取扱説明書
次の週、ホテルのロビーに到着すると、織の入った白いワンピースを着た菜々子ちゃんが同じ場所に立っていた。僕を見つけると目配せでカウンターへ行けと指示をする。僕は何も見ていないかのようにチェックインをすませると、一人でエレベーターホールに向かった。彼女は赤の他人のように白々しくエレベーターに乗り込む。僕たちは目も合わさない。
部屋に入ると彼女は先にベッドの腰を下ろした。僕が隣りに座る前に、彼女が先に口を開いた。
「どうしたの? 今日は浮かない顔してるわ」
「そうかな…」僕はドキッとして答えた。
「奥さんと別れられたくないんでしょう?」
「まさか、別れたいにきまってるよ」
「ふうん…」彼女は見透かすように言う。
「でも…、離婚にもっていくのは相当大変だと思う…」
「へえ…」
「だから…」
「わかってる、もう言わなくていいわよ、あなたは奥さんを殺すことを考えたんでしょう? でも殺せなかった、やはり奥さんのことを愛しているのよ」
「そうじゃない、愛してなんかいない、…ただ、自分のことを考えたんだ、完全犯罪なんてオレにできるはずはないよ、妻を殺せばバレて僕は刑務所行きだ、妻がいなくなったところで菜々子ちゃんと一緒になることもできない、妻を殺したところでなにも解決しないんだ」
「だから代わりに私を殺そうと思ったの?」
「え?」
「わかるわよ、顔に書いてあるわ」
「違うんだよ…」
「違わないでしょう? 悟志くん、嘘で取り繕わなくていいのよ、私を殺してあなたも死んで、そうやって一緒になろうって考えてくれたんでしょう?」
「菜々子ちゃん…」
「それもいいかもね、…ねえ、どうやって私のこと殺すつもりだったの、聞かせてよ?」
「…」
「聞かせてよ、いろいろ考えてくれたんでしょう? 刃物? 首絞める? お風呂で溺死? それとも突き落とす いいのよ、正直に話して、ねえ、悟志君、あなたは誠実な人なの、嘘なんかつかないで、あなたの言うことは全部受け止めるわ、…それで? どうやって殺すつもりだったの?」
「顔を見てから決めるつもりだった…」
「あら? やっぱりその気だったのね?」
「いや…」
「それで? 何を選んでくれるの?」
「…」
「好きにしていいわよ」
「…」
「私はどんな殺され方が似合いそう? 自分ではわからないわ」
「菜々子ちゃん…」
「はい」
「やっぱり無理だよ、菜々子ちゃんの顔見たら…殺すなんてできない」
「本当は奥さんを一人にしたくないからじゃないの?」
「違うよ、そんなんじゃない、信じてよ、…離婚は難しいと思ったけど菜々子ちゃんを殺すことに比べたらずっと簡単だよ」
「そんなこと当り前じゃないの、大学の先生なんでしょう? 頭いいんでしょう? そんなこともわからないの?」
「ごめん…」
「あなたの気持ちは信じられても行動が信じられない…」
「ごめん…」
「謝ってほしいわけじゃないから、今日はこのまま帰るわ」
「ごめん…」
「ごめんしか言えないの? 意気地なし」
「ごめん」
彼女は僕の顔を見て、立ち上がり、ドアに向かって歩き出した。僕は追いかけようとしたけれど体が動かない。
「菜々子ちゃん」僕は必死に声を出した。
彼女は振り返って微笑み、「また会いに行くわ」と言って手を振ってドアから出て行った。
彼女が出て行ったあと、僕は倒れ込むようにベッドに横になった。そのまま眠り込んでしまった。気がついたら二時間ほど過ぎていた。寝ているときは時間の経過の感覚があるが、気絶しているときはその感覚がないという。ベッドの上に二時間もいた気がしなかい。でも、彼女とここにいたのがずっと前のような気がした。
ホテルを出ると、濃淡のある墨絵のような雲が空を覆っていた。空が広く娯楽の少なかった昔、空を見上げて雲から何かを読み解こうとしたのはきわめて自然なことだったのだろう。しかも雲の形は数分目を離している間にすっかり変わる。写真もない時代雲の形は記憶するしかなかった、そんなことを考えながら僕はふらふらと歩いた。我に返った時は知らない通りをあてもなく歩いていた。僕はスマホで自分の位置を確かめると、地下鉄に乗って大学に戻った。
とにかく、家に帰る気にならなかった。妻の顔を見る気にならなかった。
菜々子ちゃんは別れ際に「また会いに行く」と言った。だとしたら、またここに現れる。それはいつなのだろう。ずっと先のような気もするし、明日あたり顔を出してくれそうな予感もする。それは本当に予感? ただの期待か。僕は時間をやり過ごしていた。ただ暗くなるのを待っていた。
八時過ぎに自宅に着いた。
妻のすぐに顔を合わせたくないので、自分で鍵を開けた。ただいま、と言ってみたものの返事はない。リビングを覗くと、妻はこちらに背を向けてソファの上で横になっている。仕事から戻って着替えもしていない。着ているものが皴になる、そう思って僕は妻を起こそうと肩に手をかけた。
血の気がない。
僕は文字通り腰を抜かした。立ち上がるどころか、声を出すこともできない。
「悟志君」
突然背中から声が聞こえた。その声のおかげで、体と口が自由になる。まさか、と思ってリビングの床に座ったまま体の向きを変えると、菜々子ちゃんが立っていた。
「どうして…」僕は何を聞いているのか自分でもよくわからない。
「ごめんなさい、私も結局自分がかわいかったの」
「何が?」今度は彼女の言葉の意味がわからない。
「時間があまりないわ、これから私がトリセツを話すから一度で理解して」
「トリセツって取扱説明書?」
「もちろん」
「何の?」
「幽霊の取説よ、私、幽霊なの」
「え?」
「ああ、よかった、ちゃんと言えてる、私ちゃんと成仏できるわ」彼女は嬉しそうに笑う。
「成仏?」
「じゃあ、手短に行くわよ、幽霊にはできないこと三つあるの、嘘をつくこと、他人を殺すこと、そして自分が幽霊だと口にすること、でもね、三つ目は成仏する直前だけできるようになるの、だから今言えたでしょう?」
「う、うん」
「自分は幽霊じゃないとは言えない、それは嘘になっちゃうでしょう? でも幽霊だとも言えない、私何度か言おうとしたのよ。でもダメだった、気づいてた?」
「え?」
「私有名なの、って何度か言ったでしょう? あれ本当は、私幽霊なの、って言おうとしたの、でも『幽霊』っていう言葉が口から出たとたんに『有名』に変換されちゃうのよ」
「見た目は人間にしか見えない…」
「ねえ、足のない幽霊は誰の発明だか知ってる?」
「丸山応挙?」
「そうよ、幽霊は本当は足があるの、というより見た目は人間と一緒よ、見分け何てつかないわ、応挙が実際は幽霊を見たことがないのか、それとも実際の幽霊を見てこのままじゃ絵にならないと思って足をなくしたのか…、それは分からないけど…」
「だとしたら後者の方がいいなあ、なんかロマンがあるよね…」
「学者先生はそういうところに引っかかるのね?」
「あ…」
「とにかく、取説を頭の中に入れてくれればそれでいいわ、…幽霊ってね、必ず思っている相手がいるの、私の場合はあなたよ、悟志くん、だけどその人との思いが成就できず死にきれない、本当よ」
「うん…」
「私を見て、って思いを寄せた人の前に現れる、それが幽霊なの、だからあなたには私の姿が見える」
「他の人には見えない?」
「私の姿が見えるのは、あなたと、あなたを知っている人だけ、奥さんは私の姿が見えた、あとはあなたの研究室の学生さんにも見えていたはず、でもそれ以外の人には見えないわ、…私があなたとホテルで密会した理由は、あなたが空気と会話してる頭のおかしい人に見えちゃうからよ、二人でいても普通の人にはあなた一人の姿しか見えないから」
「そういうこと…」
「幽霊はね、思いを遂げたら成仏できるの、逆に言えば思いを遂げない限り幽霊は幽霊のままよ、もし思いを寄せた相手がすでにこの世にいなかったらどうなるかわかる?」
「まさかずっと幽霊のまま?」
「そこまでひどくはないけど…、似たようなものかなあ…」
「どういうこと?」
「幽霊は見てほしいの、見てくれる人がいる限り幽霊のままでいなければいけない、もし悟志君がすでに死んでしまっていたら、私が見える人つまり悟志君のことを知っている人が全員死んで初めて私は成仏できる、でも自分ではわからないのよ、自分が姿が誰に見えているかが、そこが厄介なところよ」
「それって、地獄かも…」
「そうでしょう? だからあなたが生きていてくれて本当に嬉しかったの」
彼女は満面の笑みを浮かべた。
「菜々子ちゃん?」
「なあに?」
「幽霊ってどうやったらなれる?」
「それは研究したらおもしろいかもしれないわ、たぶんやり方はいくつかあるはずよ、私は一つしかしらないけど」
「どうやるの?」
「最初に言ったように幽霊は他人を殺せない、でも幽霊を殺そうとした人は幽霊になるの、…例えばあなたの奥さんみたいに」
「え! じゃあ、妻は菜々子ちゃんを殺そうとしたの」
「そうよ」
「そんな…」
「本当よ、幽霊は嘘がつけないんだから」
「ちょっと待ってよ、じゃあ菜々子ちゃんも誰かを殺そうとしたってこと? その相手が幽霊だったから菜々子ちゃんも幽霊になったの?」
「そうよ」
「何があったの?」
「それを話すと長くなるからやめましょう、成仏するまで時間があまりないのよ」
「そうなの?」
「ただ自分が幽霊になってよくわかったわ、殺意を煽るのがすごく上手なのよ、自分もこうやって乗せらたんだってよくわかったわ、あなたの奥さんだって誰かを殺すような人には見えないでしょう? 幽霊に煽られると殺意って湧くものなのよ、…、ここだけは謝るわ、ごめんなさい」
「何が?」
「私、奥さんがどういう人だか全然知らなかった、私の存在を知って逆上して悟志君を殺しちゃったらどうしようって思ってしまったの」
「オレの心配をしてくれたんだ」
「違うわよ、自分の心配をしたの」
「え?」
「だって悟志君が先に死んじゃったら私は思いを遂げられないでしょう? 成仏できなくなるじゃない、…嘘がつけないって面倒くさいわ、気を悪くさせたでしょう?」
「そんな…」
「今から大事な話をするからしっかり聞いてね、いい?」
「うん」
「奥さんは亡くなったわ、このあと警察に電話して、悟志君も色々聞かれるはずだけど、帰宅したら冷たくなっていたって正直に言えばいいわ、殺人事件にはならない、自然死だから」
「幽霊になったんじゃないの?」
「まだよ、六日かかるるわ、…ああ、大丈夫よ、奥さんに全部取説話しておいたから」
「ありがとう」
「ねえ、悟志君、あなたが私を愛していることはもう少しも疑ってはいないわ」
「うん、その気持ちはこれからも変わらないよ」
「そこが問題なのよ」
「どうして?」
「あなたのその気持ちがわからない限り、あなたを独占したいという奥さんの思いは満たされない、一生あなたの周りに幽霊として現れるわ」
「そんな…」
「奥さんが思いを遂げるためにはあなたの殺意を煽るのが一番よ、あなたが奥さんを殺そうとすればあなたは幽霊になる、幽霊になるというのはとりあえずは死ぬことよ、あなたが死ねば奥さんはもうあなたを他の女に奪われるなんて心配はしなくていい、成仏できるわ、でもあなたは幽霊になって成仏できない、だってあなたが思いを寄せてくれる私がもういないんだから…」
「じゃあ、妻に殺意を抱いたら最後、オレはずっと幽霊でいなければいけなくなる?」
「そうよ」
「だったら妻から逃げないと」
「無理よ、幽霊から逃げるなんて、いつかは奥さんを殺したくなる、奥さんがそう仕向けるわ」
「でも、菜々子ちゃんに殺してと言われても殺せなかった、殺意は起こらなかった」
「ああ、あれねえ、がっかりだったわ、酷いこと言ったのに全然怒ってくれなかったでしょう?」
「何て言ったっけ?」
「意気地なし」
「あのさあ、好きな女に意気地なしと言われて殺意を抱く男がどこにいるんだよ?」
「そういうもの?」
「そうだよ」
「そこわかってなかった、今教わっても後の祭りね、…とにかくこのまま生きていたらいつか奥さんを殺そうとしてあなたは幽霊になるわ、それが嫌だったらその前に死んじゃうしかないのよ、自分自身か、奥さんの幽霊か、どっちを殺す? よく考えてね、ああ、そろそろ時間みたい」
「何の時間?」
「成仏よ、ねえ、悟志君、私が消える前に抱きしめて」
彼女は僕の前に屈みこんだ。僕は両手で彼女を抱きしめた。
「愛してるわ」彼女はそう言うと、ゆっくりと僕の腕の中から消えた。




