4話
翌日、日の出と共に西の宮周辺は兵士が調査と警戒にあたっていたが、それとは別に、女官や侍従が忙しく動き回っていた。
日が高くなる時刻を待って、南西の建物から鐘が高らかに打ち鳴らされた。それは耀弥姫が中央の宮に渡る合図。仮住まいの南西の宮から中央の謁見の間まで、煌びやかな行列が移動する。
先頭を歩く蓮星の後ろに二人の童女が香炉を捧げ持ち、磨き上げられた回廊を行く。
回廊を歩いていた官吏たちは、早くから漂う香炉の薫りに道をあけ、頭を垂れた。
二十人は超える一行だが、粛々と進み、まるで煩さを感じさせない。代わりに飾りに使われている鈴が、柔らかな衣擦れが、涼やかに残される。
童女に続き、一際鮮やかな裳裾が女官服の間から垣間見え、最後尾と思われる童女が通り過ぎて、人々はようやく頭を上げることが許される。
後ろからはもとより、左右からも姫の姿は周りを囲んだ女官に隠され、まさか行列のま正面に立つ愚か者が宮城にいられるはずもない。
決して速まることはなく、香炉の薫りは行列の行く手をはらう。
回廊の先で精緻な彫刻の施された扉が左右に開かれる。この奥が、帝のおわす謁見の間である。
扉の開放と共に耀弥姫の来訪が告げられ、女官たちは部屋へは踏み込まずに礼を持って耀弥を見送る。
大理石を複雑な模様に嵌めた床は、奥に設えられた玉座へ一本の路を造っている。気後れすることなく背筋を伸ばしてその真上を歩き、耀弥は玉座の前で跪いた。
玉座に座った帝はやや間を置いてから、重々しく言った。
「面を上げよ」
耀弥が髪に挿した簪の玉が擦れて音をたてた。
ここに至るまで視線すら揺らさなかった耀弥が、蕾が綻ぶように艶やかに微笑んだ。
帝側に控えていた高官たちが微かに息を飲み、帝もあながち儀礼だけでもない笑顔を見せた。
「相変わらず美しいな、耀弥」
「お久しゅうございます。帝もご健勝のご様子、お慶び申し上げます」
型通りの挨拶が交わされたあと、帝は臣下を下がらせ人払いをした。
「ついに始まったようです。お父様」
無人になるのを見計らって、耀弥が口を開いた。
「やはり、そなたでも起こりうるか」
「私の代が何年続こうが、おそらくは関係ないのでしょう。昨日も、もし私が遅れず、猫が迷い込まなければ」
「毒見が死んでいたか……」
「はい」
沈黙の後、帝は耀弥を手招きした。
「耀弥。そなたが、帝位第一継承権者でなければと何度思ったことか」
足元へ座った娘のなめらかな頬を、帝は愛おしげに撫でた。
帝位の継承は血縁だけでは決まらない。いかなる仕組みでか、帝にもその決定権は委ねられていない。この世を統べる力があるかないか。それが最も重要だった。次代が帝の子でないことなど珍しくもない。逆に帝の皇子や皇女がそのまま帝位についた事例の方が少ないくらいだ。
力があれば、誰であろうと帝位を認められ、逆に現皇帝の子も力がなければただの人である。才覚次第で官吏にはなれても、帝にはなれない。
それは知略でも、ましてや武力でもない。
この世の安定を保つ、目には見えない力だ。
かつてこの世を作った神の血縁に連なるものが力を有すると言うが、それを量るのは誰なのか、それは誰にもわからない。
幾人もの候補者の中で、最も力の強い者が第一帝位継承権を与えられ、もし継承前にもっと力の強い子が現れれば、継承権は即座に移動する。
その指名がどう行われるかは、歴代の帝だけが知っている。
民は、発表された世継ぎと帝の血縁関係には目も呉れず、ただ良き為政者であることを望む。裏を返せば誰であろうと世継ぎとして歓迎されるのだから、おおらかと言うべきかおおざっぱと言うべきか。
「民のために生きること、厭うたことはありません」
「だがな、娘が命を狙われて喜ぶ親はおらぬ。それは我とて同じ。ましてやそなたが帝位につけば千年の平穏が約束されているというに」
「帝位継承権を欲しがる者には、関係無いのでしょう」
「民は誰ひとり好んで争わぬ。だが、やはり権力は人を狂わせる。現に先代も……」
先代の帝は元々第一継承者ではなかった。だが、第一継承者が急死し、候補者の中から次点の先代が選出された。その死は病気と公表されているが、事実は杳として知れない。
戦乱の無い世ではあっても、人が生きる限り諍いは生まれる。人の意思によっては動かないはずの帝位を求める者があるように、権威が高くなればなるほど、陰湿な争いが生まれた。
帝の縁者であっても、それだけを理由に権のある地位を得ることが決してないのは、過去の記録を見れば歴然である。
だが何かを期待して縁者を――たいていは子や孫――を帝位につけたがる者はいつの時代も減ることがない。
「娘にこのような労を背負わす父を許してくれ」
「恨みません。お父様が好きで決めたことではありませんから。――ひとつだけお願いしてもよろしければ」
「なんだ。叶えられるならば聞こう」
「お父様にお会いする手順を、もう少し簡略化して頂けると助かります」
ややあって、帝は呵呵と笑った。
「南西の宮は早急にそなたの住居として整えよう。毒の件はこちらで調べておく。そなたはこれまで通りに暮せ」
行きと同様に帰りも行列を作り耀弥は南西の宮へ渡った。
たとえ実の親子でも、帝への眼通りはいつも正装で礼節に則り行わなければならない。耀弥が簡略化を望んだのはあくまで冗談だが、それでもこの手順が面倒なのも事実だ。
部屋に戻るや否や、蓮星が椅子に座った耀弥の簪を外し、別の女官が複雑な形に結われた髪を解し梳く。
「綺麗に装うのは嫌いじゃないけど、やっぱり重くて疲れるのよ」
耀弥の言い分である。
するすると櫛梳られた髪は、次の予定に合わせて結い直されるのが常だが、今日はいくつかの決裁事項の他は急を要する仕事はない。
そこまで心得て、女官は長い髪をひとつに束ねるだけにとどめた。当然差し出すのは女官服だ。
「今となってしまっては、こちらの方が安全でしょう。姫様のお姿は、わたくし達を除けば正装でしか存じ上げない。女官姿ならば、よもや狙われることはありますまい」
「しばらくは食事も、外で済ませるべきかしらね。蓮星のことだから、もう影武者も用意しているんでしょう?」
「ええ。姫様と似た背格好の娘を」
「そう」
耀弥の声音がやや下がった。
「姫様」
「わかっているわ。私には、愚か者に付き合っている余裕はないもの」
「いえ、本日のおつかいは、野菜と香辛料です」
後ろで片付けをしていた女官が、陶器の器をとり落とした。




