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圧迫骨折  作者: 小松八千代
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コルセットを背負って

コルセットを背負って


南米パラグアイの拙宅でのことである。

5月1日は父の命日で、近くに住んでいる弟と母が来ていた。

お墓参りの後うちで遅い昼食をして、久しぶりに日が暮れるまで親子水入らずで話をした。

帰りに、母が豆腐を持っていくと言うので、2丁の豆腐をお盆に乗せて車まで持って行く。

ここの豆腐はビニール袋に入れてあって水も入っている。けっこうな重さになる。

私は、乗用車の薄暗い後部座席に腰をかがめて豆腐を置いた。

車道は歩道よりも20センチ程下がっているので、かなり腰を曲げないといけない。

豆腐を置いて立ち上がった瞬間、どうしたことか身体のバランスを崩してしまった。悲鳴を上げながら両手を上げて仰ぐように2、3回手を振り回したが、体制を戻せずそのまま横倒しに歩道に投げつけられた。

この際、後ろに倒れたら、頭を打っていたかもわからない。横に倒れてちょうど左側の臀部を打った。打ったところから枝を割くように、2か所に響いていくのがわかった。うわぁ、また、やったあ!

というのも、このところよく転ぶからである。尻もちをついて、もう2回ほど背骨の圧迫骨折を起こしているのだ。転ばないようにあれほど気をつけていたのに。またか、と思いながら立ち上がろうとしたが、痛みで立ち上がれない。弟が来て起こそうとするのを手で制して「まて、まだ起こしたらいかん」

そこへちょうど、警備に回っていたパトカーが止まって、おまわり3人が降りてきた。時刻は夜の8時ぐらいで、この時間パトカーが巡回しているのだ。

降りてきた3人の革のブーツが横たわっている私の目の前にある。大きな足。3人とも大男のようである。最初は喧嘩でもしていると思ったようである。

「こけたのだ」と言うと「救急車呼びましょうか」「いや、いいです」

「家の中まで連れていってあげますよ」「いやいや、いいです」

こんな大男3人に荷物のように運ばれたら、それこそ痛みで悲鳴をあげてしまう。それより痛みが少し和らいだところで、自分のペースで立ち上がって家に入ったほうがいい。

5分ほど経っただろうか。私は起き上がって中に入り、リビングでソファに横になる。それからまたやっとの思いで2階の寝室までいって、ベッドにゆっくりと仰向けになった。

 左側を強打しているのに右側の腰が痛くて、トイレにも行けない。息子に抱えられるようにして連れて行ってもらう。三日目からやっと何とか、痛みも和らいで少しずつ歩けるようになった。

コルセットを巻いて、ぼつぼつ家の掃除をしたり、経営している寿司屋にも復帰。午前中は別のスタッフがいるので、私が行くのは夕方だ。

他にいろいろと雑用もあるので、ガタガタバスに乗って市内にも出掛ける。

これで、徐々に治っていくものと思っていた。

 ところが6月に入って、トイレの便器から立ち上がろうとしても、立ち上がれない。うんうん唸って、やっと立ち上がった。その後痛みはないのだが、ベッドから立ち上がるのも困難になった。トイレに行くには椅子を並べて、伝って行くというありさまだ。気持は立ち上がろうとするのだが、力が入らない。そのまま崩れおちてしまいそうだ。情けなくて、涙が出てくる。

これはおかしいということで病院へ。一人では動けないので、主人の車で連れて行ってもらった。

すぐにMRIを撮るように言われた。

検査専門におこなっている病院は、順番待ちで3日ほど待たされてMRIを撮りにいった。

日本だとたいていの病院に設置されているのだが、パラグアイは、設備の整っている総合病院はまだないようである。それで、それぞれの専門分野に回されるので、検査を受けるのに何日もかかる。

MRIは保険病院にもあるとは聞いたが、いつ順番が来るかわからないということである。

あくる日また主人が、MRI写真を取りに行く。

私の掛かりつけの整形外科医の診察日は、また2日後で、MRI写真を持って病院に行ったのは、指示されてから5日後の事である。

医者が「背骨の圧迫骨折ですね。2か所折れています」 骨粗鬆症の私は、転んだときに大事をとって寝ていればよかったのだが、無理をしたので背骨が変形してしまったらしい。

すぐにコルセットを作るように言われて、さっそく指示された店に行ってみると、オーダーメイドでこれがまあ尻ごみするぐらい高い。市販で売られているコルセットの10倍ぐらいする。おまけに前金を払うように言われ、私と主人の財布からあるったけの金を出して何とか早く作ってもらうように頼む。

あくる日の夕方、コルセットができてきた。背中の部分にトタンのような硬いものがついていて、マジックの付いた紐がいくつかついている。まるでカニの抜け殻みたいなものだ。マジックで腰回りをギュッとしめて、背中の部分から出た長い紐をたすき掛けにして、これもギュッと締める。それで「普通に動いて大丈夫です。ただ重たいものだけは持たないように」と医者から言われていたので、重たい体を支えながら、なんとか働いていたのだが、一向に良くなる風はない。ますます力が入らない。

とうとうほとんど寝たきりの状態になってしまった。

もしかして手術しなければ治らないのでは、と思い始めた。手術するなら日本へ行ったほうがいい。

パラグアイに住んでいる日本人は病気になると、日本へ行く人が多い。医療技術の進んだ日本で診てもらうほうが安心なのと、ここは病院代が意外と高い。主人も日本に行ったほうがいいだろうと言う。

7月9日、私はカニの甲羅のようなコルセットを背負い、日本に向けて出発した。飛行機は主人がビジネスを頼んでくれた。ビジネスじゃないと日本までの長旅は無理だろうという。移動は車椅子を頼んだ。

アスンシオンからサンパウロまでは、小型機でビジネスもエコノミーもない。2時間ぐらいなので、座っていても大丈夫だ。

サンパウロに着くと、ビジネスクラスなのでビップルームに案内された。いろいろな形の高級な椅子やテーブルが並んでいる。

初めてビップルームに入った私は、え、ここは何、休憩室、癒しの空間、それとも高級レストラン。

ともかく乗り継ぎの間軽食を食べながら、ここでくつろげるらしい。横は広い吹き抜けで、下を見下ろせるようになっている。

が、肝心の私が寝るところがない。2時間飛行機の中で座っていたのだから、仰向けになって寝転ばないと、私の背骨が保たない。座っていたのでは体重がかかって保たないのだ。杖をついて歩き回ったが、寝られるようなところはない。たしか、前に母が車椅子を頼んだとき、車椅子の人たちの待合室があった。そこにベッドはなかったが、ソファが広くて寝転ぶことができた。通路側の戸はきっちり閉まっていて、周りの物音も聞こえない。何しろ空間が狭くて、人が少なく寝転んでいても平気なのだ。自動販売機があって、水などを売っていた。

そこへ行ったほうがいい。私はこんな豪華なビップルームより倉庫のようなところでいい。人目に触れないところがいい。元気な時なら何とか変身して、ハイクラスと交じ合えるが、立ってるのがやっとではどうしようもない。それに、コルセットの背中が大きく飛び出していて、人から見れば奇異に映っているだろう。

私は半泣きになりながら、入口まで行って、寝られるところはないかと聞いてみた。ところが言葉が通じない。入口の受付嬢が「英語話せますか」っていうのだ。サンパウロに着くといつもこうなのだ。何か尋ねると英語話せるかと聞いてくる。スペイン語はわかるよ、と言うと笑ってやがる。何が英語だよ。隣の国の言葉しゃべれよ。

どこか寝られるところはないの。ここにはいたくないわ。私は相手がわかろうがわかるまいが、スペイン語で突っ込む。スペイン語とポルトガル語は似通ったところがある。通じたかどうかは知らないが、受付嬢が電話をかけてすぐ、スペイン語のわかる若い男がやってきた。「どうしましたか」スペイン語で聞いてくる。

「どうしてスペイン語わかるの」「少し勉強しました」私は感心したような顔を彼に向けて「背骨を骨折して、長い間立てることも座ることもできないのよ。どこか寝られるところはない」

「ないですね。そこの椅子はクッションがいいのでそこへ座ってみられたらどうです」

「だめです。仰向けに寝ないとだめなの」

若い男は「困りましたね。ここには仰向けに寝られるところはないですね」「ええ、ないの。だめだよ。寝ないと保たないよ」

「どうしましょう」

「寝たい。寝たいよお」まるで駄々っ子だ。

私はとうとうおいおい泣き出してしまった。

若い男は困り果てて「じゃあ、とにかくユナイテッドの係の人を呼んできますから」そして、私を促して「ちょっとそこで何か食べましょう」「ええ、あれっていくらなの」「これは、みなただですよ」「ええ、あれ、ただなの」 なんだ、お金はいらないのか。たいそうな金額をとられるのかと思っていた。軽食や飲み物が置いてあるすぐ近くに座って、小さなテーブルに肘をついた。

私は大きな声でいった。「水」それから「おつまみは適当に持ってきて」 数年来、飲み物は水かお茶、自家製の果物ジュースしか飲んでないのだ。胃腸が弱いのと、父が糖尿病だったので気をつけているつもりだ。若い男はおかしくなったのか、笑いながら水とおつまみを持ってきた。

豆のような小さなおつまみを、2、3個口に入れたところで、日系人と思われる背の高い男が、ブラジル人の若い男を伴ってやってきた。あ、日本人だ。日本語なら細かい話ができる。私は嬉々として彼の顔を見上る。

流暢な日本語で話しかけてきた。

「どうしたのですか」

「私、背骨を骨折していて、座っていられないのよ。寝られるところはないの。前、母が車椅子で来たとき車椅子専用の人の部屋があったように思うんだけど」

「それはこの階にはないですよ。遠いです」

「ええっ、でもどこか寝るとこないの」

「それじゃ、そこの椅子はどうですか」といって、指差したのは、ビーチにあるような波打った椅子だ。う~ん、じゃあちょっと試してみるか。と、椅子に座って仰向けに寝ようとしたが、ちょうどカニの甲羅の部分がつかえて寝られない。これはだめだわ。どうしよう。

「だめだわ。寝られるところないの。ホテルはいくらぐらいするの」 さっきホテルのマークがあったのを思い出したのだ。

「ホテルだと100ドルですね」

「え、100ドル、ちょっと寝るだけで」 なんだかんだともめてる間に、フライトまでもうあと2時間ぐらいしかない。1時間もすれば出発ロビーに向かわなければいけない。1時間で100ドルもとられたらあほらしい。「いいよ。もうここにいるよ。でも寝たいよ」と、ぐずる私に、日系人の男が「医者の証明書持っていますか」と聞いてきた。ああ、病気だっていう証明書か。私はカバンをまさぐって、MRIの説明書を取り出して見せた。三十代とも四十代とも見分けのつかぬ日系人の男は、真剣な眼差しで目を通していたが

「いや、これじゃないですよ。一人で飛行機に乗ってもいいという証明書ですよ」「ええっ、持ってないよ」 そんなもの要るのか。ここで飛行機に乗れなかったら、ブラジルで治療しなければいけなくなる。とんでもないわ。知り合いもいないのに。私は少し慌てた。ぐずぐず言ってたらアスンシオンに送り返されるかもわからない。

「あの、あっちのほうに長い椅子がありました。あれだったら寝られるかも」 私は急におとなしくなって、長椅子まで行って、そろりっと椅子の背もたれを掴んで仰向けになった。上品な奥さんのほうに足を向けて、頭の向こうには立派な紳士が座っているけど、この際格好など言ってられない。クッションを枕にして「これでいいわ。ありがとう」と私が言うと、日系人の男は安堵したのかにっこり笑った。問題を解決できてよかったというふうでもある。

私はこの長椅子で1時間ほど寝て、迎えに来た車椅子に乗って出発ロビーに向かう。出口のところにさっきのスペイン語が分かる若い男がいて「これにこりないで、またここへ来てくださいね」と、にこにこしながら言う。どこまでも優しいのだ。

「はい、また来ますよ。ありがとう」ほんとによく辛抱してくれました。ありがとうございました。

 サンパウロからは大きな飛行機なので、ビジネスの座席は足を延ばしてゆっくり寝られる。背骨も伸びて楽になった。

フライト時間はシカゴまで約10時間。

ビップルームは懲りたので、車椅子置き場の待合室に連れて行ってもらった。やはり広いソファがあったので、そこで寝転んでフライトを待った。

アメリカの飛行場は中南米の人が働いていて、スペイン語が通じるのでありがたい。

英語話せるかなんて聞いてこないのだ。

シカゴから14時間近いフライトを経て、成田空港に着いた。








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