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彩幻  作者: 新流晃夜
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8話

 耀弥姫一行の出立が高らかに南西の宮に響き渡る。

 ユウは花弥たちが華やかに装っていた理由を知った。下男の身分では、耀弥姫の日程や女官の行動を逐一知らされることはない。

 せっせと磨いた床に、仕上げの水を流す。水をふき取れば床磨きは完了だ。

 袖を捲り直し気合いを入れたユウだったが、貴人の通る合図が聞こえた。

 向こうが高段にいるなら立礼、同じ高さなら平伏が基準だ。ちなみに帝や後継者が通った場合は段に関わらず平伏である。

きちんと壁際に平伏したユウが、伏せる間際に見た顔には見覚えがあった。

 花弥に巻物を押し付けた男だった。

 男が通り過ぎざまユウの伏せた眼前に、ぽとりと落としたものがあった。割れないように厚く革で包んだ小瓶だった。しっかり封がしてあるからには、大切なものなのだ。

ユウは小瓶を拾って男を呼びとめていた。

「落されましたよ!」

 体は起こしても膝をついたまま、頭だけ下げたユウは、これで体裁は保てているだろうかとひやひやしながら小瓶を掲げた。

ところが男は口の中で何やら呻いて瓶をひったくると、水を蹴立てて走り去ってしまった。

呆然と見送ったユウの後ろで、同じように平伏していた下男たちも立ち上がり、濡れた下穿きや上着の裾を恨めしげに絞った。

「なんだったんだ、あれ」

「さあな。あの豚野郎、水を使う日に限ってわざわざ通って行くんだぜ」

 落ちないとわかっていても、反射的に埃を払う仕草をしてしまう。

「官吏には見えなかったけど、いまの誰?」

「ああ、ユウは知らないか。皇帝陛下の弟様らしいぜ、あれでも」

 弟だから宮城への出入りは許されているが、試験を通らず官吏にはなれなかった。

 拭き掃除を再開しながら、よそに響かない程度に喋り続ける。

「あんな豚男でも現帝の弟だってんで、羽振りは良いみたいだけどな」

「それって、陛下から優遇されてるとか……」

「違う違う。なんとかいう高官の娘と結婚したんだと」

「これも噂だけど、実は帝にも金を無心したことがあるらしい」

 皆が手を止めたことに気をよくしたのか、とっておきの話をする調子で、一人が続けた。

「俺も最初は驚いたぜ。まさか、あのきんきらきんの衣装は、その金であつらえたんじゃねえかってな」

「もしそうだったら許せないぜ。あいつ自身は何の権限もないはずだろ?」

「その通りだ。俺も同じことを聞いた」

 ごくりと誰かが息を飲んだ。

「けどな、帝はこう仰った。『私の持つものは全て民のものである』ってな。本当に一銭も渡さなかったそうだ」

宮城の片隅で、帝への好感度が急上昇した。

「派手な服は全部、婿入りした家の金らしい。夫婦仲は良くないし、子供も母親が独占。現帝の血縁ってだけで婿取りしたけど、離縁したいのが本音らしい。でも宮城に自由に出入り出来るところだけは魅力的だからしないって話」

 宮城の中で最も情報が多いのは下男下女だ。

 平穏は心地よいが、刺激的な話が面白いのもまた事実。どす黒い人間関係の物語はいつの世も流行るものだ。

 ただ、そんな彼らでもまさか帝位を巡る争いがあるとは考えない。それは民にとって、ありえないことだからだ。

「そこいくと、やっぱり耀弥姫様は違うよな」

「例えば?」

「どうしてってユウ、そりゃお前、例えば、こうやって水撒いて掃除してる時とかさぁ」

「お偉いさんが通ったら、俺達はさっきみたいに、水がまだ乾いてなくても平伏しなきゃなんないじゃないか」

 隣にいた男が拳を握る。

「ところが、耀弥姫様は、水撒いてる回廊はお通りにならないんだよ」

「着物が濡れるから?」

「違う!」

 声を揃えて否定され、ユウはたじたじとなった。

「水たまりに平伏したら、俺たちが濡れる」

 こんな風にと指した服は、まだ湿っている。

「もしかして……僕たちが濡れないように?」

 また下男たちの声が重なった。

「その通り!」

「けっこう前だけど、やっぱりこんな時に耀弥姫様が向こうの端にいらしてさ。急いで平伏しようとしたら『そのまま。いつもありがとう』って! 姫様は別の通路に行っちまったけど、俺は感動で涙が出たぜ」

「嬉しくなるよな。あんな姫様にお仕え出来るんだからさ」

「こっちも誠心誠意、働いて恩返ししたくなるってもんだ」

 良い気分で手を動かすから、床はあっというまに磨かれて光沢を放つ。

 汚れた雑巾は交代で洗う。今日の当番はユウだ。

 水場に回り込もうとして、行く手を阻まれた。

「貴様、なにをやっている」

「あの……?」

 突然現れた男に叱責される理由がわからない。

 男が官服を着ていることにやや遅れて気が付いて、ユウは早急に道を譲って膝をついた。

「なんだそれは」

 頭の上から舌打ちが聞こえ、勢いよく胸倉を掴まれた。どうやら平伏しなかったことを咎めていたのではなかったようだ。

「なにをもたもたしているのだ」

「ええと、すみません、なんのことだか……」

「ふざけている場合ではない」

 いくら襟を締めあげられても、男の言っていることはまるで理解出来なかった。

「騒ぎが起きたら、その隙にという計画だっただろう」

「いえ、あのー……」

「もういい。あとどれぐらいかかる。今の段階であれだけ近づけるなら、そうはかかるまい」

「すみませんけど、どちら様でしょう……?」

 少しでも雰囲気を和らげようとつくった愛想笑いは、完璧に裏目に出た。

「今はそのような演技はいらん。状況だけを答えよ」

「って言われましても……僕、記憶喪失で」

 それを聞いた男がにやりと笑った。

「なるほどな。あれからそういう身の上でもぐりこんだか。いい判断だぞ、ヨウシュウ」

 曲がり角の反対側から話し声が聞こえてくる。

 男はユウを突き飛ばすように解放し、すれ違いざま言い捨てた。

「結果を楽しみに待っている」

 角に消えた男とはまるで会話がかみ合わなかったが、男は彼をこう呼んだ。

「……ヨウシュウ……?」


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