって。
それは、何よりも嬉しい合格通知だった。




