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『偽りの舞踏』

作者: 小川敦人

『偽りの舞踏』


序章


──誰かが見ている。

その気配を感じるたびに、彼は仮面を正しく装着する。

白い陶器のような仮面は、彼の素顔を完璧に隠し、目の部分だけが黒くくり抜かれていた。

舞踏会のような、祝祭のような、あるいは戯れのような人生。その舞台に立つ限り、彼は仮面を外すことは許されなかった。

鏡の前に立つ志村は、その顔に刻まれた皺を指でなぞった。七十三年の歳月が、彼の皮膚に深い溝を作り上げていた。

老いた指で仮面を持ち上げる。もう半世紀以上、この仮面と共に生きてきたのだ。

医師からの宣告は、残り六ヶ月。肺の奥深くに巣食った影は、もうすぐ彼の命を飲み込むだろう。

「今さら何を」と呟きながらも、志村は仮面を顔に当て、鏡の中の自分を見つめた。仮面の向こう側に隠した本当の自分は、一体どこにいるのだろうか。



彼がその仮面を初めて手にしたのは、十歳の頃だった。

学校の廊下で、友人たちと無邪気に遊んでいた時、ある男子が言った。

「お前、なんか変だな。」

変、という言葉が心に突き刺さった。何が変なのか、分からなかった。

ただ、その一言の後、周囲の空気が微かに変わったことを感じた。

彼は慌てて笑った。「そんなことないよ。」

だが、その日以来、彼は「普通であること」に神経を尖らせるようになった。

誰もが笑うジョークには一緒に笑い、流行の遊びには積極的に加わる。

しかし、どこかで感じる違和感を振り払うことはできなかった。

ある日、父が書斎に飾っていた古い能面を手に取った。まるで、それが自分を守る道具であるかのように思えた。

父は静かに息子を見つめ、こう言った。

「その面は『翁』という。長寿と幸福の象徴だ」。志村はその仮面に魅了された。

それは彼に安全を与え、周囲の期待に応える方法を教えてくれるように思えた。

十代を通じて、彼は完璧な息子、模範的な生徒になる術を習得した。

友人たちは彼の優しさを称え、教師たちは彼の勤勉さを褒めた。

仮面の下で、志村は自分自身を失いながらも、他者からの承認を得ることで存在の意味を見出そうとした。

「志村くんは本当に素晴らしい子だね」と大人たちが言うたびに、彼は微笑んだ。その言葉が、仮面をより強固に彼の顔に固定していった。



大学に入ると、彼の仮面はさらに洗練されたものになった。

社交の場では穏やかで、礼儀正しく、常に適切な反応を示す。

女性たちは彼を「理想的な紳士」と呼び、友人たちは彼を「安定した男」と評した。だが、彼自身は、それが本当の自分なのか分からなくなっていた。

ある日、彼は同級生の園田と付き合うことになった。彼女は繊細で、感受性が豊かで、彼に深い愛情を向けてくれた。

「あなたのことを、もっと知りたいの。」

彼女はそう言った。

だが、彼は「本当の自分」を見せることができなかった。

彼が黙り込むと、園田は彼の目を覗き込んだ。「何を考えているの?」と彼女が尋ねるたびに、彼は適当な言葉を並べた。

「君のこと」「将来のこと」。彼は自分が何を考えているのか、本当には分からなかった。

「私たち、結婚しましょう」と園田が言った時、志村は迷わず頷いた。それが「正しい」答えだったから。

周りの期待に応えるために。「おめでとう」と言われ、祝福される中で、彼はまた一つ、仮面を重ねていった。

結婚式の日、白いウェディングドレスに身を包んだ園田は、幸せに満ちた表情で彼を見つめていた。志村も微笑み返したが、その内側では、奇妙な空虚感が広がっていた。



仮面をつけて生きることは、次第に彼の本質を侵食し始めた。

夜、一人の部屋で鏡を見る。仮面の奥の自分の目は、何も映していないようだった。

「僕は、何者なんだ?」

問いかけても、答えは出ない。

サラリーマンとしての道を歩み始めた志村は、会社でも「頼りになる志村さん」と評価された。

彼は決して不満を口にせず、上司の理不尽な命令にも従い、同僚とのトラブルも穏便に収めていった。

帰宅すれば、理想的な夫を演じた。家事を手伝い、週末には妻を買い物に連れ出し、誕生日には必ず花束を贈る。表面上は、何も問題のない家庭だった。

だが、園田との間に生まれた娘・美咲が成長するにつれ、新たな問題が浮上した。

美咲は鋭い感性を持ち、父親の仮面の下を覗き込もうとするかのように、志村に直接的な質問を投げかけるようになった。

「お父さん、本当は何が好きなの?」

「お父さんは、どんな夢を持ってたの?」

「お父さんは、幸せ?」

それらの問いに、志村は言葉を失った。娘に嘘をつくことはできなかったが、真実も語れなかった。彼自身がその答えを知らなかったからだ。

美咲が十七歳の時、彼女は反抗期を迎えた。「お父さんは偽物だ!」と叫んだ美咲の言葉が、志村の心を刺し貫いた。それは彼が最も恐れていた言葉だった。真実だからこそ。



四十五歳の時、志村は昇進し、部長の座を手に入れた。しかし、達成感よりも疲労感の方が強かった。

彼は毎日、重くなっていく仮面を付け続けた。

ある日、営業部の若手が失敗し、大きな取引を逃した。他の管理職は厳しく彼を叱責した。

志村も同じように厳しい言葉を吐こうとしたが、突然、言葉に詰まった。

仮面の下から、思いがけない感情が湧き上がってきた。

「みんな、彼を責めるのは止めよう。失敗からこそ学ぶことがある」。志村の言葉に、会議室が静まり返った。

その日から、志村は微かな変化を感じ始めた。長年押し殺してきた自分の声が、時折、仮面の隙間から漏れ出してくるようになった。

五十歳を過ぎた頃、園田との関係に亀裂が生じ始めた。長年、彼女は志村の仮面を受け入れてきたが、もう限界だった。

「あなた、私の目を見て話してくれる?」

食事中、彼女は問いかけた。志村は箸を止め、彼女を見た。

「あなたと暮らして三十年。でも、あなたのことを本当に知っているとは思えないの」

彼女の目に涙が浮かんでいた。

志村は言葉を失った。何を言えば良いのか。何を伝えれば良いのか。彼自身、自分のことを理解していなかった。

その翌年、園田は実家に戻った。「少し、距離を置きたい」と彼女は言った。志村は止めなかった。彼女の幸せのためには、それが正しいと思ったから。



六十歳で定年退職を迎えた志村は、突如として目的を失った。

仕事という舞台がなくなり、妻も遠ざかり、娘は海外で自分の人生を築いていた。

彼はアパートの小さな一室で、一人静かに暮らし始めた。

テレビを眺め、時々公園を散歩する日々。かつて「理想的な」と呼ばれた人生は、こうして静かに幕を閉じようとしていた。

ある秋の日、彼は近所の美術館に足を踏み入れた。ふと目に留まったのは、ある抽象画だった。赤と黒が渦巻く、感情の嵐のような絵。

彼は立ち尽くした。胸の奥で何かが疼く。まるで、その絵が彼の内側の混沌を映し出しているようだった。

「この絵が気に入ったかい?」

振り向くと、白髪の男性が立っていた。アーティスト自身だった。

「これは……私の内側のようだ」と志村は言った。

画家は微笑んだ。「それが芸術さ。見る人の内側を映し出す鏡なんだ」

その日から、志村は頻繁に美術館を訪れるようになった。

そこで出会った人々と、芸術について、人生について語り合った。彼は徐々に、仮面を外す勇気を持ち始めた。

七十歳の誕生日に、娘の美咲が久しぶりに訪ねてきた。彼女は海外の大学で教鞭を執り、自分の道を歩んでいた。

「お父さん、元気だった?」

彼女の穏やかな声に、志村は涙を抑えられなかった。

「美咲……お父さんは、ずっと間違っていた」

彼は初めて、素直な言葉を口にした。

「私は……本当の自分を生きてこなかった。みんなの期待に応えようとして、自分を失ってしまった」

美咲は静かに父の手を握った。

「今からでも遅くないよ、お父さん」



医師からの余命宣告から三ヶ月が過ぎた。志村は日記を書き始めた。

七十三年の人生で、初めて自分の本当の声を記録していく作業だった。

「私はずっと、誰かの期待を生きてきた。両親の期待、社会の期待、会社の期待。でも、自分が何を望んでいたのか、考えたことすらなかった」

彼は過去を振り返った。道を間違えたのは、最初の「変だな」という言葉を聞いた時だろうか。それとも、父の仮面を手に取った時だろうか。

ある日、彼は園田に電話をかけた。彼女は驚いたようだったが、話を聞いてくれた。

「君に、謝りたい」と志村は言った。「本当の自分を見せられなかった。いや、自分自身が、本当の自分を知らなかったんだ」

電話の向こうで、園田は静かに泣いた。

「あなたのことは、ずっと愛してたわ。だからこそ、本当のあなたに会いたかった」

その言葉が、彼の心に深く残った。

残された時間で、志村は自分の人生を取り戻そうとした。美術教室に通い、絵を描き始めた。拙いながらも、自分の感情を色と形で表現する喜びを知った。

公園のベンチに座り、通りすがりの人々と言葉を交わす。かつては「無駄な時間」と思っていたことが、今は何よりも貴重な瞬間に思えた。



余命一ヶ月を切った頃、志村は小さな個展を開いた。

美術教室の仲間たちの勧めもあり、彼の描いた十数点の作品が、小さなギャラリーの壁に飾られた。

開催日、思いがけず多くの人々が訪れた。美咲は海外から駆けつけ、園田も姿を見せた。会社の元同僚たち、近所の人々、美術教室の仲間たち。

「志村さんの絵からは、強い感情が伝わってくる」

「まるで魂の叫びのようだ」

「こんな才能があったなんて」

彼らの言葉に、志村は微笑んだ。これは称賛でも何でもなく、ただ、彼の本当の姿を見て、反応してくれているのだと分かった。

個展の最後に、志村は小さなスピーチをした。震える声で、彼は語った。

「私は長い間、仮面をつけて生きてきました。みんなの期待に応えるために、『いい人』を演じ続けてきたのです。でも、気づいたのです。本当の自分を失ってしまったことに」

会場が静まり返る。

「残された時間はわずかですが、最後に、素顔で生きたいと思います。不器用でも、未熟でも、これが本当の私です」

彼の言葉が終わると、静かな拍手が広がった。美咲は父の手を取り、強く握った。園田の目には涙が光っていた。


終章


志村の最期は、静かなものだった。ホスピスの窓から差し込む朝日の中で、彼は目を閉じた。枕元には美咲と園田が座っていた。

彼は最後まで、日記を書き続けた。最後のページには、こう記されていた。

「人生は仮面の舞踏だった。でも、最後に仮面を外すことができた。遅すぎたかもしれない。しかし、素顔で生きる短い時間は、偽りの長い人生よりも価値があった。今、私は恐れなく死にゆく。なぜなら、最後に、本当の自分で生きることができたから」

葬儀は小さく行われた。美咲は父の遺品の中から、古い能面を見つけた。父が幼い頃から大切にしていたという「翁」の面だ。

彼女はそっと、その仮面に触れた。「お父さんは、ようやく自由になったね」と呟いた。

彼の素顔を知る機会はもうないが、最後に垣間見た真実の彼の微笑みが、美咲の記憶に深く刻まれていた。

舞踏会は終わった。仮面は今、ただの遺物となり、静かに棚に置かれている。そして彼の魂は、ようやく本当の自分として、永遠の自由を得たのだった。

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