忘れていた記憶
「四谷先生、おはようございます」
露木恵那が僕の顔をみて挨拶をした。金髪。オーバーサイズの白いTシャツ、紫のショートパンツから長い脚が伸びて、素足に白いサンダルを履いてる。隣りにいる男の学生は、彼女と比べたら全くさえない。
「ああ、おはよう」僕は挨拶を返した。彼女は僕に頭を下げると、一緒にいた男と楽しそうに話しながら歩いて行った。昨日の夜LINEを送ってきたことなど覚えてもいないだろう。睡眠不足のせいで、眠くてたまらない。誰のせいだと思っているんだ…、僕は遠ざかる露木恵那の後ろ姿を見ながらため息をついた。
研究室に入って最初にコーヒーをいれた。いい香りがするけど、今朝は特に美味しくない。苦いだけ。この苦みのせいか、昨夜からの苦くて不毛な時間を思い出してしまう。
昨日は夕食の時間から妻の仕事の愚痴が止まらなくなり、気がつけば同じ話を何度も繰り返している。僕は余計なことを言って妻の話をさらに長くさせることよりも、ただその時間が終わることだけを願って上の空で適当に相槌を打っていた。その時に僕のスマホが鳴った。露木恵那からのLINEだった。
「先生、レポートの期限いつまででしたっけ?」それだけ書いてあった。
「どうしたの?」妻が訊いた。
「学生から、レポートの期限いつまでかって」
「女の子でしょう?」
「そうだけど…」
「それ普通他の子に訊くでしょう? なぜ直接あなたに訊くの? なんかあるでしょう? 暗号とかじゃないの?」
「まさか…」
そこから妻の追及が止まらなくなった。火のない所に煙は立たぬというけれど、火遊びをして追及されるのならしかたがないが、何もしていないのに容疑をかけられひたすらそれに対する弁明を繰り返すというのはただただ不毛だ。僕の恩師は年に何度かゼミの学生を家に招いて酒を飲むが大好きで、そのたびに先生の奥さんが手料理を振舞ってくれた。僕も似たようなことを一度だけやったことがあるが、二度とやろうとは思わない。妻は学生がいる間は社交的に振舞っていたが、全員が帰った後に爆発した。あなたは明らかにあの学生を気に入っているとか、私に言えないことがあるかずだとか、なぜ私は自分の休みを一日つぶしてあなたに尽くしているのにこんな気持ちにならなければいけないのかとか…。最大の失敗は、研究者の妻なのだからそれくらいは我慢してほしい、などと素直に言ってしまったことだ。何をどう説明したところで、妻は絶対に納得しない、ということを僕はあの時に学んだ。そして今僕は妻と結婚してしまった自分の愚かさを呪っている。
妻に食べさせてもらえなければここまでこれなかったが、でも妻と結婚してしまったからここから先へはいけない、つまり妻と結婚した時点で僕の人生は遅かれ早かれ終わるしかなしかなかった。妻と結婚した時点ですでに僕はレールを踏み外していた。僕の人生はどこから道を誤ったのだろう。とにかく妻と出会うもっと前からすでに道に迷っていた。研究者にならなければよかった? そうじゃないだろう、サラリーマンができたとは思えないし、僕にとってこの世は謎に溢れていた。だから研究者の道を選んだことは間違った選択ではないと思う。でもそれは消極的な選択だった。大学の名前を見てここなら入れそうだと文学部を選び、就職のことを考えたらと社会学を専攻し、でも結局サラリーマンは無理だと思って研究者になった。自分のやりたいことをやったわけでもない。社会学という学問は好きだけど、人間に興味があるというよりは、女に興味がある。女は謎に満ちているけれど、男を研究したいとは思わないし、なにかわかったところで、ああ、そう、くらいの感想しか出てこない。男の友達は普通にいるけれど、僕は男よりも女といる方が落ち着く。きっと徹底して女の研究をするべきだった。それをやっていれば、僕は立派な変人で、妻のように世間の常識に縛られ、結婚したのだから他の女に関心を持つな、などという女と出会うこともなかっただろう。僕は研究室の窓からキャンパスを歩く薄着の女の学生を見て、「おそるべき君等の乳房夏来る」という西東三鬼の句を思い出した。
マーガレット・サッチャーは言った。社会などというものはない、男がいて、女がいて、家族がいるだけ。つまり僕が研究している社会学などと言うものはそもそも存在しないものを研究している。幽霊の研究と一緒だ。男と女と家族。僕は一生子供を持つことはないだろう。家族にはあまり興味がない。男はつまらない。男がつまらない理由は個性がなさすぎるからだ。どんな集団にも、見た目でも、能力でも、場の盛り上げ方でも、何人かの秀でた人間とその他大勢、だいたいこれで区分できる。こうやって歩いている学生の姿を見ても、着ているものに金をかけているかかけていないかの二元論で大雑把な分類は完成する。でも女の方は、着ているものがそれぞれ違う、スカート、ワンピース、ロングパンツ、ショートパンツ、髪の色、長さ、帽子、メイク、みんな個性的だ、男なんて見ていてもつまらない、つまり僕の研究は女を観察することで、一般の夫婦生活に持ち込むべきではないことなのだから、その点を理解してくれる人ではないと、社会学者の妻なんて務まらない、これから先、妻は間違いなく邪魔な存在になるだろう、僕が浅はかだった、生活が苦しかったばかりに安定した収入のあった年上の女と結婚してしまったのだ、でもそれは終わった、僕はもはや妻を必要としていない、やはり本気で別れることを考えることが誠実なのだろう、でも別れたいなどといったらどんな剣幕になるのか、想像しなくてもわかる・、妻は離婚など絶対にする気がない。子供も作らず仕事を生きがいに頑張ってきたが、もはやこれ以上の出世の道も閉ざされた、彼女が一番必要としているのは大学教授の妻というステータスなのだろう、だったら離婚をせずに離れて暮らせばいい・、そうか、その手があった
「四谷先生?」
突然呼びかけられて、僕は振り返った。つばの広い白の帽子、白のジャケットの下には白のカットソー、白の太いパンツを履いた女が、机のすぐ向こうに立っている。
「いつの間に…」僕は間抜けな声を出した。女は丸顔で目が少し吊り上がった猫のような顔をしている。年齢は三十代前半か、猫は笑わないけれど、女は笑みを浮かべている。
「ごめんなさい、お返事がなかったんですけど、開いてたので失礼しました」
「どちら様ですか?」
「岩崎菜々子です、悟志くん、偉くなったのね?」
「菜々子ちゃん…?」びっくりした僕の声は裏返った。
「そんなに驚くこと? 私が死んだとでも思ってた?」
「まさか…」
「じゃあ、私のことを忘れてたでしょう?」
「…」僕はなんと答えてよいのかわからない。
「顔に書いてあるわ、相変わらず正直な人ね」
「菜々子ちゃん…」初恋は甘くて酸っぱくて苦いと言うが、その名前を呼ぶだけで、胸の奥が甘さと酸っぱさと苦さでいっぱいになって言葉が続かない。
岩崎菜々子は小学校一年生のときに同じクラスだった、それは覚えている。でも、いつどちらがどうやって声をかけたらそうなったのかは思い出せない。学校からはいつも二人で帰り、途中無駄に寄り道をしたり、お互いの家に行って本やマンガを読んだり、一度帰ってから待ち合わせをして出かけたり、…たぶん二人はずっとおしゃべりをしていた。話すことがいくらでもあった。彼女はピアノとスイミング、僕は絵と習字を習っていたが、お互い習い事がない日はいつも一緒に遊んだ。たぶん二人はずっと喋っていた。僕は他の子たちよりも多少記憶力が良く、覚えた知識をひけらかしたがる、今思えば嫌なガキだった。記憶力が良いと言っても、一度目にしたものが写真のように記憶に残るとか、そんな特賞能力はまったくない。本が好きで小学校のテストで百点をとれる程度の実態を伴わない言葉の羅列を他人よりも吸収できた、それだけのことだ。そんな僕にフィールドワークというものを教えてくれたのは彼女だ。図鑑を見て、千葉県と東京都の境が江戸川だと知れば、「自転車で江戸川を見に行こう」と僕を誘い、片道1時間以上かかる距離を僕を先導して自転車で走り、「蝶の羽の模様は鱗粉でできている」と書いてあれば、昆虫採集のキットを持ち出して、二人で蝶を捕まえてセロテープで銀粉を取ると、彼女の部屋の顕微鏡を二人で覗いて声をあげた。世の中が謎に見ていることを教えてくれたのは菜々子ちゃんだ。彼女に出会わなかったら僕はテストで点数をとることくらいしか楽しみのないつまらない子供時代を過ごしたことだろう。そんな大事なことを僕は今の今まですっかり記憶から消していた。
「なんで菜々子ちゃんのこと忘れてたんだろう?」僕はついつい口走ってしまった。
「やっぱり忘れてたじゃない?」
「違うよ」
「じゃあ、なあに?」
「忘れたんじゃない、思い出せなかったんだ」
「同じことじゃないの?」
「同じじゃないよ、だって今思い出した…、もし忘れていたら思い出すこともできない」
「まあ、それだけ悟志君にとって私はどうでもいい存在だったのね」
「そうじゃないよ、だって…」
初恋は甘くて酸っぱくて苦い、らしい。今小学生の頃を思い出して、甘さと酸っぱさと苦さが僕の胸をしめつける。岩崎菜々子は僕の初恋の人だったが、僕は彼女のことを記憶から消した。子供だったとはいえ、僕はあまりにも浅はかで、主体性がなくて、どれだけ後悔しても足りないことがわかっていたから、僕は幸せだった時間も含めてすべて忘れることにしたのだ。5年生の時に、何が原因だったのか思い出せないけれど、クラスの中で男子と女子が対立した。僕は関わりたくなかったけれど、「おまえまさか女の味方しないよなあ?」と問い詰められ「まさか、僕だって男だよ」と言ってしまった。休み時間に五人ほどの男子が僕を取り囲み、その時前を通りがかった岩崎菜々子に向かって、「岩崎、ブス」と連呼を始めた。彼女は黙っている僕の顔を見た。それに気づいた一人が、「おまえも男だったら言えよ」と、僕に言った。あの時僕はどういう気持ちだったのだろう、怖かったのか、強がって見せたのか、本心じゃないと彼女は分かってくれると甘えていたのか、僕は彼女に向かってブスと言ってしまったのだ。男子は大喜びしたが、彼女はそのまま黙って行ってしまった。僕は彼女の表情を見ていない。下を向いてブスと言ったから。でも、その時から彼女は僕と口を聞いてくれなくなり、6年生に上がる前に転校してしまった。
あの時のことは自分の中で収めたつもりだった。ガキの頃からいつも一緒にいた男と女が思春期になってもそのままの関係を続けることなんてできない。周囲が二人を引き裂くか、それともお互いの意識が変わるか、あの関係を続けることなんて絶対にできなかった、そう思ってすべてを忘れたのだ。
「だって?」
「だってじゃない…、ごめん、菜々子ちゃん、僕がやったことはあまりにも酷いことだよ、それはよくわかってる、あまりにも酷すぎて、それだけ後悔しても反省してもたりなくて、だから忘れるしかなかった、菜々子ちゃんと一緒に過ごした時間は僕の人生で一番幸せな時間だったよ、その幸せな時間も全部封印した」
「そんなこと言って…、結婚して奥さんも子供もいるんでしょう?」
「結婚はしてるけど子供はいない、ちょうどいま妻と別れようかと考えていた」
「ほかに好きな人がいるの?」
「違うよ、妻とは合わないんだ」
「そう…、ねえ、悟志くん、今度ゆっくり話さない?」
「うん、喜んで」
「いつなら時間とれる? 私二人きりになれる場所で話がしたいの」
「もちろん」
「実はね、私…有名なの」
「すごい! 何で有名なの」
「…ごめんなさい、違うの、…まあとにかく、私連絡ができないと思うから、時間と場所を今決めてもらってもいい? デイユースで使えるホテルがいいわ」
「わかった、いつがいいの?」
「悟志君に合わせるわ」
「今日は水曜日かあ」僕はパソコンで予定を確認する。「来週の火曜日はどう? 3時には会えるよ」
「ありがとう、来週の火曜日の15時ね、どこのホテル?」
「今予約した方がいい?」
「そうして」
「わかった」僕はデイユースで使えるホテルをネットで検索した。「品川でいいかな…、10時から使えるのにもったいない気がするけど…」
「お願いするわ」
僕は来週の火曜日、品川のホテルをデイユースで予約をした。
「じゃあ、ロビーで15時に会いましょう、私は必ず行くから」
「僕もだよ」
「ううん、もし予定が入ったらすっぽかしていいわ、その時はまた私から連絡する」
その時ドアをノックする音が聞こえた。僕は彼女の顔を見てから「どうぞ」と言った。彼女もドアの方を振り返った。ドアが開き、露木恵那が笑顔で入ってきた。
「先生、おはよう…」そこまで口にしたところで彼女の表情が固まった。
「じゃあ、私そろそろ失礼します、お邪魔しました」岩崎菜々子は僕の顔をみて軽く頭を下げると、すぐにドアに向かって歩き出した。
「いえ、お構いもできず…」僕は間抜けな台詞を口にしながら、彼女の後姿を見ていた。露木恵那は口を半開きにしたまま岩崎菜々子から視線を放さず、ドアを抑えて立っていた。
ドアの外で岩崎菜々子はもう一度頭を下げ、エレベーターの方に歩き出した。露木恵那はドアを閉めると、興味津々と言う顔で僕に聞いた。
「先生、今の綺麗な人、誰ですか?」