七參六肆
「やぁ、久しぶりだね」
そう呟いた男は、小さく手を振り歓迎してくれた。洒落た胡桃ボタンのコート。ボーラー帽。ハイカラな洋服を身に纏った姿は、異国と足並みを揃える為と真似たものだが、それと我が帝国のものとは偉く違う。以て、僕達が似合うものでは無い。どうしても、違和感が拭えないのだ。だがしかし、男は上手く着こなしていた。
下手すれば、英国人より着こなしているじゃないか、とすら思った。
あぁ、英国人と言うのは、こないだ大学に訪れた者だ。そういえば、葉巻と言うものを吸っていたな。些か嫌いな臭いであったが。
僕は、三日前送られてきた手紙通りに、先生の家に訪れた。此処は、東京から暫し離れた田舎だ。典型的な集落である。
雑木林に囲まれ、物騒なことに野犬、狐、狸やらが徘徊している。夜に出会えば、目を光らせ威嚇するか、逃げてしまう。毎日、後者の方だと嬉しいのだが、そうはいかない。野犬なんかは厄介で仲間を作り襲ってくる。東京で見掛ける犬は案外品があるが、此方の犬は、どうしたものか。ただ々下品で人間で言うと、かぶき者と相当だろう。
「今晩は…先生。所で何の為に私は、呼ばれたのでしょうか」
「少し退屈でね。丁度、滑稽本の小話ついでに君と話をしたくて」
先生は、優美に口角を上げる。
彼は、東京帝国大学国文学教授。徳川様の御世の文学を特化して研究している。そして、先生でもある。
まだ、大学そのものが新しく数も少ない。よって教授の数もけして多くない。最も上下関係はあるが、友好的な先生が多いのだ。加えて、偶然にも先生は、実家の界隈に住んでいた。だが、此方にくるのは、数ヶ月に二、三回程度でほぼ大学に寝泊まりしている。
「話を聴けと」
「あぁ、そうさ。まぁ、私の退屈凌ぎに過ぎない。家に戻ったら酒でも用意させようか」
「いえ、結構です」
「おや、そうかい」
僕と先生は、暗い夜道を歩いた。先生は、片手に提灯を持ち鼻歌をしながら上機嫌に歩いていた。蒸し暑い夜に、湿気に帯びて草の匂いが漂う。肌に張り付く下着が厭に気持ち悪い。僕は、袖口を上げた。
此処は、先生が気に入って歩く散歩道であるが、悪寒が走る気持ち悪さがあった。払拭出来ないその感覚が今尚べっとりと張り付いている。
あぁ、速く帰りたい。いっその事、この人を置いていってしまおうか。
しかし、師を置いていく程の無作法は生憎備えていない。僕は肩を落とし提灯を見つめた。
僕が毛嫌いするのは、この先にある雑木林に隠れた神社が要因だ。至って普通の稲荷神社ではあるが、不可解な事が度重なった所為で気味が悪い神社に早変わりしたのである。
瞬間、青年は顔を上げた。
そうだ、どうせならこの不可解な事を話してしまおうか。
青年は、口を開いた。
「では…最近あった可笑しな話でもしましょうか。拙いですが」
「あぁ、そうしてくれ。今夜は満月だ。雲一つ無い。こんな景色の良い道中には、似合いだ」
先生は、小気味良くハキハキと喋る。
「先生は、この先に神社が在ることはご存知ですか」
「あぁ、勿論だとも」
先生は、軽く頷く。
「実は…三年前、私はその神社で不可解な事に出会いました。そう…丁度、神社の前を通り掛かった時、鳥居の方を目上げると、男が立っていたのです。白い衣服を身に纏い、不気味なほどの銀色の長髪が異彩を放っていました。それが、私を見ると手を降るのです。誰に手を振っているのかと辺りを見渡したのですが…まず、それに気付ている人は、誰一人居なかった。これは、有り得ないのです。その日、私以外に五、六人は居たはずだったのですが…」
「成程。では、君一人が気付いたという訳かね」
「えぇ、そうです。私は、それが気味が悪くてそのまま通りすぎたのです。ですが、次の日、其処を再び通り掛かると、女が立っていました。前日と同様、私に向かって手を振り、また次の日は、狐がそこに佇み尾を振るのです」
「面白い偶然だね。君はそれを何と考えたんだい」
先生は、興奮した様に次へ次へと急かす。そして、僕は回答する。
「神様…でしょうか………馬鹿馬鹿しいですね」
「いや、そうでもないと思うよ。聞く限り、それ以外当てはまらないだろう。妖の類いなら真っ先に君を襲う……何かね」
僕は、先生の言葉に驚いた。彼は、魑魅魍魎の類いは些か嫌いだった。僕が、友人と東京で流行っていた怪談について話していたところ「そんなもの、ただの勘違いだろう」と、彼が嘲笑を浮かべたことを今でも覚えている。
「いえ…以外だと思っただけで…」
青年は、ぼそりと呟いた。
「あぁ…どうも、誤解が有るようだ。私は嘘か真か分からぬ物はどうも興味が無くてね。本人から話を聞くのは良いが、人づてから聞いた話は嫌いなんだ」
「成程…」
「……しかして、どうして君は神に気に入られたのだろうね。心当たりはあるのかい」
「…えぇ、少しばかり。私が、まだ七つの時、叔父と神社の管理者に会いに行ったことがあります。その時、獣の鳴き声が聴こえたので、幼い私は、好奇心のまま声の方向へ近寄りました。どうも見ると、黒い狐が何かに襲われていたようで、助けてやったのです」
「それが、原因だと」
「えぇ、おそらく」
途端、先生はクツクツと笑い始めた。
何が可笑しいのか…僕は、ただそれを呆然として見ていた。
「フフ…なるほど。だから君は怖がっていたのかっ」
「笑わないで下さい…」
僕は、羞恥の念に駆られ、ふいと顔を背けた。
「いやはや、実に面白い話ではあったよ!しかし…ずっと、ビクビクしていたのは何故かずっと気になっていたんだ。ようやく霧が晴れたよ」
ケラケラと笑う声が木霊する。
はぁ…話すんじゃなかった。青年は、落胆の表情を浮かべた。
「もう大丈夫だよ。私がいるから」
先生は、低い声音で告げた。駄弁っていた先刻の雰囲気に冷たい空気が頬を撫でる。
「え…」
瞬間、景色が反転する。地面がグラリと歪み、僕はその場に倒れてしまった。
その時、僕は違和感を覚えた。
何故、先生は夏の蒸し暑い日にコートなんて着ていたのだろう。何故僕は、今まで其れに気付かなかったのだろう。
…何故、今…先生の表情が思い出せないんだろうか。