第一話『終わらない終わりの始まり』1
人は死して、何も残さない。
夜の街を歩く。
さくさくと、皮の靴がアスファルトを踏み締める音が、ビルに反響し幾重にも聴こえる。
夜の街の奥を歩く。
吐いた息は白い粒子に変わり、乱反射する月の光を受けて儚く輝く。
夜の街の、さらに奥を歩く。
肌に突き刺すような寒さ、或いは冷たさ。大気そのものが凍っているかのような空間の中、私は必死に足を動かす。
夜の街は、どこまでも広がっている。
個人商店、ファストフード店、背の低いビル。一つの角を曲がると別の道が広がっているだけで、私はいつも自分の旅路が永遠に終わらないのではないかという不安を抱く。冷たい、冷たい街の中で。
しかし私は手にしたカンテラを掲げて暗い街を照らし、歩みを止めることをしない。赤でも青でもない信号の横断歩道を斜めに突っ切り、ぜんまい仕掛けの時計のように休みなく歩き続ける。
アスファルトの表面に張った薄氷の音。どこもかしこも水色に輝く視界。建物も、植物も、人間も、この街では全てが氷の中でその動きを止めている。
凍った街を、歩く。
私が歩みを止めたのはとある路地裏、夜を明かしに来た会社員たちで賑わう居酒屋と個人運営のピアノ教室とに挟まれたところにある、小さなビルだった。
本来なら喧騒に満ちていたはずであろうここには、私自身の乱れた息の音だけが響く。後は冷たい月の光が僅かに投げかけられているばかりだ。
氷漬けになったドアの目の前で、私は右手に持ったカンテラと背負っていたバックパックをいったん地面に置き、その中に仕舞っていた道具を取り出す。鈍く輝く、黒いハンマー。頭の片側が三角形に尖っているそれに氷が付いていないか確認して、薄氷が張っていた持ち手の部分をカンテラの火で軽く温める。数分と経たず、氷は朝露のような雫となって柄から滑り落ちた。
準備を終えた私は、仕事に取り掛かる。万一にもカンテラを落とさないよう、持ち手に幾重にも巻かれた輪ゴムに手袋を外した左手を差し込んで固定する。風が吹くことのないこの街で、ガラスカバーを外されたランタンの火は真っ直ぐ天を指していた。
それからの作業は一つだけだ。行く手を塞ぐドアを覆いつくす分厚い氷にランタンの火を近づけ、温めて行く。しばらく経ったら慎重にハンマーの鋭角を打ち付け、氷を砕いて行くのだ。
カン、カン、カン──
ある程度の範囲が片付いたら、次は少し場所を変えて同じことを繰り返す。温めて、叩く。長い間屈んだ姿勢を続けるので、辺りの寒さも相まって、いつかここに来るまでに見かけた数多の“氷像”の仲間になってしまうのではないか、という恐怖が私の心を重くする。
カン、カン、カン──
その恐怖を振り払うように、私は慎重にハンマーを振るう。掠れた呼吸音と硬質な氷の音が絶え間なく響く。
単純作業の繰り返しは、人を催眠状態に陥れる。私は段々と眠気を感じ始め、長くなった瞬きに現れる瞼はある記憶を想起させた。この作業をしていると、いつも今から一か月ほど前のある日のことを思い出すのだ。
氷を砕くという作業が、旧い記憶を思い出すことに似ているからかもしれない。そう思ったりしながら、私の意識は切り替わり始める。
この街が“終わった”、あの日の記憶へと──
長い冬が終わりを見せ、各地が春めき始めた頃。休みを手に入れた私は、およそ一年ぶりに生まれ故郷の[火継街]に帰省していた。ニュータウン建設が流行した際に都心から少し離れたところに造成され、現在は寂れてもいないが騒がしい都会というわけでもない、一種独特な雰囲気の街。
第一の目的は街に住む両親と、私の“彼女”に会うこと。その用事を終えた後、私は二つ目の用事に向かっていた。
ランドマークである赤レンガの時計塔を中心として、この街の景色は形成される。変わっている建物、変わっていない建物、無くなっていた建物、見たことのない建物。一年越しの故郷を楽しみながら、私は日が傾きかけた夕暮れの街を歩いた。連れだって公園に走る子供たち、夕飯の献立を考えている女性、空に放物線を描く鳥の鳴き声。
ノスタルジーを描いたような街並みを進んでゆくと、段々と建物が少なくなり、草原が広がる、遠くには森も見える丘にさしかかった。緩い傾斜のある道をなおも登ると、そこにぽつんと佇むのが私の目的地であった場所──[神無月生物研究所]である。
[春祝祭]。十年ほど前にこの街で発見された、冬の終わりごろに咲く花、[ヒツギアブラナ]に目を付けた自治体が考え出した、小さなイベントだ。
毎年、この街でヒツギアブラナが咲いたことが確認できたら行われる。冬が終わり、春がやってきた喜びを示すため、ヒツギアブラナから絞った油を使って大きな燭台に火を灯すのだ。私の第二の目的は、それに参加することだった。
舞台となる研究所の所長は、ヒツギアブラナの発見者その人であるという。この行事が毎年、市街地から離れたところにある小さな生物研究所で行われるのはそれが理由だ。
遠い記憶──この回想の時点においても、十分そう言える──の中で、当時小学生だった私は一度だけこの催しに参加したことがある。出店もなく花火もない、ただ火を灯すだけの祭りは子供の私にとって退屈この上なく、それ以来二度とは行っていなかったが……母親からメールでその開催を知らされ、私はふとした好奇心を誘われていた。
私が研究所の軽いガラス扉を開いたその時には、東の空に薄い満月が昇っていた。まるで未だに残った冬の寒さを固めたかのようなその佇まいを、私は今でも……或いは今だからこそ、鮮明に思い出せる。
溶けて行く氷が呼び覚ます“あの日”の回想は、まだ終わらない。