1話
まどろみの中からゆるやかに目覚めた。
夢と知りせば、とは、あの短い日々に読んだ書物に書いてあった言葉だったと記憶している。
これから生きていく時間に比べたら一瞬にも満たないひと時は、ただ一人への想いと共にいつまでも色褪せること無く、胸の内にとどまりつづけるのだろう。
左手の腕環に、そっと唇を寄せる。
小鳥が不意に羽ばたいた。
驚いているうちに小鳥は川の対岸にまで飛んで行った。
奏でていた琵琶の音が止んで、控えていた蓮星がそっと膝を進めた。
「どうかなさいましたか?」
「いいえ。あの子の羽色が、とても綺麗だったものだから」
もう姿の見えない小鳥が瑠璃色の羽をしていたことを思い出して、蓮星は、ああ、とうなずいた。
「御所望でしたら、お部屋に一羽、届けさせますが」
「それはだめ。飼いたいわけじゃないわ。第一、飛ぶ鳥を籠に閉じ込めては、意味がないでしょう?」
「これは、詮無いことを申しました」
鳶色の髪をきっちり結い、隙のない所作で再び後ろに下がった蓮星は、誰が見ても美女だと口を揃えるに違いない。二十歳半ば女盛りながら、主を見守る切れ長の瞳には、姉にも母にも似た慈愛がある。
その主たる少女は年の頃十六、七だろうか。簡単に束ねただけの髪を草の上まで流し、手は止めたまま、いまだ鳥が去った方向を見つめている。
蓮星は思うのだ。そういう目をする主が、本当は、望んでいることがあるのではないかと。
どうすることも出来ない無力さに俯いたその時、今度は勢いよく、少女が立ち上がった。
「蓮星、人を呼んで」
息を詰めて言う少女は、一点を見つめている。
「人が流されているわ! 急いで!」
少女の視線の先、川の上流から、布の塊がゆっくりと流されてきていた。
そこに頭髪を認めた瞬間に、蓮星は衣の裾を蹴さばいた。
土手を駆け上がっていく蓮星を見送って、少女は川辺へ寄り、おもむろに白い手が水に触れる。と、川の中ほどを漂っていた体が、水に押し流されながら、徐々に岸へ寄り始めた。
風も急な変化もない穏やかな川で、そこだけ、何かが人間を運んでいた。
遠くから人が見れば、偶然流れに乗っただけにも見えただろう。それくらい自然で、しかし自然ではありえない動きだった。
現に、同時に流れていた葉や枝はそのまま下流へ流されていく。
少女からやや離れたところに打ち上げられた男は、意識はなかったが、とりあえず生きていた。
服装に目立った特徴はない。
見たところ、所持品も少なそうだ。
(上流で……足でも滑らせたのかしら)
この大きな川は、かなり上流に釣りの名所がある。
そこで落ちた人間がここまで流されたとは聞いたことがないが、あってもおかしくはない。
それもいずれ目を覚ませば判るだろうと、いくつもの足音が慌ただしく駆けつけて来るのを聞いていた。
「記憶、喪失?」
少女は珍しい言葉に目を丸くして、蓮星を見上げた。
「医師の話では、何故川に落ちたのか、どこに住んでいたのか、それどころか名前や素性も思い出せないようです」
発見したのがこの主従だったこともあって、男はかれこれ二日間、手厚い看護を受けていた。
その男が意識を取り戻したと聞いて、蓮星に報告させていたのだが、思わぬ状況に広げていた本を置いて少女はしばし考え込んだ。
「ね、蓮星」
可愛らしく上目使いで無言のおねだりをする主に、蓮星はため息をついた。
この主、めったなわがままは言わないが、時折他愛ないいたずらを思いつく。
害があるわけでなし、それで気が晴れるならと蓮星も大目に見ることが多い。
「……なんでしょう」
それは、本当にちょっとしたいたずらだった。
男が保護されている部屋の前には、一応兵士が見張りとして立っている。
蓮星の顔を見て丁寧に頭をさげた兵士は、その後ろに慎ましく続いた娘を、さして気にも留めなかった。蓮星ならば、従える娘の一人や二人連れていてもおかしくなかったからである。
広くはないが良質な調度を置いた部屋のなかで、所在なげに椅子に縮こまっていた男は、入ってきた二人の女を見てさらに困った顔をした。
「気分はいかがですか?」
「あの、はあ、良い、です……」
「あなたを見つけた娘です。わたくしと同じく、姫様付きの女官で、花弥と言います」
「こちらの方」と言いそうになりながら、主のいたずらに真面目に付き合うから、蓮星は彼女の側近なのだ。
『花弥』はにこりと笑った。
「元気そうでよかった。川であなたを見つけたときは、どうなることかと思いました。ご自分が何者か、わからないと聞きましたけど?」
男はうろうろと目を彷徨わせて答えた。
「本当です……。起きる前のことが何も思い出せなくて…。それよりまず、ここ、どこなんですか? 姫様って……」
目を見合わせた蓮星と花弥は、器用にもそれだけで意志疎通に成功した。
(言ってないの?)
(言っていませんでしたね)
それは困って当然だろう。見知らぬ場所で目覚めて、何も覚えていないとなれば、誰だって不安になる。
「帝のおわす宮城、と言って、理解できますか?」
蓮星が訊ねると、今度は男の顔がみるみる青くなっていく。
「それって、あの、首都の最北にある、大きい……」
「まさにそれです。そういうことは覚えているようですね」
「ま、ま、まさか、じゃあ、姫様っていうのは、耀弥姫様?」
「その通りです」
椅子が倒れるほど勢いよく立ち上がり、男は床に膝をついた。
「もっ、申し訳ありません! 姫付きの女官殿とはつゆ知らず!」
額を床にこすりつけて平伏する男に、花弥は優しく言った。
「その耀弥姫様が、あなたが元気になるまで、客分として迎え入れることを決めたんです。そんなにかしこまらないで」
「いえっ、そんなご迷惑をおかけするわけにはいきません! すぐにでもここを出て……」
「出て、どうするのです?」
蓮星の冷ややかな物言いに、放っておけば本当に飛び出していきそうだった男も押し黙った。
「名も、素性もわからない。家があるにはあるでしょうが、それは都とは限らない。地方だとしたらまず帰れないでしょう。知り合いを探すにしても宿はどうします? あなたの所持品を検分しましたが、宿代になりそうなものはありませんでしたよ」
突きつけられた現実に、男はうなだれるしかなかった。向かいあうようにしゃがんだ花弥が、無邪気に微笑んで、男を覗き込んだ。
「ほら、しばらくはここで養生したほうが、いろいろと助かるでしょう?」
「でも、ただで置いてもらうなんて……」
「なら、元気になったら、宮城の仕事を手伝ってもらえませんか? 姫の住まう西の宮は、女官は多くても男手が足りません。姫の身辺にはさすがに寄せられませんけど、お端下仕事はいっぱいあるんですよ」
少なくともただ飯食らいではなくなったことに、男も安堵したらしい。ようやく顔も緩み、今後のことを考える余裕が出てきたと見える。
よろしくお願いしますと頭を下げた男に、花弥はこちらこそ、と答えた。
「よろしいのですか?」
部屋を出て廊下を進む二人だったが、行きとは立ち位置が違う。花弥が前を歩き、蓮星が半歩後ろを進んでいた。
「私が許可したと、皆に伝えて頂戴。実際力仕事が大変なのは知っているもの。あのまま放りだすのは危ないし、記憶が戻るまでの臨時雇いよ。とりあえずは都の中で、三日前から行方不明になっている二十歳前後の男がいないか、調べて」
「畏まりました。ところで、姫様はこれからも『花弥』であの男にお会いになるのですか?」
振り返った耀弥は、それはもう、楽しそうに笑った。
「……仕方ありませんね。姫様が満足なさるまで、お付き合い致します」
「ありがとう。蓮星。とりあえず私は、行儀見習いであなたの下についているってことでよろしくね」
「御冗談を。お作法なんてとうの昔に完璧でしょうに」
誰も傷つかない、ほんのちょっとしたいたずらだった。




