そして不思議に近づきゆく心
「珍種ハーブを見つけて、採集しようとしたら足元が崩れて、崖の下に落ちた、というのか?」
女騎士ジョゼフィンと、毒見役の中年騎士から訳を聞いて――金髪青年ローガンは、呆れかえっていた。
中年騎士が顔をしかめて、ぼそぼそと呟く。
「済まんな。元は私が原因だ。例の毒物の色に染める過程は、女騎士ジョゼフィンも手伝っていた作業だが、一部が再現できなくてな。リデル嬢が崖の近くで原料を発見し、必要な処理を教えてくれた。ついでに珍種とやらも発見して、あとはご存じの通りだ」
「研究者気質ってとこで共通してるな」
さらに呆れるローガンに、女騎士ジョゼフィンが生真面目に頷く。
「だから天然のトラブルメーカーであります、ローガン殿。あの珍種、命を懸ける価値がある」
「崖の上から墜落し、失神して、なお必死で握り締めるだけの価値が?」
「御意」
聞き取りが一段落したところで、それまで沈黙していたジュードが、新しい質問を投げた。
「女騎士ジョゼフィンの言う『一族』とは? リデル嬢に関係が?」
「それは明かせない。王国の法に反してはおらぬが、沈黙の誓いを立てているゆえ」
壮年の女騎士は、堅く口を閉ざした。
夜の帳が降りる。
リデルのコテージの窓辺で――少し不思議な位置取りで――ランプの光がほのめいた。
ランプ芯を切ったり各種ハーブを整理したり、日常作業に必要ということで、ジュードが弾いていた最初の短剣のみ、リデルの手に戻されている。
ジュードは、そのランプの光を、長い間見つめていた……
…………
……夜が更けても眠れないまま、ジュードはボンヤリと、野営地を照らす篝火のひとつに目をやった。
近くの切り株の面に、眠気覚まし用のチェスセットがある。夜目の利く馬たちが、林間の囲いの中でグルグル散歩を楽しんでいる。蹄鉄が地面を踏みしめる、リズミカルなささやき。
気もそぞろに、白のビショップ駒を拾う。トップは水瓶に似た造形。クイーン駒に似た流麗なラインで、水瓶を頭に乗せた乙女を連想させる。
そのまま手の平の上で、コロコロ、コロコロと転がす。
心に思うのは、断崖絶壁に張り付く緑の蔓の中、あっけらかんと失神していたあの娘の事だ。
着衣の背中部分が派手に破れていた。岩壁の突起に引っ掛けたのだ。かすり傷で済んだのは、市井の頑丈な胴着のお蔭。
普通に、肩に担ごうとしたのだが。剥き出しになった背中が目に入って……
――火傷痕というのは、これか。
引き攣れて醜く変色した皮膚。ゾッとする程の面積に広がっていた。よく命があったものだ。
『夫人と令嬢と共に、ブランドン侯爵は、アクシズ領を訪問していた。余談ながら、アクシズの丘の天文台の火事騒ぎがあった』
『ブランドン侯爵令嬢が火事に遭ったという話は無かったような気がするんだ』
……何かが引っ掛かる。
『御母堂に似て、お小さい頃はよく熱を出されて、ハラハラさせられておりましたが』
母親ブランドン侯爵夫人は病弱な女性だったのだろう。今のリデル嬢は……?
――女ビショップ・リデル。あの緑の目の奥に、どんな斜め上の謎を隠しているんだ?
ジュードは、いつしか、白ビショップ駒を固く握りしめていた。
「……、おーい、声届いてる? サー・ジュード」
ジュードは飛び上がった。飛び上がりざまに、振り返る。
豊かな黒髪に鮮やかな緑の目をした娘が、例のコテージの窓から手を振って、ジュードを呼んでいた。
「レディ・リデル?」
「普通のリデルで構わないわよ、命の恩人だもの、サー・ジュードは」
「言ってませんでしたっけ? オレ『サー』じゃ無いですよ」
「でも称号持ちでしょ。国王と女王が……玉座の間? キラキラしているところ……」
リデルは窓越しにジッとジュードを見つめ、首を傾げて……緑の目が、不意に、文字通りテンになる。
「あれが『過去』じゃ無いなら……あんなにハッキリ確定してる風なのに『未来』なの?」
「何の話ですか?」
「何でも無いわ。それはそうと、明日の朝、騎士ルーファスとグレアムに伝言お願いできる? 蝋燭を持ってたと思うの。蝋が……蜜蝋が必要だから貰いたいって」
「お安い御用。量が足りなければ、こちらからも提供できますが、何に使うんです? 放火とか?」
途端に、緑の目が輝きを失った。視線が泳ぎ、窓枠に掛かっていた細い手が震え出す。
血の気を失って震える手から、伝わってくるのは……恐怖。
「放火は……無いわ。絶対に」
「悪かった、済まん」
ジュードは、震えるリデルの手を握った。
背中の火傷痕が関係しているのは明らかだ。リーダー・ヴィンセントの話を考えると、火事に遭ったのは6歳ごろ。
――どれほど恐ろしかっただろう。
気が付くと……ジュードは、リデルの手の甲に口づけをしていたのだった。
お互いに何をしているのか分からず、呆然とするままに再び面を上げて、窓越しに見つめ合う。
リデルの頬は上気していた。宵をわたる微風にさえ、露を帯びて震える花のような、壊れやすくて繊細な――
真夏の木々の万緑よりもなお鮮やかな緑の目が、至高の宝石のようにきらめいている。
いつもは器用なジュードの、もうひとつの手の指の間から、白ビショップ駒が転がり落ちて……無粋な音を立てた。
――カラン。
いつになくジュードは、焦るままに白い駒を拾い……侯爵令嬢に一礼することも失念したまま、その場を立ち去ったのだった。
*****
その日の朝。
リデルのコテージの前で、大鍋が火にかけられ、グツグツと煮えたぎっていた。
沸騰した大鍋の中で、大振りな耐熱容器に分けて収めておいた、数セットの蝋燭が溶けてゆく。
湯煎されて純度を増した蝋を、リデルの助手を務める女騎士ジョゼフィンが、雑多な大鉢の数々に移していた。
リデルは、大鉢の中の蝋が冷えて固まらないうちに、例の珍種ハーブを砕いて加工した粉末や種々のオイルを練り込んでいった。大鉢は作業台を次々に埋め、中身を熟成し始める。
野次馬と化した伝令の少年たちが、興味津々で呟いている。
「なんだか、魔女が大鍋の中で怪しい何かを合成してるみたいだなぁ」
「オレ、知ってる。あの軟膏を体に塗れば、ホウキに乗って空を飛べるようになるんだ」
「アカデミーでコテンパンに論破されてっぞ、そのアホな狂信者の論文」
やがて、遠巻きにして見物していた野盗騎士団の面々の、並びが分かれた。
修道女のような、旧式ヴェールのシニア女性。だが、堂々とした所作や、ヴェールの端から見える着衣は、修道女の其れでは無い。明らかに高位の貴婦人だ。
脇にアガタ夫人が控えていて、その謎の貴婦人に、ヒソヒソ話しかけている。
「……さようでございます。昨日、確認に参りましたところ、ブランドン侯爵さまが、おっしゃって……」
一段落ついたリデルと女騎士ジョゼフィンは、当惑するばかりだ。疲れて大汗をかいていて、淑女の礼をするどころでは無い。
微妙な沈黙と緊張。
しかし、その謎の貴婦人は鷹揚な笑みを見せた後、アガタ夫人と共に身を返して、元の方向へ立ち去って行った。
*****
……その日の天候は、1日、どんよりとした雲に覆われていた。
野盗騎士団では、リーダー・ヴィンセント不在がつづいている。
夕方も近くなると、海から来る風が強まり、次第に荒れ模様になっていった……
*****
天候が崩れ出した、その日の夕方。
リーダー・ヴィンセントの留守を預かる側近たちは、倉庫の中で、困惑しきりだ。
「ホールデン子爵、身代金を全額、用意できたのか? この短期間に」
意外そうなローガン青年と、疑問顔のジュード青年。
倉庫の中心に会計担当が居て、せっせと記録しているところだ。
「不正蓄財と思しき金の延べ棒、教会&アカデミーで開発研究している筈の高価な永年インク、天然石の絵具、何故か銘が削られた宝飾品の数々……過去の未解決事件の盗品記録や横流し記録を調べれば追跡できるかも知れない」
「教会&アカデミーからの盗品もあるとは。例の『ツルッパゲ野郎』と結託しているのかね」
興味津々で顔を出していた毒見役の中年騎士が、穏やかならぬ笑みを浮かべた。
注意深く検算を済ませた会計担当が、ローガンとジュードを振り返る。
「全額、用意されたのは確かだ。令嬢をホールデン子爵へ返さなければならないだろう。ホールデン子爵の要求どおり、単独で。従者3人分の身代金は無いから」
「あのお姫様は、何も言わずに承知するだろうな。自分ひとりで済むなら、と」
ローガンがボソッと呟き、ジュードは顔をしかめて、あらぬ方を向いた。
*****
ローガンとジュードの予想どおり、リデルは、あっさりと話を承諾した。翌日の出立準備のため例のコテージに引きこもったままだ。
別の拠点のコテージに引き続き拘束中の従者3人と、拘束した側の野盗騎士団の面々は、お互いに気心が知れて来るにつれ、困惑しながらも良好な関係となっていた。相変わらず腰紐つきだが、監視はゆるくなっていて、ほぼ『客人』扱いである。
リデルの警護を務めていた騎士ルーファスは、ローガンとジュードの剣の腕前に感心して、お互いに技量を磨き合う仲だ。
騎士ルーファス、ローガン、ジュードの間で軽く一戦交えて休憩に入ると、程よいタイミングで女騎士ジョゼフィンが声を掛けた。ズッシリとした麻袋を抱えている。毒見役の中年騎士も同じ麻袋を運んでいた。腰紐を握る監視役ではあるが。
「リデル嬢の差し入れだ。先ほど熟成に成功したのでな」
訳を知る騎士ルーファスと老御者グレアムが、2人とも息を呑み、麻袋の中をのぞき込む。固く蓋をしてある大鉢が10個以上。
「あの『黒魔術封じ』か! よくこれだけ作れたな」
「例の珍種、古文書の戯言と思っていたがな。ここ数日のうちに大きな黒魔術の展開があるそうだ。剣と盾に、シッカリ塗り込んでおくのだ。質と量があるから、甲冑にも。他の道具にも塗っておくと良い、錆止めのための蝋引きと思って」
疑問顔のローガンとジュードへ、毒見役の中年騎士が解説を始めた。
「王都大聖堂の宝物庫からの配給でしか手に入らない、伝説の『黒魔術封じ』なんだ。効果は、教会&アカデミー共同開発の後発品どころじゃ無い。『聖別の盾』を作り出すアレ、リヴェンデル女子修道院のシスターたちが伝承しているそうだ。リデル嬢はシスター・G・エルダーの優秀な生徒だとか」
「ちょっと待てよ」
ローガンが不意に、琥珀色の双眼を光らせた。
「騎士ルーファス殿、最初の時『聖別の盾』をあらかじめ用意してたな? 長剣も、あの戦斧や光煙を多く受けておいて、ダメージは軽かった……異常粉砕してなかった。ずっと前から黒魔術に気付いて、用意してたのか? 黒魔術への対応、慣れてるのか」
「いや、『予知』があって準備してたんだ。『一族』の――」
「ルーファス殿!」
女騎士ジョゼフィンの声が尖った。騎士ルーファスはハッとした顔になり、口を閉じた。
ジュードの中で、恐るべき予感が固まった。『過去』と……『未来』。
「その『一族』というのは、『透視』や『予知』の……あの異能の、伝説の一族か? リデル嬢が?」
「戯言だ。直系は既に断絶した。かの狂信者の手によって。狂信者が死んだ後も、その高弟たちが『魔女の一族』と名付けて血眼になって探し回っているが、この世の何処にも直系の血筋は存在しない」
その時、扉が開いた。
ハッとして振り向く一同。
そこには――あの謎のヴェール姿の、威風堂々とした高位の貴婦人が佇んでいた。
「時が来たら、私から説明しましょう。その『黒魔術封じ』、大いに活用なさい。ご苦労でしたね、リヴェンデル聖騎士ジョゼフィン・フレイザー殿、王都法騎士ルーファス・グレンヴィル殿」