8 未来からの依頼人 1
わたしが目を覚ますと、カーン、カーンという鐘の音が間近に聞こえた。見上げると、それはビッグベンだった。
わたしたちは、ビッグベンが見えるくらいの位置に到着していた。
「真司、起きて」
わたしは意識を失っている真司を揺り動かした。真司が目を覚ました。
「上を見て、ほら、ビッグベンよ」
「あっ、本当だ。俺たちとうとうやって来たんだ。19世紀のロンドンに……。やった!、やった!」
真司が自転車に乗っていることを忘れてはしゃいだので、わたしたちはタイム自転車ごと横倒しになった。
周囲の視線を感じた。よく見ると、通行人が立ち止まり、わたしたちをいつまでも好奇の目で見ている。
「何で、ずっと俺たちを見ているんだ?」
「もしかしたら、服装じゃないかしら」
真司は茶色の長袖のTシャツの上に紺色のGジャンをはおり、茶色のGパンをはいている。
わたしは白の長袖Tシャツの上に紺色のGジャンをはおり、水色のGパンをはいている。
19世紀ービクトリア王朝時代ーの人々は、庶民でも、男性は背広の中にきちんとしたベストを着込むというような紳士風の身だしなみ、女性は帽子を被り、ペチコートでふくらませた長いスカートをはくという淑女の身だしなみをしていた。
「しまった、そんなこと考えてなかったな。どうする?」
わたしたちは顔を見合わせた。
「探検家か……」
という声とともに、人々は散って行った。わたしはほっとした。
「今、何ていったんだ? しまった、俺、英語を話すってことも忘れてたよ。これじゃあ、ホームズと話ができない」
真司は頭をかかえた。
「今のは、『探検家か……』っていったのよ」
「何だ、おまえ、英語が分かるのか?」
「うん、わたし、9才までロンドンにいたの」
でも、現代のロンドンとは少し違う。当たり前だが。
「そんなの初耳だ。どうして今まで黙っていたんだよ?」
「別に真司に隠すつもりはなかったんだけど、機会がなかったのよ」
「隠すって、どういうことだよ?」
わたしは東京の学校であったことを話した。
「ふーん、そうか。でも、俺ならすごいって思うけどな」
「そう思ってくれてありがとう」
「まあ、いろいろな人がいるからな。麻子が英語を話せて助かったよ」
「なんの、なんの、おやすい御用で……」
わたしはおどけていった。
「ちぇっ、すぐ調子に乗る」
真司はわたしの頭をチョコンと軽く叩いた。
「えへへへ……」
わたしは頭をかきながら思った。
本当に不思議。真司の前なら、いろいろなわたしが出てくる。
以降、ロンドンでの会話は、わたしが通訳するという形になるけど、そこのところの描写は必要なところ以外、省くことにするわね。
「それじゃあ、地図もいらないな。麻子はベーカー街も知っているんだろう?」
「ええ、もちろん」
「道案内、たのむ」
真司がペダルをこぎ出した。ビッグベンは、ウエストミンスター橋の近くに建っている。テムズ川にかかっているウエストミンスター橋を渡らずに、最初の角を右に曲がり、スコットランドヤードとトラガルファー広場の脇を抜け、北西のベーカー街を目指す。
ロンドンは霧の街として有名だが、霧に覆われているのは冬だけだということは、19世紀も現代も変わらない。
視界はくっきりしているので、わたしは19世紀のロンドンの街並みを楽しんだ。