13話
乾いた服に着替え、小部屋に促された遙秀は椅子に座って待つ気にもなれず、部屋の中を歩き回った。
「遙秀、いますか」
「はい」
扉を叩いて現れた蓮星は、思いのほか穏やかな表情だった。
「姫様がおいでになります。特別に平伏の必要ありません」
蓮星の後ろに現れた人影に膝をつきかけた遙秀をとめ、入り口の前をあけた。
「どうぞ、姫様」
ぽかんと開いた口がふさがらなかった。
言いたいことが多すぎて、喉の奥に集まった言葉はひとつとして音にならない。
固まってしまった遙秀に、花弥の顔で、少女は微笑んだ。
「言いたいことって、何かしら」
「お願いだ。時間が無いんだ。耀弥姫様に会わせてくれ」
遙秀に懇願されても、花弥は微動だにしない。
「だから会いにきたの。話ってなに?」
「花弥……!」
後ろの蓮星に助けを求めても、ただ控えめに頭を下げ、扉を閉めてしまった。
「座らない? お茶もお菓子もないけど」
机の横を遙秀に示す。
躊躇してから、観念して遙秀は座った。
「どうしても耀弥姫様にお伝えしなきゃいけないんだ。頼む。もし花弥からお願い出来るなら、せめて衝立越しでも、窓越しでもいい、誰にも聞かれたくないんだ」
「ええ。だから、蓮星には入口に立ってもらっているわ。そこの窓の外も、信頼できる女官にお願いしてある。彼女たちなら聞かれても大丈夫。保証するわ」
「花弥、僕は」
彼女はやおら膝をついた。
「あなたに謝らないといけないの。言い訳を聞いてくれる?」
遙秀が頷くのを確認して、花弥は遙秀の手を取った。
「ごめんなさい。私、あなたをずっと騙していた。あなたの境遇を利用していたの。
記憶を取り戻すきっかけのために外へ出る案は、本当は私のためでもあったわ。最優先はあなたの記憶だったけど、蓮星たちが気を使ってくれたのは、むしろ私。気晴らしをさせてくれていたの。こんなに時間がかかると思っていなかったのよ……。お医者様はど忘れのようなものと仰ったから、長くても十日かそれくらいだと勝手に決め付けて、それなら、その間くらいって。あなたが記憶を取り戻せば在るべき場所に帰って、あなたにとって私は『女官の花弥』のまま、もう一生会うことはない。――こんな形であなたを傷つけるつもりはなかった……」
「……そんな……なら、君は」
「花弥は、いないわ。探せば同じ名の娘はどこかにいるかもしれないわね。だけど、花弥という女官は存在しない」
遙秀の頬を汗が伝った。
「たった一文字抜いただけ。『かぐや』と『かや』。つまり、この二人は同一人物なのよ。騙していて、ごめんなさい」
その時耀弥は、遙秀が衝撃のあまり呆けているのだと、自分のしたことに後悔していた。
許してもらえなくとも、せめて詫びさせてほしい。ずっと念じながら、耀弥は一瞬たりとも目を逸らさなかった。
「必死、だったんだ」
千を数えるほどの空白があって、遙秀が先に視線を降ろした。
「どんな人かわからないけど、花弥が仕えてる人なんだから、怖くはないだろう。頼めばなんとかなるだろうって」
耀弥の手を握り返して、遙秀は椅子から降りた。
「……花弥が、耀弥姫だったんだね」
「ごめんなさい」
「本当だよ」
手を離した遙秀が耀弥を詰っても、当然の報いと受け止めるつもりだった。
「緊張して損した」
今度は耀弥が驚く番だった。
「輝くような絶世の美女って聞かされてたんだけどな。花弥だと、美女っていうより美少女じゃないか」
「怒って、ないの」
「驚いたよ。だけど記憶を取り戻す努力を僕は怠っていた。花弥に文句を言う資格はないんだ。それに、三か月も一緒にいたんだよ。花弥は真剣な時に嘘はつかない。だから花弥が謝るならそれは本心だ。違う?」
破顔した遙秀は、実年齢で言えば耀弥よりもずっと年下のはずだ。
「ごめんなさい」
「君は名前を偽っていただけだもの。危害を加えられたわけじゃない。それよりもずっと君の好意に甘えていた僕を許してほしい」
「いいえ私こそ」
「いや、僕こそ」
神妙な顔で床に座ったままの二人は、ややあって吹き出した。
「お互い水に流すのが、一番平和な解決方法だと思うんだけど」
「あなたがそれでいいなら」
改めて机を挟み椅子に座る。恥ずかしさを誤魔化すために笑ってみた。
「それで、何の話だったのかしら」
「あ、ああ、そうだね。かや……耀弥姫様」
くすりと耀弥が笑った。
「耀弥でいいわ。どうせ二人きりだもの」
「じゃあ……耀弥。君は、悟諸という男を知ってる?」
「北方行政府の長官ね。遙秀が前に勤めていたのも彼の屋敷だったわね。記録によればあなたは、ご両親の代から雇われているとあったけれど?」
今となっては、遙秀にはそれすら忌まわしかった。
両親が亡くなった後、大人に混ざって働く遙秀を、悟諸はとても可愛がった。
「悟諸が僕を育てたのは、自分に従順で世間知らずな駒を作るためだったんだ……」
長官ほどの地位になれば、帝から在職中は不老の特権が与えられる。
長年屋敷に勤めてきた庭師の話では、数十年前に長官職についてから、ずっと四十そこそこの姿を保っていると聞いた。
「落ち着いて聞いてくれ。悟諸は、耀弥姫を殺すつもりだ」
耀弥は息をのんだ。
話し続けようとする遙秀を止め、一度深呼吸をする。
「ごめんなさい。どうぞ、続けて」
「悟諸が、前の帝位第一継承者だったことは?」
「聞いているわ」
「君を殺せば、悟諸は、また自分が第一位になれると考えてる」
「元第一位だったならなくはないけれど……絶対ではないわ。だって、一位だって変動するのよ。二位以下が変動しないわけがない。この数十年の間に、新しい二位が生まれている可能性だって大いにある」
「だけどそれが、悟諸がこんな計画をたてた理由なんだ」
犯罪が蔓延るのは、真っ正直に生きるより得だからだ。ならば、悪行を働くより正直に生きれば富むよう、世の仕組みを作ってしまえば、誰も罪を犯す理由がない。法に裁かれる上に損しかしないなら、正直に生きて富むほうが良いに決まっている。誰もが他者に怯えず犯さず生きていける。他者への善意を惜しまない。
この世で計画犯罪が成功しないのは、この法則が大きい。
密かに行動しようとしたところで、人目は避けても人手は使う。使った人間に内容をいかに隠しても、事件が起きれば使われた側は自分がしたことを正直に話す。
善意で悪意を駆逐する。地界では不可能な方法だ。
「だったらただ一人、全部知った上でそれを隠し実行できる手駒がいればいい、そのためだけに、悟諸は僕を作った。十年以上かけて、自分の言うことを全て素直に実行する駒を。天涯孤独の無知な子供は、さぞかしうってつけだっただろう。じっくり教え込むんだ。平穏がいかに脆いか。人の善意を愚直に信じる人間の騙しやすさ。自分だけは全部知った顔で、真っ当に生きる人を影で嘲笑うんだ」
遙秀は自嘲した。
子供の遊びのふりをして教えられた暗殺方法は、悟諸が医術を応用して考え出した。
優越感だった。誰にも言わなかったのは。
悟諸に口止めされながら、幼い子供は、誰も知らないことを知っている優越感にひたっていた。
「記憶を失った日、俺は上流で悟諸ともめたんだ。理由は意見の食い違い。悟諸は食事に毒を入れろと言った。俺は出来ないと言ったんだ。他の官吏ならともかく、耀弥姫の周辺は絶対に警戒されてる。時間をかけて取り入って、外に連れ出すほうが確実だって」
前の遙秀なら、耀弥を殺せた。
いざ思い出すと今の自分との差異が奇妙な感覚をもたらす。前の遙秀は、この世にあって異端の人間だった。どうしてこんなに平気で他人を信頼してしまうのかと、平穏な世を謳歌する人々を見下していた。三ヶ月間の自分とはまるで違う人格だ。
組み合わせた手に額をつけ、震える声で遙秀は言葉をついだ。
「思い出したのはついさっきなんだ。でも、はいそうですかって前の僕にはなれなくて。
ここまで来る間、考えてたんだ。もしかしたら記憶喪失は、神様が、耀弥を守るために仕組んだんじゃないかな……」
「――……神様が」
遙秀の肩が震えた。
「神様があなたの記憶を隠したならそれは、あなたを守るためよ」
縋る目が耀弥を見上げる。
「この世であなたが生きて行くためには、一度全部忘れないといけなかったの。前のあなたを抱えたままでは、大きく変わることは出来なかった。だから一回全部忘れて、あなたは生まれ変わった。今はもう、誰も殺せないでしょう?」
遙秀の嗚咽が止まるまで、耀弥は黙って待っていた。




