帝国編 十六話 災禍の匂い
「もうここにいるのも面倒だな」
その一言とともに、ロストは自らの襟首を無造作に掴んだ。
次の瞬間ばさりと衣服が床へ落ちる。
その下から現れたのは、光を拒絶するような黒いマント。
深く目元を隠す黒帽子。
まるで最初から人間の皮など、着ていなかったかのような変わり身だった。
そして冷徹な闇より深い漆黒の眼差しがレイドを睨みつけた。
「っ……!」
レイドの喉がひゅ、と鳴った。
肌が粟立つ。骨の髄にまで、冷えた針を突き刺されたような悪寒が走る。
この魔力は知っている。
いや、知っているなどという生易しいものではない。
忘れようにも忘れられない。
村を焼き、命を蹂躙しようして絶望そのものとして立ちはだかったあの災厄――邪神龍。
それと同質。
いや、下手をすればそれ以上。
つまり、目の前の男は。
「まさか……お前……」
ケルトの声が掠れる。
ロストはわずかに口角を上げ、芝居がかった仕草で一礼した。
「私はロストエクラット。魔界の王に並び立つ存在だ。どうぞ、よろしく」
「な……に……?」
理解が、追いつかない。
人間を蔑み侮辱する言動。
不気味な余裕。
その全てが、この正体へと繋がっていたというのか。
「君たちに、闇の力の一端をお見せしよう。生きて帰れるといいな」
「おいおい、待てよ」
レイドは警棒を構えたまま、睨みつける。
「ここでそんな莫大な量の魔力を解放する気か? 今この帝国中が怪盗騒ぎで厳戒態勢なんだぞ。魔物が暴れりゃ警報装置が作動して終わりだ。お前だって――」
「何を言っているのか、さっぱりだね」
「あ?」
ロストの目が、細まる。
それは笑みというより、人間を値踏みする視線に近かった。
「この国一番の大イベントの時、大規模な死者数が出るだろう。それほどまでに、この国は弱い」
一瞬、場の空気が凍りつく。
「なんだと……てめえ、コロシアムの時に帝国を襲撃するってのか?」
「ああ、そうだとも」
あまりにあっさりと、ロストは答えた。
まるで明日の天気でも語るように。
何千、何万の命が失われる未来を、当然の帰結として。
「許せねえ……」
レイドの声が低く沈む。
握る警棒に、ぎり、と指が食い込んだ。
「カマルやケルトには、指一本触れさせねえ!」
「レイド、ダメだ!」
ケルトが叫ぶ。
「やつは邪神龍よりも強い! 逃げた方がいい!」
その叫びは、正しかった。
理性も、経験も、全てが撤退を告げている。
だが。
レイドの脳裏に浮かんだのは、共に生活してきた二人の姿だった。
不器用でも、背を預けられる仲間。
家族と呼んでいい、たった三人きりの繋がり。
――抜かせよ、ケルト。
――俺は、お前らを守らなきゃならねえだろ。
「俺は! あいつらを守るんだ!」
叫ぶと同時、警棒へ魔力を叩き込む。
その瞬間だった。
ロストの顔が、ふっ……と歪む。
人の顔をしているはずなのに、そこに浮かんだのは明確な醜悪だった。
嘲り、歓喜、侮蔑。
他者の死を前にした者だけが浮かべる笑み。
「飛んで火に入るなんとやら……いや、違うか」
ロストは片手を掲げた。
黒い指先に、夜よりなお濃い魔力が集束していく。
「死ぬといい……
『カルナバル・デスペラード
――死の風が運ぶ、竜巻の序曲』」
ごばっッ!!
空間そのものが裂けたかのような爆音が轟いた。
「な――ッ!?」
突風が、爆発した。
床の破片が舞い、展示棚が軋み、空気が牙を剥く。
それだけでは終わらない。
ロストの背後。
何もなかった空間に、漆黒の竜巻が立ち上がった。
黒。黒。黒。
あれは風ではない。
死そのものが渦を巻き、形を得たような禍々しさだった。
竜巻の表面には無数の黒い火花が走り、ときおり人の断末魔にも似た音が混じる。
警報装置が作動した。
莫大な魔力を察知したのだ。直に警察隊がやってくる。
コロシアムで人を殺すとのたまう魔物がいて、それでもやつ1人でもそんなことができてしまいそうな絶対的な確信がある。
レイドは立ち向かうしかなかった。
警察隊がここに来るまでが勝負。
来てしまえば混戦となり、生死がどちらに傾くが分からない。
「くっ……!」
レイドは踏み込む。
恐怖を押し潰すように、一歩。さらに一歩。
だが近づけば近づくほど分かる。
圧が違う。
魔力の密度が、存在の格が、あまりにも違いすぎる。
それでも退けない。
突風の中、レイドの額が焼けるように熱を持った。
「ぐ……あ、ああぁ……!?」
皮膚の内側を爪で裂かれるような激痛。
視界の端で、赤い光が爆ぜる。
痣だ。
額に、あるいは肌の奥深くに刻まれた何かが、脈打つように輝いている。
その瞬間、言葉が零れた。
誰に教わったわけでもない。
なのに魂が、それを知っていた。
「――Solaris frmma(紅炎よ、来れ)!」
轟、と。
紅蓮の炎がレイドの全身を包み込んだ。
熱い。
だが焼かれない。
それは破壊の炎ではなく、選ばれた者にのみ従う、暴威そのものだった。
炎は警棒へと吸い込まれ、形を変える。
鈍い打撃武器だったはずのそれが、瞬く間に一振りの大剣へと変貌した。
刀身は赫く燃え、脈動するたび火の粉が血のようにこぼれ落ちる。
「おおおおおおッ!!」
レイドは渾身の力で、剣を振るう。
紅蓮の斬撃が放たれた。
それは飛翔の途中でなお膨れ上がり、炎を纏った竜巻となって、ロストの黒き暴風へ真正面からぶつかる。
激突。
爆ぜる轟音。
赤と黒が喰らい合い、博物館全体を揺るがす。
だが。
「――浅い」
ロストが、静かに言った。
黒き竜巻は裂けない。
炎の斬撃はわずかに食い込んだだけで、次の瞬間には飲み込まれ、噛み砕かれ、掻き消えた。
ロストの頬に、細い傷が一筋。
ただ、それだけ。
「かすり傷……?」
レイドの顔から血の気が引く。
今の一撃は、自分の全てだった。
痣が呼び起こした、常識を超えた力のはずだった。
それでも、届かない。
「なるほど」
ロストは自らの頬に触れ、指先についたわずかな血を見た。
そして、愉しげに笑う。
「光の三極星。未熟とはいえ、たしかにその片鱗か」
「三極星、だと……?」
ケルトが目を見開く。
ロストはゆっくりと腕を広げた。
その胸元に、ぞっとするほど不吉な紋様が浮かび上がる。
光の三極星の痣に似ている。
だが違う。それは光ではない。
星の形をしてなお、そこに宿るのは終焉、腐敗、死のイメージ。
見ているだけで心臓を掴まれるような、はらわたを撫でられるかのような第四の異形。
「光の三極星を殺すのは、同じ極星ギアから選ばれし者がもっとも相応しい」
ロストの声が、低く響く。
「もっとも私は光ではない」
黒い魔力が痣の周囲で脈動する。
「これは四番目。凶星にして人間の理解から逸脱した存在。死の星の力の一部でもある」
その言葉は、宣告だった。
光の三極星。
それは選ばれた者の力ではなかったのか。
そもそも、ロストがその口で言っていたではないか。
ならば、死の星とは何だ。
世界の根幹にはまだ何か隠されているのではないか――。
そんな疑念を抱く暇すらなく、ロストは指先をレイドへ向ける。
「終わりだ」
死の竜巻が回転率をさらに上げ、唸り声を上げた。
来る。
そう理解した時にはもう遅かった。
レイドの足は竦み、肺は凍り、身体が言うことをきかない。
生き物としての本能が、あれに触れれば死ぬと絶叫していた。
それでも、前に出るしかなかった。
「レイド!!」
ケルトの悲鳴。
刹那ーーー、
轟――!!
横合いから、凄まじい衝撃が割り込んだ。
金属がきしみ、空気が悲鳴を上げる。
死の竜巻が、真横から叩き潰されるように軌道を逸らされた。
「なに……?」
初めて、ロストの表情に明確な驚きが走る。
舞い上がる土煙の中。
大地を踏み砕くように立つ、一人の影。
闘気だけで周囲を圧する、王者の気配。
その背は巨大で、揺るぎなく、戦場そのものを支配していた。
「随分と好き放題やってくれるじゃないか」
低く、響く声。
レイドは分かった。彼の正体、それは
「……闘王リア……!」
最強の風格。間違いなかった。
敵と断じた者に容赦しないそんな気迫。
だが。剣は二振りと聞いていたが、今は一本しかないようだ。
リアは肩を鳴らし、ロストを睨み据えた。
その瞳には怒りも焦りもない。
ただ、強者だけが持つ冷徹な戦意だけが宿っていた。
「雑魚をいたぶるのが趣味か? 魔物」
ロストは数秒、黙ったあと――ふっと笑った。
「なるほど。帝国にも、まだ骨のある者がいたか」
黒いマントの裾が揺れる。
その背後で、死の竜巻が再び唸りを上げた。
「来い、闘王リア。私が貴様に敗北を教えてやろう」




