「おまえを愛さない」から始まった契約結婚ですが、実はわたくし【死体】なので全然大丈夫ですわ!
「最初に言っておくが、俺は決しておまえを愛さない——」
フローラの青白い指に誓いの指輪を嵌めながら、アレクシス皇太子が氷のように冷たい声で言った。
フローラは純白のベールごしに慎ましく答えた。
「ええ、もちろんわかっております。アレクシス様は『哀れな令嬢を救い出した慈悲深き皇太子』になる必要があって、私は家族を救う必要があっただけですわ」
これは世間によくある契約結婚。
ただ少し違うのは、花嫁は死体なのであった⋯⋯。
◇
そもそもの始まりは、アレクシスの酷い女遊び。
放蕩をやめなければ皇太子の座を剥奪すると父王に宣告され困っていた彼はある日、【王都で最も可哀想な伯爵令嬢・フローラ】というゴシップ記事を見つけた。
「父と兄の借金のかたに奴隷商人へ売られようとしている娘だと? この哀れな娘を助け出せば、俺の評判も回復するかもしれない——」
美しい黄金色の髪と冬空のように冷たく青い瞳を持つ、王都の至宝と讃えられた美貌の皇太子アレクシスは、フローラに結婚を申し込むことにした。
◇
しかし、——。
アレクシスが結婚を申し込んだ時、フローラはすでに馬車の事故で死んでいたのである!
(私はこれから天国に行くのね)
棺桶の中のフローラは心穏やかにそう思った。
艶やかな長い黒髪のとても可憐な死体であった。
不気味だからと瞼を閉じられてしまったが、もしも目を開ければアメジストのように美しい紫色の瞳が見えただろう。
(家族を助けるためなら奴隷商人に売られてもいいと思っていたけど⋯⋯。これでもう、辛い人生を歩まなくてもいいのね)
家族思いのフローラは自分を犠牲にするつもりでいたが、死んでしまった今となってはもうできることは何もない。
あとは安らかに天国に召されるだけである。
(天国ではアフタヌーンティーをいただけるかしら?)
そんなことをウキウキと考えていると、父と兄たちが霊安室に入ってきた。
「ああ、なんということだ! アレクシス皇太子様から結婚の申し込みがあったというのにおまえは事故死しているとは! 葬式を出す金さえないのだぞ。こうなったら双子の妹たちに家族のために犠牲になってもらうしかない⋯⋯」
(アレクシス皇太子様から私に結婚の申し込みがあったの? お父様たちは幼い妹たちまで奴隷商人に売ろうとお考えなの!?)
棺桶の中のフローラは父と兄の無慈悲さに怒り、愛する妹たちの不幸な未来に震えた。
そしてあまりの感情の昂りに死んでしまったことすら忘れた。
「お父様、お兄様、妹たちを犠牲にするのは許しませんわ!!」
棺桶の中でむっくりと起き上がる。
どうやら魂はまだ天に昇っていなかったようである。
「ゾ⋯⋯ゾンビィィィ——!?」
父と兄たちはのけぞって驚いた。
そんな父と兄たちを美しい紫色の瞳で真っ直ぐに見つめて、フローラは棺桶の中から淑やかに言った。
「すぐにアレクシス皇太子様にお返事を書いてください。私は皇太子様に嫁入りします。妹たちを奴隷にするなど絶対にだめですわ」
——というわけで、フローラは自分が死体であることを隠したまま、アレクシス皇太子と契約結婚することになったのだった。
◇
「どうしましょう、初夜だわ⋯⋯」
結婚式の日の夜、フローラの胸はドキドキ——しなかった。心臓が動いていないからである。
「死臭は大丈夫そうね」
まだ死にたてほやほやだから体も臭くない。
念のために香水を寝台のあちこちに吹きかけておいた。
「心臓が動いていないことが皇太子様にわかったら困るわ。部屋は暗くしましょう。ふーっ!」
蝋燭の炎を吹き消そうとした——しかし消えない。
「あら? ⋯⋯ああそうだわ、私、息をしてないんだわ」
死体というのはなかなか不便だ。
ネグリジェの袖でパタパタと炎を消してから、念のために息をしているふりの練習もしておこうと思った。
「みなさんに変だと思われないようにしなくては。ふううー。ふううー! ⋯⋯これで大丈夫かしら?」
すると、そこに——。
「やけに暗いな」
アレクシスが退屈そうな顔で入ってくる。
白いシャツの胸元を大きく開けている。
一本だけ残しておいた蝋燭のメラメラと揺れる炎が、たくましい胸の筋肉をやけにくっきりと浮かび上がらせる。
フローラの頬が赤く——なることはなかったが代わりに頬がぴくっと動いた死後硬直だろうか⋯⋯。
「こんなに暗くては何も見えないだろう」
アレクシスが蝋燭を増やそうとする。
フローラは慌てて止めた。
「どうぞそのままでお願いいたします! あの、明るいのはちょっと⋯⋯」
「淑女らしく振る舞うつもりか?」
馬鹿にしたようにアレクシスは笑ったが、蝋燭に火を灯すのはやめてくれた。
(さあ、いよいよだわ——)
フローラは不安でいっぱいのまま寝台に横になる。
目を閉じて待っていると、ギシリ、と寝台が軋んだ。
アレクシスが隣に来たようだ⋯⋯。
(あら?)
ふわりと感じたのは唇の違和感——。
少しだけ目を開けてみると間近にアレクシスの顔があった。
王都一の美男と言われるアレクシス皇太子の肌は毛穴ひとつなくまるで陶器のようだ⋯⋯。
その美しい顔がフローラに口付けをしている⋯⋯。
しかし——、
(何も感じないわ!)
フローラは愕然とした。
死体だからしょうがないとはいえあまりにも勿体無い状況だ。
フローラは十八歳の今まで口付けをしたことがないのだ。
(口付けって甘いのかしら? それともレモンの味かしら? ああ、初めての口付けの味を知りたいわ!!)
「フローラ⋯⋯」
アレクシスがつと唇を離すと、じっとフローラを見つめる。
「は、⋯⋯はい?」
「そなた、口付けは初めてか?」
「え? えっと、はい⋯⋯そうですが」
(恥ずかしい⋯⋯)
シーツを握りしめてモジモジする死体であった。
「口付けの時は、息をしてもいいのだぞ」
(えええええ!)
なんということだ初めての口付けに動揺して自分が死体だということを忘れていたではないか大変だ!!
フローラは急いで息をするふりをする。
「もちろん息をしております、ほら⋯⋯ふううー! ふううー!」
「⋯⋯」
(どうしましょう、変だと思われたかしら?)
「俺たちの寝室は別だ。契約結婚だから当然だろ? 今夜はそれを言いにきただけだ」
そっけなく呟くとアレクシスは部屋を出て行った。
ひとり残されたフローラは心からほっとした。
「寝室が別? よかったわ、これで死体だと気づかれずにすむわ」
◇
「まるで死者のような女だ⋯⋯」
廊下を歩いていたアレクシスは、ふと、立ち止まって呟いた。
「それとも氷の女王か⋯⋯。どちらにせよ、あそこまで冷たい唇は初めてだ」
アレクシスは、若干二十四歳にしてすでに、王都の美女全員と関係を持ったと豪語するほどのプレイボーイだ。
星の数ほどの女と唇を重ねてきたが、フローラとの口付けは今までのどの口付けとも違っていた。
清らかで冷たい湧水のような⋯⋯。
冬の夜に舞い降りてくる羽根のように柔らかな初雪のような⋯⋯。
うぶな少年のような想像が頭に浮かぶほど不思議な口付けだった。
「緊張していたせいだろうな」
初めての口付けに息をするのを忘れるほど純粋な娘だ。
きっと心も体も恐怖と戸惑いで冷え切っていたのだろう⋯⋯。
「悪いことをした⋯⋯」
柄でもなく同情してしまった自分にアレクシスは自分で驚いた。
「おいおい、アレクシス。これは契約婚なんだぞ」
自重気味に苦く笑うと、また歩き出した。
◇
次の日——。
今日は皇太子夫妻が主催の晩餐会が開かれる。
豪華で美しい紫色のドレスが、フローラのために用意された。
紫はフローラのアメジスト色の瞳を引き立てる色だ。
「フローラ様、紫色がとてもよくお似合いです」
侍女たちが口々に褒める。
「あの⋯⋯、私は生き生きと見えていますか?」
「え? 生き生き⋯⋯でございますか?」
「はい、元気に見えますか?」
「もちろんでございます! とても元気にお見えでございます」
「よかったわ、ありがとうございます」
フローラはドレスの豪華さよりも、死体に見えないかどうかが気になるのだ。
鏡に映る自分の姿を細心の注意を払ってチェックする。
頬の紅⋯⋯よし!
口紅⋯⋯よし!
青白い顔にたっぷりと赤みを加えたので、まるで生きているような血色である。
(これで大丈夫ね)
と思った時、コルセットの紐を締めた侍女が、「あら?」と首をかしげた。
「フローラ様、今お体からポキッと何やら変な音がしたような気がするのですが?」
「え? さあ、聞こえませんでしたわ」
フローラは慌てて否定したが内心は焦った。
(どうしましょう⋯⋯。助骨が折れたみたい)
痛みはまったく感じない。
だがどうやら侍女がコルセットを強く締めた時に、骨が一本、折れてしまったらしい。
死体というのは骨が脆いのだろうか⋯⋯。
「コルセットを緩めてくださるかしら?」
「はい、フローラ様」
(気をつけないとだめだわ。もしも首の骨が折れて顔が反対方向を向いてしまったら、ゾンビ小説みたいになるわ)
もうすでにゾンビ小説⋯⋯というのは置いといて、さあ、いよいよ豪華絢爛な舞踏会の始まりだ!!
◇
「みなさん、ご覧になって! なんてお美しい皇太子妃でしょう!」
艶やかな黒髪とアメジストのような紫の瞳——王都で一番不幸な令嬢から王都で一番幸せな令嬢に一夜にして変身したフローラを、舞踏会の客たちは誉めそやした。
「この世のものとは思えないほどお美しいですわ」
そんなことを言われた時はちょっとだけ焦った。
「アレクシス様は相変わらず素敵ね」
女性客たちがため息をつく先にいるのは——アレクシス・ファン・ガルシア皇太子。
王族の正装をした金髪碧眼のアレクシスは、まるで天から下界に降りてきた軍神のようだった。神々しいまでに麗しい。
舞踏会は、父王やアレクシスの兄弟姉妹たち、そして王族たちへの挨拶から始まった。
(みなさま、とても優しいわ)
無事に挨拶をし終わったフローラはそう思ったが、もちろん誰もが優しいわけではない⋯⋯。
「フローラ様、おめでとうございます」
笑みを浮かべて近づいてきたのはとっても派手なご令嬢たち⋯⋯。
令嬢たちの中心にいるのは大きなダイヤモンドの首飾りをした金髪の美人令嬢で、まるで親友でもあるかのように親しげにフローラに話しかけてくる。
「トレンド伯爵家のカトレアでございます。どうぞよろしく。そのドレスとてもお似合いですわね」
自分も褒めてくれと言いたげに首飾りに触っている。
「ありがとうございます。あの⋯⋯、カトレア様のダイヤモンドの首飾りもとてもお似合いです」
「そうでしょう? このダイヤはアレクシス様からのプレゼントですのよ」
「まあ、そうなのですね」
(さすがアレクシス様だわ。我が家の莫大な借金も返して下さったし、本当に皇太子様というのはお金持ちなのね)
フローラは素直に感心した。
(それにしても舞踏会って寒いのね。なんだか体が冷えてきたような気がするわ。肌色が悪くなって死体っぽく見えないといいけれど⋯⋯)
体にも紅を塗ってくればよかったとフローラが後悔していたとき、カトレアの心の中には暴風が吹き荒れていたのである⋯⋯。
◇
「フローラ様はワインはお好きかしら? これはうちの伯爵家で採れた葡萄で作ったシャンパンですのよ。結婚のお祝いに特別にお持ちしましたわ。とても珍しい貴重なワインですのよ」
カトレアは侍女に命じて血のように赤いワインを持って来させた。
「さあ、お飲みになって。私からの結婚のお祝いよ」
「ご親切にありがとうございます」
フローラは赤ワインを口に運んだ。
ちなみに死体が食べたり飲んだりできるのか⋯⋯。
実は、できるのである!!!
どうやら死体であっても動いているからにはエネルギーを必要とするらしく、フローラはちゃんとお腹が空くのである。
もちろん味はわからないが⋯⋯。
「美味しいワインですね!」
フローラはワインを飲み干すとにっこりと微笑んだ。
(味がわからないのは困るわね。具体的に感想が言えないわ。⋯⋯あら?)
アルコール度数が高かったのか、赤ワインを飲んだ直後からフローラの体はぽかぽかと温かくなっていく。
青白い肌色もほんのりと色づいていく。
(このワイン、死体の私にぴったりだわ! すごいわ!!)
「ありがとうございます、カトレア様。私、このワインが大好きですわ。もしもよかったらこのワインを少し分けていただけませんか?」
「え? えええええ!?」
カトレアが目を丸くする。
「あの⋯⋯、どうかなさいましたか?」
「いいえ、別に何も——。おかしいわね、激辛スパイス入りのはずなのに⋯⋯。もしかして侍女が入れ忘れたのかしら?」
フローラに聞こえないほど小声で呟いたカトレアは、後ろに控える侍女からグラスを取り上げるとゴクゴクと飲む。
「うっ——っ! ゲホゲホゲホ!」
いきなり咳き込み、激しく顔を歪めた。美人が台無しである。
みっともないカトレアの姿に招待客が眉をひそめる中を、カトレアは侍女に抱き抱えられて退場していった。
「いったいどうなさったのかしら?」
フローラはキョトンとしてカトレアの後ろ姿を見送る。
するとそこに声がした。
「奥様、お手をどうぞ——」
「え?」
振り返ると、アレクシスが優雅に手を差し出していた。
◇
「ファーストダンスは主催者の夫婦が踊るのが慣例だ」
「あ、⋯⋯はい」
フローラは白い手袋に包まれた手を慎ましくアレクシスの手に重ねた。
(死体だけど踊れるかしら?)
典雅な曲に合わせて踊り始めると、ちゃんと動くことができた。
コルセットを締めた時に折れた骨がコキコキ音を立てないかも心配だったが、どうやら死体というのは骨が折れてもすぐにくっつくらしい。
(ちゃんと体が動くみたい。よかった⋯⋯)
アレクシスのリードはとても上手くて、まるで足に羽が生えたようだ。
スカートを大きく翻してくるりとまわり、ふたたびアレクシスの腕の中に戻ったとき、アレクシスが真面目な顔で話しかける。
「そなたの実家のことだが——、すべての借金を片付けるには少々時間がかかりそうだ。だが、約束は果たすから安心してくれ」
「あの⋯⋯、あとどのぐらいかかるかお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「そうだな⋯⋯。十日もすれば片付くだろう」
(十日⋯⋯。十日ぐらいなら私の体も保つわね。お父様とお兄様の借金がスッキリしたら、私もスッキリと朽ち果てて、天国に行けるわ!)
フローラは嬉しくなって花びらが開くようにふわりと微笑んだ。
「ありがとうございます、アレクシス様」
アレクシスが眉をひそめる。
「そんなに家族が大事なのか? 言っては悪いが、あんな父と兄だぞ」
「父と兄のためではありません。双子の妹たちのためです。妹たちを幸せにすると亡くなった母と約束したのです。⋯⋯あの、アレクシス様もご兄弟がいらっしゃいますよね?」
「俺にとって兄弟は敵だ」
「え?」
と、フローラが目を見開いた時——。
突然シャンデリアの明かりが全て消えた!!
◇
真っ暗になった舞踏会の会場に、客たちの悲鳴が響く。
「きゃあー!」
「いったい何が起こったんだ。早く明かりをつけろ!」
客たちが騒ぐ中でフローラは、不思議な思いで暗闇を見つめていた。
(見えるわ!)
なんということだろう。
どうやら死体は暗闇でも物を見ることができるらしい。
(そういえば幽霊は夜に出歩くわ。きっと死体も似たようなものなのね)
納得しながらまわりを見ると、ふと、奇妙な動きをする人物に気がついた。
黒い服を着た男だった。
舞踏会の客とはどう見ても違う雰囲気だ。
怪しい⋯⋯。
(いったいあの人は誰かしら?)
フローラは隣にいるアレクシスに教えようと思った。
けれどもアレクシスの方が数秒早く気づいて、フローラを後ろに庇う。
「なにやら気配が変だ。フローラ、動くな——」
「あの⋯⋯」
あそこに誰かがいます——と言いかけた時、その『誰か』がすごい勢いでアレクシスに向かってくる。しかも手に持っているのは——、
(短剣?!)
刺客だ——!!
フローラの家族の借金はまだ片付いていない。今アレクシスが死んでしまったらせっかく契約結婚をした意味がなくなる。
十二歳の時から母親がわりになって育ててきた幼い妹たちの顔が頭に浮かぶと、フローラの体は無意識に動いた。
「アレクシス様、危ない!」
アレクシスを突き飛ばして自分が前に出た。
するとその瞬間、ふたたびシャンデリアが煌々と輝き始めた。
「きゃああああ!」
明るくなった大広間で、客たちが悲鳴をあげて見つめる先には——。
ドレスの胸元に短剣が刺さり、呆然と立ち尽くすフローラの姿があった⋯⋯。
(あらまあどうしましょう⋯⋯。短剣が心臓にぐさりと刺さってしまいましたわ)
◇
(困ったわ⋯⋯。これってどう見ても即死の状態よね?)
短剣はフローラの心臓の真上に深く刺さっていた。誰がどう見ても無事ではすまない姿だ。
フローラは胸に刺さった短剣を両手で握り締め、そっと自分を見つめる群衆を見つめ返した。
誰もが「ああ、フローラ様が死んじゃった」という顔でこっちを見ている。
(ええっと、どうしようかしら⋯⋯。倒れる?)
やはり倒れるしかないだろう。
「あ⋯⋯ッ」
可憐な喘ぎ声を出して後ろに倒れようとしたが、
「フローラ!」
アレクシスのたくましい腕が力強くフローラを受け止めた。
「——医官を連れてこい!」
(お医者様は困るわ!!)
医者に診られたら一発で死体だとバレてしまう。
(ああ、どうしたらいいの?)
アレクシスの腕の中でフローラは必死で考える。
(とぼけるしかないわ!)
「あら? 変だわ⋯⋯? 短剣が刺さったのに平気みたいですわ、どうしたのかしら?」
「フローラ⋯⋯?」
「アレクシス様、どうやら運のいいことに、ドレスのコルセットが短剣を止めてくれたようですわ。ほら、血も出ていませんわ!」
「だが⋯⋯」
「本当に大丈夫ですわ!」
フローラは短剣をサッと引き抜くと一滴も血がついていないドレスを見せた。
「ね? 大丈夫ですよね?」
「確かに⋯⋯。だが刺さってはいなくてもどこか怪我をしたかもしれない」
「本当に大丈夫でございます!! ほら、このように——」
フローラはぴょんぴょんとジャンプをしてみせた。ついでに大きく両手を広げてぶんぶん振り回してみたりもした。
「もしもお望みならば大階段を駆け上がりますわ!」
「いや、もう十分だ。頼むからちょっと落ち着いてくれ」
アレクシスが必死で止める。
(納得してくださったみたいだわ)
フローラは安堵した。
そこに典雅な曲が再び流れ始めた。
取り押さえられた刺客はいつの間にか衛兵たちがどこかに連れて行き、まるで何事もなかったかのように舞踏会が再開する。
招待客たちが踊り出したのを見て、フローラは戸惑った。
「舞踏会を続けるのですか? アレクシス様が狙われたのに?」
「よくあることだからな」
「え? このようなことがよくあるのですか?」
「日常だ。そのうち慣れる」
「まあ⋯⋯」
(刺客に狙われるのがよくあること⋯⋯? アレクシス様は敵国から狙われていらっしゃるの?)
驚いていると、アレクシスがフローラを大広間の外へ促す。
「だがそなたは休んだほうがいい。寝室まで送ろう」
「はい⋯⋯。ありがとうございます」
頷いたフローラの耳に、客たちの感動した声が聞こえてきた。
「ご覧になりました? フローラ様はアレクシス様を命懸けでお助けになられたわ」
「なんと深い夫婦愛だ、素晴らしい——」
(夫婦愛? 違いますわ、どうしましょう⋯⋯。みなさま、誤解していらっしゃいますわ。私は妹たちのためにやったことなのに⋯⋯)
人々に賞賛されてフローラは困った。
そんなフローラの戸惑い顔を、アレクシスの真冬の空のようだった冷たく青い瞳が、冬の終わりの少しだけ暖かい日の空色に変化して、じっと見つめていた⋯⋯。
◇
——そして、数刻後の深夜。
「いったい、フローラは何をしているんだ?」
執務室の窓から中庭を見下ろしながらアレクシスは聞いた。
「お散歩だそうでございます」
秘書のルイスが答える。
舞踏会が終わった後でも皇太子にはやるべき仕事が山積みなのである。
ルイスの答えに、アレクシスはたくましい肩をすくめた。
「散歩だと? 深夜だぞ——」
「皇太子妃は深夜の散歩がお好きなようでございますよ。それにしても今夜は感動いたしました。命懸けでアレクシス様をお救いになるなんて、皇太子妃様はとてもお強いお方でございますね」
ルイスが書類の束を整えながら微笑んだ。ルイスはすらりと背が高く見目のいい銀髪の青年だ。
「⋯⋯強いかもしれないな」
アレクシスは曖昧に呟く。
アレクシスは享楽的な人生を送っていたが馬鹿ではなかった。
フローラがアレクシスを命がけで守ったわけではないことぐらい、アレクシスにはわかっていた。
(きっと、妹たちを守ったのだろう)
アレクシスの身に何かがあれば借金を払うことができず、そうすれば妹たちが奴隷に売られるからだ。
(確かに強いが、俺にはわからない種類の強さだ——)
アレクシスは幼い頃から血で血を洗う親族間の争いを間近で見てきた。
誰かが誰かのために自らを犠牲にするなど想像もできない。
フローラとの契約結婚も皇太子の立場を守るためにしたことだ。
「アレクシス様、こちらにもサインをお願いいたします」
「ああ、わかった——」
窓辺から離れて仕事に戻り、山のような書類にサインをしていたが、
(自分の幸せは考えないのだろうか?)
ふとそう思って窓の外を見ると、青白い月が浮かんでいた。
◇
「まあ、月がとても綺麗だわ⋯⋯」
深い霧が立ち込める深夜の中庭で、フローラはうっとりと青白い月を見上げた。
恐ろしい何かが現れて襲ってきそうな不気味な雰囲気の深夜の中庭である。
フクロウの鳴き声は地獄から聞こえるように低く響くし、薔薇の花を揺らす風の音は誰かの悲鳴のように甲高く聞こえてくる⋯⋯。
それらすべてが、フローラにはとても楽しく感じられるのだった。
間違いなく死体になったせいだろう⋯⋯。
「月光が気持ちいいわ」
まるで日光浴をしているような気分で、ウキウキと深夜の散歩を続けた。
すると——、
「舞踏会で疲れていないのか? すごい体力だな」
笑いを含んだ声が聞こえた。
振り向くと、白いシャツ姿のアレクシスが立っていた。
「アレクシス様もお散歩ですか?」
「そんなところだ——」
月明かりを頼りに、薔薇の小道をふたりで歩き出す。
「あの⋯⋯、舞踏会の刺客のことですが、どこの国から送り込まれたのか分かりましたか?」
「外国ではなく、たぶん弟か、叔父か、従兄弟か——」
「ご家族なのですか!?」
フローラはびっくりした。
「⋯⋯でも、舞踏会ではみなさまとてもにこやかでしたわ」
「笑いながら毒を盛れる奴らだ」
「まあ⋯⋯」
「皇太子妃を狙う理由は今のところないからそなたは安全だ。そういえば、おれを庇ってくれた礼をまだ言っていなかったな。ありがとう、フローラ」
アレクシスが真剣な顔で言う。
フローラは複雑な気持ちになった。
(本当は妹たちのためだったのに⋯⋯)
「あの⋯⋯、実は私は⋯⋯」
「好きな花はなんだ?」
「え?」
「好きな花だ。薔薇か?」
「えっと⋯⋯」
突然の話題の変更に戸惑いながら考える。
「薔薇は妹たちが好きな花です。ひとりは黄色い薔薇が好きで、もうひとりはピンクの薔薇が好きなんですよ」
「そうではなくて、フローラが好きな花だ」
「私、ですか?」
(私が好きな花は何かしら?)
妹たちが好きな花なら知っている。だけど自分が好きな花はわからない⋯⋯。
「あの⋯⋯、考えたことがなくて⋯⋯」
「では考えてみたらどうだ」
「⋯⋯」
(薔薇もきれいだけど、私が好きなのは、もっと静かで、もっと⋯⋯)
必死で考えると、記憶の奥から小さい頃に見た白い花がふわりと浮かんできた。
それはまだ妹が生まれる前——母が生きていたころの風景だった。
母の実家の小さな庭に白百合が咲いていて、幼いフローラはその庭で遊ぶのが好きだった⋯⋯。
「もしかしたら、私、白い百合の花が好きかもしれません」
ぱっと笑顔になってフローラは答えた。
「そうか、百合か」
アレクシスも笑みを浮かべた。
次の日——。
王宮中の花が、純白の百合の花に変わった⋯⋯。
◇
さてフローラはその後、
「借金が片付くまであと八日ね。⋯⋯あらあら、また足首が反対を向いちゃったわ、よいしょ——」
死体生活にもちょっとだけ慣れて、朽ち果てる日を指折り数えて暮らしましたとさ⋯⋯。
おしまい




