決意
翌週の待ち合わせ時刻ちょうどに、僕はホテルに到着した。時間には正確だ。待ち合わせに遅れることはないし、早く着くこともない。時間通りでないと気がすまない。他人に寛大になろうと努力する意思はあるので、待ち合わせに遅れる程度の理由で相手を嫌いになることはないが、時間に遅れるという行為そのものは許せない。一度時間を守らなかった相手に対しては、次回からは絶対に自分の方が遅く現れると誓い、それを実行する。精神科に行けば何かしらの病気の診断をしてもらえるだろう。
エントランスを抜けると、広いロビーの片隅にイエローのワンピースの上にブルーの麻のカーディガンを羽織った岩崎菜々子が立っていた。自分の顔が綻ぶのが嫌でもわかる。手を振ろうとすると、彼女は左手の人差し指を自分の唇の前に持って行き、シーという合図をして、右手の人差し指でチェックインカウンターを指さした。僕は周囲の目を気にしながら、上げかけた手をゆっくりと下ろした。
一人でチェックインをすませ、カードキーを手にエレベーターホールに向かうと、彼女が着いて来る。二人は目も合わさず、他に乗客のないエレベーターに乗り込んだ。二人きりになっても彼女はまだ顔を合わせようとはしない。僕も真似をして菜々子の顔を見ないままでいた。
エレベーターが止まると、彼女は先に降りるよう僕に合図をした。番号の部屋に向かうと、2メートルほどの距離を開けて後ろから彼女が着いて来る。カードキーを差し込んで部屋に入ると、僕はドアを開けたままにしておいた。彼女は室内に飛び込むと、ドアを閉め、部屋の中を見る前に僕の首の後ろに両腕を回して抱きついた。
「ありがとう、無理を聞いてもらって」
「そんな、菜々子ちゃんの頼みなら…」
僕も彼女の腰に腕を回そうしたが、その前に彼女はするりと体を離すと、笑いながら言った「ベッドに寝ころびながら話しましょうよ」
ヒールを脱いでスリッパに履き替えると、椅子の上にバッグを置き、カーディガンを脱いでバッグの上に重ね、スリッパを放り出すように脱いで、彼女は声を上げて背中からベッドに飛び乗って横になった。
「悟志君も隣に来て」
「うん」僕は妻の前では絶対に見せない表情で、彼女の真似をして背中からベッドに飛び乗って声をあげた。
「ああ、気持ちいい」
「悟志君、この前と違って嬉しそうね」
「だって、この前は夢なのか現実なのかしばらくわからなかった」
「そう? 心配しないでね、私はいま一人よ、誰のものでもないわ」
「今日はなんだかこそこそしてる感じだったけど、…ああ、でもそれもドキドキして楽しいよ」
「だって、一緒にいるところを見られたらあなたに迷惑がかかるわ」
「どうして?」
「どうしてって…、私、有名だから…、ああ、違うの、そうじゃなくて、奥さんに見られたら困るしょう?」
「そこだけは気を付けてるよ」
「甘いなじゃい? …ねえ、この前言ってくれた奥さんと別れたいって言葉は本当?」
「もちろんだよ、この一週間菜々子ちゃんのことだけを考えてる」
「信じていいの?」
「信じてよ、…菜々子ちゃん、秘書問題って知ってる?」
「なあに? 知らない」
「数学の問題なんだよ、秘書を募集して、面接は一人ずつ、合否はその場で判断する、一人採用を決めたところで面接は終了、一度見送った人をやはりあの人がよかったらというのはナシ、この条件で一番いい人を選ぶにはどうすればよいか? これが秘書問題」
「へえ」
「答え知りたい?」
「もちろん」
「順番に面接して、最初の37%、これは正確に言うとネイピア数の逆数で、1割る2.72になるんだけど…、とにかくこの37%は採用を見送るんだけど、その中で一番よかった候補者を決めておく、この人を超える候補者が現れたらそこで採用決定、数学的にはこれが正解」
「へえ、数学的で答えが出せるの…? 面白い」
「菜々子ちゃん、今何て言った?」
「え? 面白いって…」
「…菜々子ちゃんはオレのやることをいつも面白がってくれた、菜々子ちゃんと一緒にいた時間は幸せな時間だったんだ、…妻は少しも面白がってくれない、オレの研究になんて何の興味も示さない、だから一緒にいても何も楽しくない、…今それがよくわかったよ」
「辛かったのね、悟志君、一人でよく我慢したわ」
「菜々子ちゃん、涙が出そうだよ」
「我慢しないで、泣いていいのよ」
僕は体を横に向けると彼女にしがみつくように抱きついて、女の胸に顔をうずめた。いい匂いがした。僕の髪の毛を優しく撫でてくれる。幸せだ。ただただ幸せだ。
「悟志君、何か話して」彼女の声が聞こえる。何て答えようか…
「じゃあ、さっきの秘書問題の続き話してもいい?」
「聞かせて」
「あれはあくまで確率の問題なんだよ、たまたま一番いい人から順番に面接に現れたら、一番最後の最悪の人を選ぶしかない、逆に悪い方から順番に現れたら、後ろに行けば行くほどいい人がいるのに、その人たちを見る前に採用が終わる。オレは人生の入り口で菜々子ちゃんという最高の人に出会ってしまった、だからその後の人生を続けるには菜々子ちゃんを記憶から消すしかなかった、…今わかったよ、オレには菜々子ちゃんしかいないんだ、本当の自分の人生を取り戻したい」
「悟志君、ありがとう、私もよ、…あなたしかいないの」
「嬉しいよ、菜々子ちゃん」
僕もう我慢できず、彼女の上に馬乗りになり唇を近づけた。
「だったら一つお願いがあるの」二人の顔と顔の間に彼女の両方の手が差し込まれた。
「何?」僕はその態勢のまま動きを止めた。
「じゃあ、一回座りましょう」
「うん…」僕は渋々ベッドの上の彼女の脇に正座をした。彼女も体を起こすと、僕と向き合って正座をした。
「私、不倫だけはイヤ、私のことを愛してくれるなら奥さんと別れてほしい」
「もちろんだよ、そのつもりだって言ったじゃん」
「本当にできるの?」
「できるよ。信じてよ」
「わかったわ、…じゃあ体の関係はそれまでお預けにしましょう、私も我慢するわ」
「わかった…、我慢する、…我慢するから手は握ってもいい」僕は懇願した。
「どうぞ」そう言って彼女は自分から僕の手を握った。やわらかい肌。「…ねえ、奥さんどんな人?」
「今それを訊くの? 興覚めだな」
「だって…、一週間私のことずっと考えてくれたんでしょう?」
「そうだよ」
「奥さん、勘のいい人なんでしょう? 何か気がついているかもしれないわ、くれぐれも気を付けてね、もし今踏み込まれたら離婚どころじゃないわよ」
「確かに」
「とにかく私の存在に気づかれる前にちゃんと別れて」
「うん、そうするよ…、で、今度はいつ会ってくれる?」
「だから、今危険だっていったじゃない…」
「大丈夫、絶対にバレないようにする、しばらく会えないなんて我慢できない」
「わかったわ、悟志君、いつがいい?」
「来週またここで、同じ時間に」
「わかったわ、離婚を切り出したらし会わない方がいいかもしれない、いつ奥さんに話ができそう考えてくれる?」
「もちろんだよ、ああ、生きていてよかった!」僕は心からの叫び終えをあげた。
妻とは別れると約束したものの、逢引きを終えた僕は妻と顔を合わせたくなかった。初恋の人との幸せな再会の余韻に浸っていたいのに、妻の顔を思い出したら一気に興が醒めてしまう。さらに顔を合わせたら最後、また妻の勘繰りから不毛な言い争いに発展し、結果睡眠時間が削られる。それは避けたい。
今週末、都内から福島県の白河まで東北道を日帰りで往復する予定がある。妻の叔母の三回忌があり、僕は妻を乗せて片道4時間、往復8時間のドライブをする。体力があるわけでもないのに、車の運転だけは何時間続けてもまったく苦にならない。ただ睡眠不足で運転するのは好きではない。明らかに注意力が散漫になり、そこを意識するとよけいに運転の楽しさから気持ちがそがれる。それに往復8時間も妻と車の中で二人きりなのだ。それだけ一緒にいれば十分だろう。まあ、おそらく帰りの妻は爆睡だ。それにしても、よく一日8時間も助手席にじっとしていられる。自分だったらどこかでおかしくなって、車から身を放り出して死んだ方がましだと思うだろう。
車の中では、間違っても離婚の話には触れない。そんなことをしたらドライブが地獄に変わる。とにかく妻の話を上の空で聞き流しながら、景色を眺めるつもりでいた。でも、妻が一緒だとそう思う通りにことは進まない。晴れていたら稜線が綺麗に見えるはずなのに、都内と違って広いはずの空が鉛色に染まっている。予報では夕方から雨だ。妻と出かけて、天気が良かった記憶がない。妻は雨女で、今降っていないだけでもましだと思うしかない。そう、やはり自分はこの女といても楽しくないのだ、ハンドルを握りながら妻の横顔をちらりとだけ見て、僕は菜々子と助手席に乗せてドライブしている自分の幸せな姿を想像した。
叔母は妻の母の姉だったが、田舎に残った姉と、若いうちから東京に出てしまった妻の母である妹は、ずっと折り合いが悪かった。今回の法事に義理の両親は姿を見せず、僕は気まずい思いをせずにすんでほっとしている。白河に来るのは三度目だ。最初は結婚した直後に叔母に結婚の報告をしたいと妻に頼まれた。二度目は二年前の葬儀、そして今回が三度目で最後。叔母にはとても世話になった、妻はそう言っていたが、どう世話になったのか知りたいと思ったことは一度もなかった。振り返れば振り返るほど、妻に対して昔から興味がなかったことを僕は痛感する。
法事は二十人弱のささやかなものだった。お寺に集合し法要を済ませると、料亭のような場所で二時間ほど会食をした。妻はビールを飲んで親戚と談笑していたが。僕はノンアルを口にしながら、妻の親戚が集まる席ではいつものように、一人放っておかれた気分になった。今回に限ってはそれが心地よかった。
「おじさん、小さくなった気がする」帰りの車の中で妻が口を開いた。
「そう?」僕はとりあえず相槌を打った。
「やっぱり寂しいのよ、夫婦は最後まで一緒じゃないとね…、あとに残された方は寂しいわよ、私より先に死なないでね、それが嫌だから年下のあなたと結婚したのよ」
「それはわからないけど…」僕は正直に答えた。
「前も話したけど、私、菊川なんてカクカクした苗字がずっと嫌だったの。菊川静香なんて七音中五音がカ行、バランス悪過ぎよ、だから四谷静香になれたときすごく嬉しかった、ありがとう」
「うん…」とりあえずまた適当な相槌を打つ。
「ねえ、運転疲れる?」
「大丈夫だけこ」
「だったら寄り道して、那須で降りて那須高原の展望台に行きたいの?」
「展望台? これから降るよ」
「でも、まだ大丈夫でしょう? 初めてあなたを連れて叔母さんの家にいったとき、帰りに寄りたかったのよ、知ってる? ちょうどその頃あそこが恋人の聖地に選ばれたのよ、でもあの日は帰り土砂降りであきらめた」
「そうだっけ?」
「そうよ、だからこれから連れて行ってよ」
「今さら恋人の聖地?」僕はまた正直に言う。
「そういうことは言わないの」
妻は勘違いはするが、まったく勘が良くないのかもしれない。僕の口から離婚という言葉が出ることなど想像さえしていないだろう。どれだけ時間をかけたところで協議離婚に持ち込むのは無理だ。そうなると訴訟だが、時間と金とエネルギーがどれほどかかるのか。本当に菜々子ちゃんは待っていてくれるのか。
離婚が難しいなら、妻には死んでもらうしかない。
今にも雨を降らせそうな黒い雲が空を覆っている。そのせいか、「恋人の聖地」の碑のある那須高原展望台には車はなく、僕と妻以外誰もいない。ここから突き落として殺してしまおうか。あるいは、来るときにそばを通ったつつじ吊橋の方が、落差もあって確実かもしれない。
ふと思い出す、日本では刑法犯の検挙率は30パーセント台だったとどこかで読んだ。ということは罪を犯しても3人のうち1人しか捕まらない。日本の警察はたいしたことがないかもしれない…。
殺人はどうなのだろう? 僕はスマホを取り出して、殺人の検挙率を調べてみた。法務省のサイトがヒットする。
「検挙率は,戦後一貫して安定して高水準であり,90.0%~98.3%の間で推移している。」
「親族率(親族に対する事件の比率)は,平成16年から上昇傾向にある(23年は52.2%)。」
…ダメじゃん!
殺人犯はほぼ捕まるし、妻が死んだら夫が犯人だと考えるのが最も正解に近い。事故死だろうが自然死だろうが、夫は徹底的に調べられるだろう。妻を殺せば僕は間違いなく殺人罪で服役する。菜々子ちゃんと一緒に暮らすことはできない。妻を殺しても望むものは手に入らない、何のメリットもない。妻とは離婚もできず、殺すこともできない。
こうなったら、できることは一つしかない…、僕は心を決めた。




