第8話「凍てつく空と崩れ落ちる氷柱」
翌朝、王都の空は重く垂れ込めた鉛色の雲に覆われ、身を切るような冷たい風が吹き荒れていた。
薄暗い玄関ホールで、戦闘用の装備に身を包んだヴィオが出立の準備を整えていた。漆黒の革鎧は冷たく硬い光を放ち、腰に帯びた長剣が歩くたびに微かな金属音を立てている。その姿は冷酷な処刑人のようであり、日常の延長にあるルカの温もりとは対極に位置するものだった。
「いいか、ルカ。昨夜言ったことを忘れるな。俺が戻るまで、お前はこの屋敷の最も奥に隠れていろ」
ヴィオは玄関の扉に手をかける直前、振り返ってルカに鋭い視線を向けた。その金の瞳の奥には、ルカを置いていくことへの強い未練が渦巻いている。
「はい、わかっています。気をつけて行ってきてくださいね。……ヴィオさん、手、冷たくなってますよ」
ルカは歩み寄り、黒い革手袋に包まれたヴィオの手を両手で包み込んだ。カピバラ獣人の並外れた熱が、革の冷たさを越えてヴィオの指先へと伝わっていく。ヴィオは一瞬だけ目を伏せ、ルカの甘い干し草の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。それは、過酷な戦場へ向かう前の、彼なりの儀式のようなものだった。
「……すぐに戻る」
短くつぶやくと、ヴィオはルカから手を引き抜き、冷たい吹雪が舞う外の世界へと足を踏み出した。重厚な扉が閉まる音が、異様に大きくホールに響き渡る。
ヴィオが去った後の屋敷は、突然すべての音が消え失せたかのような静寂に包まれた。ルカは言いつけ通りに自分の部屋に戻り、暖炉の前に座って炎の揺らめきを見つめていた。しかし、いくら薪をくべても、ルカ自身の体温がどれほど高くても、部屋の空気はどこか空虚で寒々しかった。
『ヴィオさんがいないと、こんなに広い屋敷なんだな……』
ルカは自分の腕をさすりながら、小さく息を吐いた。今までは自分がヴィオを温めているのだと思っていた。しかし、氷のように冷たく、毒舌を吐きながらも自分を強く求めてくれるヴィオの存在がなければ、ルカの熱は行き場を失い、ただ空回りするだけだということに気づかされた。ヴィオの不器用な執着が、いつの間にかルカ自身の心を支える太い柱になっていたのだ。
***
その日の夜から、猛吹雪が王都を襲った。
風の音が獣の咆哮のように窓ガラスを叩き、気温は急激に低下していく。ルカは不安な気持ちを抱えながら、寝台の中で毛布にくるまり、ヴィオが残していったかすかな氷のフェロモンの名残を探すように目を閉じていた。
***
三日目の深夜。
眠りの浅かったルカの耳に、屋敷の入り口から複数の乱れた足音と、怒号のような低い声が飛び込んできた。
異常な気配に跳ね起きたルカは、ヴィオの言いつけを破って部屋を飛び出し、大理石の廊下を裸足のまま駆け抜けた。玄関ホールにたどり着いたルカの視界に飛び込んできたのは、無残に破壊された扉と、雪まみれになった特務機関の部下たちの姿だった。
そして、その中心で数人の男たちに担ぎ込まれていたのは、変わり果てたヴィオの姿だった。
「ヴィオさん……ッ」
ルカの口から、悲鳴にも似た声が漏れる。
ヴィオの全身は信じられないほど青白く、まるで氷像のように硬直していた。漆黒の革鎧のあちこちが引き裂かれ、そこからどす黒い血が流れ出ているが、その血すらも凍りついて肌にへばりついている。美しい銀色の髪には霜が降り、閉ざされた長いまつ毛は真っ白に凍てついていた。
「医者を呼べ! 早くしろ、隊長の息が……」
部下の一人が血相を変えて叫ぶ。ホールは一瞬にして修羅場と化した。
ルカは震える足でヴィオに近づき、その頬に触れようと手を伸ばした。しかし、指先が触れた瞬間、ルカはあまりの冷たさに弾かれたように手を引っ込めてしまった。ただの冷え性による寒さではない。それは生命活動の停止を予感させる、絶対的な死の冷気だった。
「近寄るな! 隊長は敵の卑劣な罠にかかり、特殊な氷結毒を大量に浴びた。むやみに触れればお前まで凍りつくぞ」
部下がルカを制止するが、その声には明らかな絶望が混じっていた。
ヴィオから発せられているフェロモンは、かつての研ぎ澄まされた刃のような鋭さを完全に失っていた。代わりに漂っているのは、腐敗した氷と、鼻をつくような酸っぱい毒の異臭だ。あの圧倒的な強さを誇っていたアルファの匂いが、今にも消え入りそうなほど弱々しく明滅している。
『嘘だ……ヴィオさんが、こんなに冷たくなるなんて……』
ルカの視界が急速に涙で歪む。呼吸は浅く微かで、胸の上下の動きすらほとんど確認できない。蛇獣人であるヴィオにとって、極度の寒さはただでさえ命取りになる。それに加えて未知の氷結毒が全身を巡っているのだとしたら、彼に残された時間はわずかしかない。
運び込まれた寝室のベッドは、ヴィオが横たえられた瞬間にシーツが霜で真っ白に凍りついた。部屋の空気が一気に冷え込み、吐く息が白く染まる。ルカは恐怖と混乱で震えながらも、ヴィオの傍らから決して離れようとはしなかった。凍てつく空気に包まれた部屋の中で、ルカの干し草のフェロモンだけが、かすかな希望のように揺らめきながら放たれ続けていた。




