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氷のエリート官僚アルファは、体温高めなカピバラオメガの抱き枕を手放せない〜不器用な溺愛とぽかぽか共依存〜  作者: 水凪しおん


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第7話「檻の中の陽だまりと近づく足音」

 血なまぐさい襲撃事件の夜から数日が経過しても、ヴィオの屋敷を包む空気はどこか張り詰めたままだった。

 大理石の床にこびりついていた赤い染みは、使用人たちの手によって完全に拭き取られ、物理的な痕跡は何一つ残っていない。しかし、あの夜に侵入者たちが持ち込んだむき出しの悪意と、ヴィオが放った絶対零度の殺気は、見えない澱のように空間の隅々に沈殿しているようだった。

 その事件を境に、ヴィオのルカに対する執着は、もはや異常とも呼べる領域へと足を踏み入れていた。

 ルカが屋敷の外に出ることは一切禁じられ、庭の温室跡地に向かうことさえ許されなくなった。ヴィオが不在の昼間は、屈強な護衛がルカの過ごす部屋の扉の前に立ち、外部からの接触を徹底的に遮断している。客観的に見れば、それは保護という名目の軟禁状態に他ならなかった。

 だが、当のルカ本人はといえば、その窮屈な環境を少しも苦にしていなかった。

 厚いカーテンが引かれた薄暗い寝室で、ルカは羽毛のたっぷり詰まったクッションに背中を預け、のんびりと本をめくっていた。カピバラ獣人である彼の身体から発散される高い体温は、閉ざされた部屋の空気を隅々まで温め、まるで南国の温室にいるかのような心地よさを作り出している。亜麻色の癖毛の隙間から立ち上る甘い干し草のフェロモンは、不安や緊張を溶かすように空間を満たしていた。


『ヴィオさんは、僕のことが心配でたまらないんだな』


 ルカは本から目を離し、窓の外で吹き荒れる吹雪の音に耳を傾けた。ビュービューと風がうなり、細かい氷の粒がガラスを叩く音が絶え間なく響いている。ヴィオのやり方は強引で不器用だが、その根底にあるのはルカを絶対に失いたくないという切実な恐怖だ。あの夜、血に濡れた姿で自分を抱きしめたヴィオの腕の震えを、ルカは決して忘れることができない。だからこそ、どれほど行動を制限されても、ルカの心には不満よりも深い愛着が湧き上がっていた。


***


 夕刻が近づき、廊下から規則正しい足音が近づいてきた。重く、しかしどこか焦りを帯びたその足音が扉の前で止まる。金属のドアノブがガチャリと音を立てて回ると、外の冷気とともにヴィオが姿を現した。


「ただいま戻りました、なんて言う必要はないな。お前はどうせここから一歩も動いていないのだから」


 ヴィオは皮肉めいた言葉を口にしながら、分厚い黒の外套を無造作に椅子へと投げ捨てた。その端正な顔立ちは疲労で青白く、眉間には深いしわが刻まれている。彼が纏うアルファのフェロモンは、冬の夜空を切り裂くような鋭い氷と刃の匂いを強く放っていた。


「おかえりなさい、ヴィオさん。外はすごく冷えたでしょう。ほら、こっちに来てください」


 ルカは本をテーブルに置き、両手を広げて微笑んだ。ヴィオは顔をしかめながらも、その足取りには迷いがなかった。まっすぐにルカの元へと歩み寄り、長い脚を折り曲げてソファに腰を下ろすと、そのままルカの身体にすがりつくように倒れ込んできた。

 氷のように冷え切ったヴィオの手がルカの背中に回り、厚手の布地越しでもわかるほどの強い力で引き寄せる。蛇獣人のしなやかで硬い筋肉がルカの柔らかい身体に密着し、冷気と熱が激しくぶつかり合った。


「……お前は本当に、無神経なほど温かいな。外の惨状など何も知らない平和な毛玉だ」


 ヴィオのくぐもった声がルカの首筋から響く。冷たい鼻先がルカの肌に擦り付けられ、ヴィオは深呼吸を繰り返した。肺の奥底までルカの干し草の匂いを吸い込み、自分の内側にある冷たい毒を中和しようとしているかのようだった。


「ヴィオさんが外で頑張ってくれているから、僕はここで平和にしていられるんですよ。お疲れ様でした」


 ルカはヴィオの銀色の長い髪に指を絡め、優しく梳くように撫でた。かじかんだヴィオの指先が、ルカの高い体温に触れて少しずつ血の巡りを取り戻していく。冷徹な特務機関のエリート官僚として恐れられる男が、自分の腕の中ではただ温もりを求める一人の不器用な生き物になってしまう。その事実が、ルカの胸の奥を甘く締め付けた。


***


 その日の夜、しばらく無言のまま互いの体温を交換していると、ヴィオの腕の力がわずかに緩んだ。彼は顔を上げ、至近距離でルカの瞳を真っすぐに見つめた。金の瞳には、普段の鋭さとは異なる、重く濁った光が揺らめいている。


「明日から、俺は数日間屋敷を空ける。特務機関の総力を挙げた討伐任務が下った。標的は、先日の襲撃を企てた反体制派の残党だ」


 ヴィオの言葉に、ルカは心臓が小さく跳ねるのを感じた。数日間もヴィオが帰ってこない。それは、ルカがこの屋敷に来てから初めてのことだった。


「数日も……。危険な任務なんですか」


「くだらん質問をするな。特務の仕事に安全なものなどない。だが、俺が遅れをとることはあり得ない。問題はお前のほうだ」


 ヴィオの冷たい指先がルカの顎を捉え、わずかに上を向かせる。氷と刃のフェロモンが突然強くなり、ルカの全身を威圧するように包み込んだ。それは純粋なアルファとしての支配欲であり、所有物に対する強烈な執着の表れだった。


「俺がいない間、部屋から一歩も出るな。窓を開けることも、他の誰かと余計な会話をすることも許さない。お前のその甘い匂いを、俺以外の奴に一瞬でも嗅がせたら……承知しないぞ」


 ヴィオの声は低く、脅すように響いた。しかし、その声の端々には、自分が留守にする間にルカが失われてしまうかもしれないという恐怖がこびりついている。ルカはその不器用な怯えを正確に読み取り、少しも怖がることはなかった。


「わかりました。僕はここで、ずっとヴィオさんの帰りを待っています。だから、ヴィオさんも絶対に無事で帰ってきてくださいね。約束ですよ」


 ルカはヴィオの手の上に自分の温かい手を重ね、安心させるように微笑んだ。ヴィオはその言葉を聞いてわずかに目を見開き、やがて諦めたように深い溜息をついた。


「わがままな草食獣め……俺に指図する気か」


 憎まれ口を叩きながらも、ヴィオは再びルカを強く抱きしめた。その夜、ヴィオは食事の時間も惜しむようにルカを寝台へと連れ込み、自分の冷たい身体が完全にルカの熱に溶けるまで、決して腕を解こうとはしなかった。互いのフェロモンが濃密に絡み合い、冷たい屋敷の中で、その部屋だけが世界の全てから切り離された絶対的な安全地帯となっていた。

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