第10話「微熱の鼓動と暗闇での手探り」
深い夜が続き、ルカの感覚はもはや自分が今どこにいるのかさえ曖昧になりかけていた。
極限まで放出されるルカの体温とフェロモンは、ヴィオの身体から絶え間なく溢れ出す氷結毒の冷気と相殺し合い、寝台の上には異常なまでの高湿度が立ち込めていた。汗なのか溶けた霜なのかわからない水滴が、二人の肌を濡らし、絡み合うように密着している。
ルカの視界は疲労で霞み、まぶたの裏にはチカチカとした光の点が無数に明滅していた。カピバラ獣人としてどれほど体温が高かろうと、これほど長時間にわたって限界以上の熱を供給し続けるのは命を削る行為に等しい。ルカの柔らかな亜麻色の癖毛は湿って額に張り付き、呼吸は浅く荒くなっていた。それでも、ヴィオの背中に回した腕の力だけは絶対に緩めなかった。
『……もう少しだ。ヴィオさんの身体、少しだけ柔らかくなってきた』
ルカは朦朧とする頭で、自分に触れるヴィオの筋肉の硬直が、わずかずつではあるが解け始めているのを感じ取っていた。最初は巨大な氷の彫刻に抱きついているかのようだった絶望的な冷たさが、今では真冬の冷たい水底程度には和らいでいる。そして何より、ヴィオの胸の奥から伝わってくる心音が、かすかに、しかし規則正しくリズムを刻み始めていた。
ルカは最後の力を振り絞り、自分の胸をヴィオの胸にさらに強く押し当てた。甘く焦がすような干し草のフェロモンが、ヴィオの冷たい皮膚から染み込むようにして、彼の凍てついた血管の奥深くへと流れ込んでいく。それは毒の成分を根本から破壊するものではなかったが、毒が引き起こす致死的な冷えを力技で中和し、自己治癒力を強制的に目覚めさせる効果を持っていた。
ふと、ヴィオの指先がピクリと動いた。
それは無意識の反射だったかもしれないが、ルカにとっては暗闇で見つけた一筋の光だった。ルカはヴィオの背中を優しく撫で、耳元で掠れた声を出した。
「ヴィオさん……僕の声、聞こえますか。ここにいますよ」
返事はない。しかし、ヴィオの紫がかった唇から、小さく白い息が漏れた。その息には、以前のような死を思わせる腐敗した匂いはなく、微かだが本来の彼らしい、鋭い氷と刃のフェロモンの香りが混じり始めていた。ルカはそれだけで十分だった。自分の命を削って与えた熱が、確実にヴィオの命を繋ぎ止めている。その確信が、ルカの心に静かな安堵をもたらした。
夜が白々と明け始める頃、ルカの体力はついに限界を迎えた。
ヴィオの体温が冷え切った状態から平熱に近いところまで戻ったのを確認した瞬間、ルカの中で張り詰めていた糸がプツリと切れたのだ。急激な脱力感が全身を襲い、ヴィオを抱きしめていた腕がだらりとシーツの上に落ちる。ルカの身体は極度の疲労と熱の喪失によってガタガタと震え出し、まぶたが鉛のように重くのしかかってきた。
『よかった……ヴィオさん、温かくなった。これなら、もう大丈夫……』
ルカは薄れゆく意識の中で、安堵の微笑みを浮かべた。カピバラ獣人としての本能が、これ以上の活動は危険だと警鐘を鳴らしている。ルカは最後にヴィオの穏やかな寝顔を脳裏に焼き付けると、深い眠りの底へとゆっくりと沈んでいった。
***
ルカが完全に意識を手放した直後、寝室の扉が恐る恐る開かれた。
徹夜で外の廊下に待機していた部下たちと医者が、部屋の様子を窺うようにそっと足を踏み入れた。彼らの目に飛び込んできたのは、乱れたシーツの上で、裸のままヴィオに覆い被さるようにして倒れているルカの姿だった。
「こ、これは……」
医者は慌ててベッドに駆け寄り、ヴィオの脈を取った。その瞬間、医者の目が見開き、信じられないものを見るかのようにルカの姿を見つめた。
「奇跡だ……。氷結毒の進行が完全に止まっているばかりか、心拍も体温も正常値に近いところまで回復している。あのカピバラの青年が、自分の命を投げ打って彼を温め抜いたんだ」
部下たちも一様に息を呑み、ルカの小さな身体から発せられる熱の残滓に圧倒されていた。医者はすぐに指示を出し、意識を失って体温が急低下しているルカをヴィオから引き離し、別の暖かい部屋へと移して治療を開始した。二人の命は、綱渡りのような奇跡の連続によって、間一髪で繋ぎ止められたのだった。




