第2話「氷の屋敷と日だまりの体温」
ヴィオに半ば強引に連れ出されたルカが到着したのは、王都の高級住宅街にそびえ立つ壮麗な屋敷だった。しかし、その立派な外観とは裏腹に、一歩足を踏み入れた瞬間にルカを襲ったのは、外気よりもさらに冷え切った重い空気だった。
玄関ホールは大理石で覆われ、足音が必要以上に高く反響する。壁には絵画一つ飾られておらず、生活感というものが完全に欠落していた。まるで長年誰も住んでいない廃墟に迷い込んだかのような静寂と寒々しさが、屋敷全体を支配している。窓には分厚いカーテンが引かれ、冬のわずかな日差しすらも徹底的に遮断されていた。
「ここは……すごく、冷たいですね。なんだか悲しくなるくらい」
ルカは自分の腕をさすりながら、素直な感想を口にした。彼の高い体温をもってしても、この空間の冷気は肌の表面をピリピリと刺してくるようだった。
「余計なことを言うな。俺は無駄な装飾や馴れ合いが嫌いなだけだ。さっさと奥へ来い」
ヴィオは振り返りもせず、冷たい声でそう言い放つと、迷いのない足取りで屋敷の奥へと進んでいく。その後ろ姿は広く真っすぐな背筋を保っていたが、どこか見えない重圧に耐えているような孤独感が漂っていた。ルカは小走りでヴィオの後を追いながら、周囲の冷たい壁をちらちらと見回した。特務機関のエリート官僚という華々しい肩書きとは裏腹に、ヴィオの日常がどれほど凍えきったものか、この屋敷が物語っているように思えた。
***
案内されたのは、屋敷の最奥にある広大な寝室だった。中央には天蓋付きの巨大なベッドが置かれているが、シーツも毛布も寒色系で統一されており、見るからに冷たそうだ。暖炉には火が入っておらず、灰すら残っていない。
「服を脱いでベッドに入れ。俺は少し仕事の整理をしてから行く」
ヴィオは外套を乱暴に椅子に投げ捨てると、隣の書斎へと姿を消した。残されたルカは、ぽつんと立ち尽くした。
『本当に僕、抱き枕になっちゃったんだな』
ルカは小さく息を吐き出すと、ヴィオの言う通りに作業着を脱ぎ、屋敷のメイドが用意してくれたゆったりとした薄手の寝巻きに着替えた。そして、大きなベッドの端にそっと身を横たえる。シーツは予想通りひんやりとしていたが、ルカの高い体温がすぐに周囲の布地を温め始め、彼のいる場所だけがぽかぽかとした小さな春のようになった。甘い干し草のフェロモンが、冷たい寝室の空気を少しずつ中和していく。
しばらくして、書斎から戻ってきたヴィオが寝室の扉を開けた。彼の表情は仕事の疲労で険しく、金の瞳には苛立ちの色が浮かんでいた。しかし、部屋に漂うルカのフェロモンを嗅ぎ取った瞬間、その動きがぴたりと止まった。ヴィオの鼻腔をくすぐる温かい香りは、彼が一日中戦い続けてきた冷酷な現実から彼を引き剥がすように、優しく甘く訴えかけてくる。
ヴィオは何の言葉も発さず、無言のままベッドに近づくと、ルカの隣に体を潜り込ませた。寝巻き越しに触れたヴィオの体は、温室で会った時と同じように恐ろしく冷たかった。まるで氷の彫刻が隣に寝転がったかのような温度差に、ルカは思わず肩をすくめた。
「あの、やっぱり暖炉に火を入れた方がいいんじゃ……」
「黙れ。火の匂いは嫌いだ。お前がいれば十分だ」
ヴィオはルカの言葉を遮ると、長い腕を伸ばしてルカの体を力強く抱き寄せた。蛇獣人特有のしなやかで強靭な筋肉がルカを包み込み、冷え切った肌がルカの温かい肌に直接触れる。ヴィオの顔がルカの胸元にうずめられ、そこから深い深呼吸の音が聞こえてきた。
「ひゃっ、冷たい……」
ルカは小さく声を上げたが、ヴィオは構わずさらに強く抱きしめてくる。ヴィオから放たれる氷と刃のフェロモンがルカを鋭く包み込むが、それに反発するようにルカの干し草のフェロモンがふわりと広がり、冷たい刃を柔らかい布で包み込むように中和していった。
時間が経つにつれ、ベッドの中の温度が少しずつ変化していく。ルカの無尽蔵とも言える熱が、ヴィオの凍てついた血管を溶かし、冷たい皮膚の下に温かい血の巡りを取り戻させていく。ヴィオの小刻みな震えが徐々に治まり、強張っていた背中の筋肉がゆっくりと弛緩していった。
「お前は、本当に無駄に温かいな。頭の中までお花畑のように温かいんだろう」
ヴィオの声は相変わらず毒を含んでいたが、そのトーンは先ほどよりもずっと低く、かすれていた。毒舌の裏にある安らぎを隠しきれていないその不器用な言い回しに、ルカはふふっと小さく笑い声を漏らした。
「そんなことないですよ。でも、ヴィオさんが少しでも温かくなったならよかったです」
ルカはヴィオの背中に手を回し、ゆっくりとその滑らかな背筋を撫でた。自分を抱きしめるヴィオの力が少しだけ弱まり、代わりに絶対的な安心感を求めるように体重が預けられるのを感じる。
ヴィオの心の中には、常に特務機関での過酷な任務と、冷たい権力闘争による緊張感が渦巻いていた。誰かに背中を預けることなど決して許されず、常に神経を尖らせて生きてきた。だからこそ、何の裏表もなく、ただただ純粋な熱を与えてくれるルカの存在は、ヴィオにとって劇薬のようなものだった。一度この熱を知ってしまえば、二度と元の冷たい孤独には戻れない。
ルカの規則正しい心音を聞きながら、ヴィオの意識は深く静かな眠りの底へと沈んでいった。その寝顔は、普段の威圧的な態度からは想像もつかないほど穏やかで、防備の欠片もない幼子のような表情だった。
ルカはヴィオの銀色の髪にそっと触れながら、この氷のようなアルファが抱えている深い孤独に思いを馳せた。最初は単なる暖房器具や抱き枕として連れてこられたと思っていたが、ヴィオが自分に縋りつく力の強さに、単なる寒さしのぎではない何かを感じ取っていた。
『なんだか、放っておけない人だな』
ルカは自分にぴったりとくっついて眠るヴィオの体温が、少しずつ自分の体温に近づいてくるのを確認し、ゆっくりと目を閉じた。冷え切っていた屋敷の寝室は、いつの間にか二人のフェロモンが完全に調和し、春の陽だまりのような温かさに満たされていた。




