月うさぎと雨ネコ
春のある夜、1人で留守番をしていた大地の元に、月からうさぎが落ちてきた。
月うさぎのルウが大地の部屋に住み着いて、2ヶ月が過ぎようとしている。
日曜日、今日も大地の両親は仕事に出て不在だった。
ルウが来るまでは寂しいばかりの留守番だったが、今は違う。お気に入りのベッドの毛布の上、コロコロ転がるクリーム色のルウは、今や大地の一番身近な存在になっていた。
「雨、降らないなぁ」
勉強机に頬杖をついて、窓の外を眺めながら大地が呟く。その声にルウが長い耳をピクピクッと震わせて、顔を上げた。
「雨?」
「そう、雨。もう梅雨に入って、天気予報、あっちもこっちも雨マークだらけなのに、この町だけ雨が降らないんだって。助かるけど不思議ね、ってお母さんが言ってた」
大地に言われて、ルウは難しい表情になって腕組みをした。
「…そりゃ、雨ネコに何かあったのかもしれないね」
うーん、と唸るルウに、大地は目をパチクリさせた。
「え?あめねこ?」
聞き返す大地には答えず、ルウはしばらく考え込む。やがて、意を決したようにムクッと起き上がると、大地を見上げて言った。
「考えてても仕方ない。行ってみようか」
※ ※ ※
外は今日も良く晴れていた。白い雲がポッコリポッコリ浮かんではいるが、雨が降りそうな気配はない。それでも、大地の手には水色の長い傘がしっかりと握られていた。
「うまく行けば、帰りは雨かもしれないからね。僕は濡れても平気だけど、人間って雨に濡れると風邪をひくんだろ?」
出がけにルウがそう言うので大人しく従ったが、道行く人々は、青空の下、傘を持って歩く大地を不思議そうに見るので、その視線が大地にはちょっと恥ずかしかった。
大地の先に立ってピョコピョコ歩くルウは、人通りの多い町を抜け、学校の区分け基準になっている川にかかった橋も超え、町の西側にある森を真っ直ぐに目指した。学区外にあたるその森は、大地にとっては未開の地だ。
「この森だね」
森の遊歩道の入口で、ようやくその足を止めると、鼻先にあるヒゲをヒクヒクさせてルウが言う。
「その…雨ネコっていうのが、ここにいるの?」
「そうさ。雨ネコってのは、大抵が森の中に住んでる。特に、1本だけ高い木がある森なら間違いないんだ」
確かに、この森は大地の家からもよく見えるが、森の中腹あたりに1本だけ、突き出た杉の木が生えている。一角獣の角みたいでカッコイイと、大地が密かに気に入っている木だ。
遊歩道をしばらく行くと、不意にルウは整備された道を離れ、雑草を踏み分けて木々の間に入って行く。歩きにくそうだな、とは思ったが、道を外れることへの不安はなく、大地もルウの後に続いた。春よりは夏に近い季節、町中は歩くと汗ばむ陽気だったが、森の中は静かなひんやりとした空気で満たされている。道無き道を進んでいくと、やがてポッカリとひらけた場所に出た。その、小さな広場の真ん中に、一本杉がスーッと真っ直ぐに天を向いて立っていた。町中を歩いていた時は、どんなに歩いても平気だったが、さすがに雑草を踏み分けて歩く山道は負荷が大きく、大地の息はすっかり上がっている。その乱れた呼吸さえ、その一本杉の前では吸い込まれるように落ち着いていく。
「おやまぁ。昼間っから月うさぎを見かけるなんて、珍しいこともあるもんだ」
一瞬、見上げた木が喋ったのかと思って、大地は一歩、後ずさりをした。その隣で、同じく木を見上げてたルウは、特に驚いた様子もなく、木のちょうど真ん中あたりにある枝にピタリと視線を止めて答えた。
「ちょっと事情があってね。それより、そっちこそ珍しいじゃん。今年は雨の季節、お休みか?」
ルウの事情…うっかり月から落っこちて、お兄ちゃん達の迎えが来るまで大地の家に滞在している、簡単に言えばうっかり迷子なのだが、そんなうっかりな素振りは全く見せずに、どちらかと言うと横柄な態度のルウに、大地の方が慌ててしまう。
「あの、雨ネコさんですか?僕は紺野大地と言います。第3小学校の1年生です。こっちは月うさぎのルウ。急に来ちゃってごめんなさい」
相手がどこにいるのか、大地には分からなかったので、ルウの視線の辺りに向かって言ってペコリと頭を下げた。
「おやおや、こっちはまた、珍しいぐらいに真っ直ぐな人間だこと。はいはい、私が雨ネコのジウだよ」
相手が名乗った途端、大地が見上げていた枝の上にスゥーッとネコの姿が浮かび上がってきた。淡い水色をした、キレイな猫だった。びっくりして目を瞬かせた大地を見下ろして、雨ネコのジウは笑った。
「声が聞こえるだけじゃなく、姿まで見えるのかい?こりゃ、愉快だね」
人間の知り合いなんて何十年ぶりだろう、と、ジウはクルリと大きな猫目を回してみせる。
「感心するのは後回しにしてさ。僕の質問はどこにやっちゃったの?」
「あ?…ああ、雨の季節ね。私だってしたいんだけどね。今年はもう無理かもしれないねぇ」
のんびりした口調のジウに、ルウは呆れたようにヒゲをヒクヒクさせて言った。
「自分の仕事だろ?なんだよ、ずいぶん他人事だな」
「そうじゃないけどさ。上に行く時にうっかり足を滑らせてね。腰を痛めちゃったのさ。年かねぇ」
前足で腰の辺りをトントンと叩いてみせる。大地の実家のおばあちゃんを思い出させるような身振りだった。
「腰が痛いの?おうちから湿布、持ってきてあげようか?」
「シップ?人間の薬かい?私に効くかねぇ」
再び面白そうに笑ってから、そうだ、と思いついたようにジウは大地とルウを交互に見やった。
「ちょうどいい所に来てくれたんだ。ちょいと私の代わりに上に行って、ネジを緩めて来てくれないかねぇ?」
チョイチョイと上を手で示されて、大地は空を仰いだ。青い空にふんわり浮かぶ白い雲。まるで何かを待ってるように、風にも流されずにそこにある雲が、静かに大地を見下ろしていた。
※ ※ ※
「ねぇ、ルウ。この階段、すごいね」
大地は興奮したように、隣のルウに話しかける。足元には、大地の住む街が遠く、小さく広がっている。
ジウの頼みにルウは面倒そうな顔をしたが、大地が「僕にできることなら」と言ってしまったのだから、仕方ない。ジウはご機嫌そうに喉をゴロゴロ鳴らすと、枝の上に立ち上がり、木の幹を両手でカリカリと引っ掻いた。すると、木のてっぺんがワサワサと揺れて、そこから小さな扉が一枚、スルスルと降りて来る。ジウに良く似た色の、薄い水色の扉だ。そのままジウのいる枝を通り越し、その扉は地面の上、大地たちのちょうど目の前まで来てストン、とその動きを止めた。
「上に行けば、やり方は雲の子たちが教えてくれるからね」
それだけ言って、はぁ、やれやれ、と仕事を終えたように枝の上に座り直したジウに、ルウは「全く、呑気な雨ネコもいたもんだ」と呆れ顔を隠さない。それでも、大地に続いて扉を潜ってくれたのだから、結局、ルウも面倒見が良いのだ。
扉の向こうには、不思議な景色が広がっていた。半透明の階段が、真っ直ぐに空へと向かって伸びている。先が見えないほど高い階段に、何段登ったらジウの言う「上」に着くのか、とポカンと立ち尽くす大地を、ルウが軽い口調で「行くよ」と促した。そして、大地よりも先に、1段目の階段にヒョイ、と乗る。その途端に、ルウの乗った段が、ぐーんと伸び上がって、瞬く間に大地の視界から消えて行ったのだ。置いて行かれては困ると、慌てて大地も1段目の階段に登る。その途端に体がフワリと持ち上げられて、ハッと気づくとすぐ上の段にルウの姿があり、大地の方を振り返って待っていた。ルウがまた一段登る。また段がグイーンと伸び上がって空の方へと消えて行く。大地が階段を3つ登っただけで、足元には遠く森が広がり、その向こうに大地の住む町が広がり、そして雲がとても近くに迫っていた。
「そりゃ、雲まで上がるのにチマチマ階段登ってたら、何日かかっても着かないからね」
当然のようにルウが言って「月にも登れる階段があったら、行き来が楽なのになぁ」と、ぼやくように呟いた。やはり、月に帰りたいのだろう。口が悪くて態度が大きいから大地もつい忘れがちになるのだが、ルウはれっきとした迷子で、当然、心細いはずなのだ。
「ま、下にいたらいたで、こうしておかしな経験もできるから、悪くないけどさ」
そう続けた言葉が、ルウの本心なのか強がりなのかは、大地には判断できなかった。
全部で何段、階段に運ばれただろう。大地の家の2階に上がるよりは段数が多かったが、小学校の3階に上がるよりは少なかったように感じられた。頭のすぐ上に雲が迫ったかと思うと、その階段の終わりは急に訪れた。ズボッと頭が雲の上に抜ける。続いて、階段がグイッと大地の足裏を押し上げて、全身が雲の上に上がった。
「わーっ!」
同時に、高い子供の声が雲の上に響き渡った。
「人間だ!」
「人間の子供だ!」
「ウサギ連れだ!」
「うわーっ!」
同じタイミングで雲の上に抜けたルウが、ふるふるっと頭を振ると、今度は「おおーっ」と感心したような声が響く。それはまさに、ジウが言っていた通りの「雲の子」たちだった。丸くて白い、大地の手の平サイズのふわふわした生き物が、雲の上を漂いながらどよめいている。白い丸の中に目が2つ並んでいるが、口や鼻は見当たらない。喋るたびに、目の下辺りがモゴモゴ動くので、どうやらそこに口があるらしい。
「知ってる、知ってる。僕ら、ちゃんと勉強してるから」
「こっちが人間で、こっちがウサギ」
「凄いや、本物見たの、初めてだ!」
「でも、人間とウサギが何しに来たんだろう」
10ほどの雲の子が、そこでピタリと口を閉ざし、サワサワッと集まると、コソコソ何かを話し合い始めた。
「待て、待て待て待て。ロクでもない結論出す前に、ちょっとはこっちの話を聞けよ」
ルウは相変わらず、相手を選ばず偉そうな喋り方をする。慌てて、大地がルウと雲の子の間に割って入った。
「あ、あのね。僕は人間で、こっちのウサギは月うさぎ。雨ネコのジウさんに頼まれてネジを緩めに来たんだ。やり方は…きみ達が教えてくれるって、ジウさんが…」
「ジウ!」
「なんだ、ジウの仲間かぁ」
「ビックリしたなぁ。ビックリしてちょっと雲が減ったよ」
小さな丸がクルクル回りながら集団を解いて、雲の上を漂い始める。
「そういうこと。で?どこにそのネジってのがあって、どうやったら緩むんだ?」
ルウに促されて、雲の子たちは「ネジならこっちだよ」「ネジっていい方、古くない?」「ジウは古いからしょうがないよ」と、口々にお喋りしながら2人をネジの方へと案内してくれる。初めて歩く雲の上は、思ったよりも深く沈むこともなく、毛足の長い絨毯の上を裸足で歩くような感覚に似ていた。
「これだよ」
「緩めるなら左回り」
「そう、ピッタリ左に1周」
「緩めすぎたら、雨の季節が長引くし、きつすぎても季節がなかなか進まない」
雲の子たちが教えてくれたところに、確かにそのネジはあった。全部、雲と同じ白色なので他との区別がつきづらいが、ネジのような、ハンドルのようなものが雲の中央にポコンと突き出ている。
「僕らが緩めても良いんだけど」
「見ての通り、手も足もないからね」
「ジウが来なくて困ったなぁ、って話してたところなんだ」
「さぁさぁ、早く。僕らも雨の仕事がしたくてたまらないよ」
雲の子たちに急かされて、大地はネジへと手を伸ばす。そのネジもまた、柔らかい綿に包まれてるような感触だったが、ギュッと握ればちゃんとした質感が手に伝わってきた。
「左に、1周」
確認するように呟いてから、大地は慎重にそのネジを動かした。ペットボトルの蓋は、未だに1人で開けられない大地だったが、そのネジは大地の力でも簡単に回り始めた。
「もうちょっと」
「あと、もう少し」
雲の子たちが、ネジの動きを慎重に見守って声をかける。大地もネジから手を離さないように気をつけて、ゆっくりと確かめながらネジを緩めた。正確に、ピタリと左に1周。
「やったぁ!」
「緩んだ、緩んだ!」
「さぁ、雨の準備だ!」
雲の子たちが、嬉しそうにそこら中ピョンピョン跳びまわる。その中の1つが、ヒョイと大地の肩先に飛び乗って、大地は驚いて自分の肩先に目をやった。
「ありがとう、人間の子供。適当なジウより、よっぽど上手に回せたよ。おかげで今年も無事に仕事ができそうだ」
他の雲の子たちに比べると、話す口調が落ち着いている。雲の子たちのリーダーなのかな、と思いながら、大地は肩の上の雲の子に笑いかけた。
「どういたしまして。でも、知らないことだらけだったから、みんなやルウのおかげだよ。色々教えてくれてありがとう」
大地の言葉に、雲の子のリーダーは目をパチパチと瞬かせた。
「お礼を言うのは僕らやジウさんなのに。人間って、思ったより変わってるんだね。それともキミが変わってるだけなのかな」
こんなとこまで平気で上って来るし、と続けた雲の子に「どうかなぁ」と大地は首を傾げ、それから思い出したように辺りをキョロキョロと見回した。
「そう言えば、ルウは?」
いつもなら大地の一番そばで、ああでもない、こうでもない、と口出しばかりのルウが、ネジを緩め終えるまで…その後も、すっかり静かだったことに気がついたのだ。クルリと視線を巡らせた大地が、ふとその目を止めて、思わず笑ってしまった。
「ウサギはウサギでも、月ウサギだって!」
「どうやって月から来たの?」
「月でウサギがお餅ついてるって本当?」
「そのお餅って、ついたらどうするの?月ウサギのご飯なの?」
たくさんの雲の子に取り囲まれて…むしろ、雲の子の中に半ば埋もれる形で、ルウが質問攻めに遭っていた。
「分かった、分かった。話は順番に…って、大地!笑ってる余裕があるなら、少しは…わ、わ、わ…押すなー!」
いつもどこか冷めた態度のルウが上げる声と、雲の中に沈められて行くルウの姿がおかしくて、大地はいつまでも笑いが止まらなかった。
※ ※ ※
雨ネコの森からの帰り道は、やはり雨だった。あの後、雲の子たちからの質問にいちいち応えてやって、ようやく解放されてから元来た道を戻ると、地上に着く頃には夕方になっていた。
「ずいぶん時間がかかったねぇ。上はそんなに楽しかったかい?」
出迎えたジウは、疲れ気味のルウを見て笑いながら言った。おそらく、雲の上で何があったのか、大体予想できたのだろう。
「梅雨明けが遅れるようなら、また様子を見に来ておくれ。今度はネジを締めてもらわなきゃ、いつまでも夏が来ないからねぇ」
喉を鳴らしながら気軽に言うジウに、大地は「はい」と素直に返事を返し、「それまでに何とか腰を治せよ」と、ルウはぶっきらぼうに言った。
「全く、なんでもかんでも、軽く引き受けて」
帰り道、笑ってばかりで、ちっとも助け船を出さなかった大地に、ルウが恨みがましく文句を言う。雨で足の裏が濡れるのが嫌だと言うので、片手にルウを抱いて、反対の手で傘を差して、大地は帰り道を歩いていた。
「うん、ごめんね。でも、空の仲間同士、おしゃべりするのも楽しいのかなぁ、と思って。ルウの話し相手は、いつも僕ばかりだから」
のんびりした口調で謝る大地を、腕の中からルウが見上げた。
「ジウさんとも話ができるなら、たまに遊びに行こうね」
「………茶飲み仲間か」
僕はまだ若いぞ、とボソリと付け加えたが、それ以上、ルウの口から苦情は出なかった。
「晴れはもちろん良いけど、雨もなかなか良いね」
クルリと傘を回して、大地が言う。空色の傘の上、はねる雨粒が嬉しそうに明るい雨音を返した。