3話
甲高い悲鳴が西の宮を震わせた。
「何事です!」
駆けつけた蓮星もその惨状を見て口元をおさえた。
湯気の立つ料理が並ぶ卓の上は皿がひっくりかえり、料理は床までこぼれていた。
荒らされた卓の真ん中にいる猫が、生きていたなら誰も悲鳴などあげない。怒声を上げるだろう。
猫は死んでいた。
それも、舌をだらりと出し、白い毛並みを煮汁に汚して。酷くのたうちまわったのだと一目で判る。
明らかに尋常ではない。
いつもここで食事をしている耀弥は、常ならばすでに卓についていたはずだった。所用が少し長引き、予定よりすこし、食堂への到着が遅れていたのだ。
「すぐに兵を呼んで」
硬い声で命じた耀弥の顔もやや青ざめている。この猫は、食卓に並んだものを失敬しようとしたのだろうが、そのいたずらが結果的に耀弥を救ったことは明白だった。
百人ばかり率いた一隊が到着し、彼女は落ち着いて指示を出した。
「西の宮にある食材及び調味料全てを調査、放棄します。塩一粒まで見逃さないで。毒が何に入っていたのか判明するまで、この宮での一切の調理は禁止します。毒の混入されたものが発見された場合、それがどこから入手されたのか、いつから宮にあったのかを可能な限り把握して報告して下さい。誰か、本宮へ使いを。少なくとも今夜は全員西の宮から出るべきでしょう。不審な者が侵入しないよう、警護は強化します。それから」
いったん言葉を区切り、耀弥は猫を見下ろした。どこに毒があるかわからないだけに素手で触れるのは危険だった。
「この猫は、どうか丁重に葬ってあげて下さい。私の、命の恩人です」
耀弥の飼っていた猫ではない。だが、誰かに飼われていた猫だ。首に幅広の紐が結んであった。
「蓮星」
「はい」
「もしこの子の飼い主が見つかったら、私のところへ。お礼とお詫びを申したいから」
「かしこまりました」
片付けと掃除のために担当の下男下女が呼ばれ、手に布を巻き慎重に猫を空き箱へ入れた。
運び出される箱を見送って、耀弥は唇を引き結んだ。
「姫様……」
「すっかり忘れていたの。もう何十年も、こんなことは無かったから」
その横顔に、蓮星でさえ一瞬寒気を覚えた。
「明日、陛下に御眼通りを願うわ」
長く付き従ってきた蓮星が主に畏れを感じたのは、これが初めてだった。
一方ユウは他の下男たちと一緒に集められ、説明もないまま庭先に留め置かれていた。悲鳴は聞こえていたが、耀弥姫の居住宮である宮の内部へ、男は女官の許可無しに入ることが許されていない。
「はあ……」
それぞれ石段に座ったり柱に寄り掛かったりしながら待っているが、目に見えて星の位置が変わっている。
「お前も大変だなぁ」
横合いから肩を叩いた季承は下働きのまとめ役だ。ユウの面倒も請け負ってくれていて、父のように皆から慕われている。
「なんも思い出せてないんだろ?」
「いえ、皆さんにはよくしてもらっていますし、結構楽しいですから」
「彼女も可愛いし?」
「彼女?」
「ほら、お前を連れてきた、花弥って女官殿。俺も一度見ただけだが、あれは良い女になるぞ」
「まさか。そんな関係じゃないです。もしそうだったとしても、彼女は耀弥姫様の女官で、僕はただの下働きで記憶喪失ですよ。いくらなんでも身分が違いすぎて」
「そんならお前、今からでも勉強して、官吏になったらどうだ。面も悪くないし飲みこみが早い。いい線行くんじゃないか」
「それって何年後の」
「おいユウ、なあ、お前さ、耀弥姫様はもう見たか?」
ユウの首に腕を絡め、言葉を遮ったのは下男仲間の一人だった。
「見れるわけないだろ。だいたい、耀弥姫様が通ったら平伏する決まりじゃないか」
「そうだけどさ。一瞬、ちらっとくらい、見れるだろ?」
「ないよ。居合わせたことないし」
ええ? と疑念の声が上がった。
「たまにその辺の廊下とかお通りになるんだけどな」
「あるある! 運が良ければお声をかけて頂けたりしてな!」
「わざわざこっちまで近付いてくれるんだよな!」
「そうなんだ?」
わっと盛り上がる同僚たちに、一人勤めて日の浅いユウだけが首をひねった。
「追々わかるさ。このありがたみが」
「お前さ、しょっちゅう奥まで行ってんじゃん」
「女官のお気に入りだからってずるいよなぁ。俺なんて、女官とほとんど喋ったこともねえのに」
「実は耀弥姫様も見たことあるんじゃないか~? 本当のところ、言ってみ?」
力仕事に鍛えられた腕に締めあげられていたユウは必死で声を発した。
「見て、ない、ってば!」
衛兵に咎められるほどやいのやいのと盛り上がっていたが、頭ではずっと花弥だけを心配していた。
(あの李、食べたのかな)
移動を命じられて諾々と歩きながら、もう一度西の宮を振り返った。
それからしばらくの間、西の宮は立ち入りを禁止となった。李は結局、他の食材とまとめて処分されてしまっていた。それをユウが知ったのは、処分がすっかり終わってしまってからだった。
その日の夜のうちに耀弥姫と姫付きの女官たちは南西の建物へ居住を移した。それに合わせて下男下女も近くに新しい房を与えられて、とにもかくにも翌日からの労働に支障はなさそうだった。
下男は基本的に四人で一室の相部屋だ。急な移動のせいで間に合わせの部屋ではあったが、人数分用意された寝台に横になると、すぐに眠気は襲ってきた。予定外の慌ただしさは想像以上に精神的に疲労を溜めていたようだ。
他の三人の寝息につられて、やがてユウも眠りに落ちた。




