5-52.やる気と見落とし
「遥の隣を賭けて勝負しよう」
淳也が突然そんな事を言い出したのは、丁度沙穂が二人分のドリンクを持ってカラオケのルームへと戻った時だった。また断りなく勝手に賭けの対象にされてしまった遥は勿論これに抗議しようとしたが、それよりも早く真っ先に異議を唱えたのが美乃梨だ。
「遥ちゃんの隣はもうあたしの物ですよ! 誰にも渡しません!」
美乃梨は膝の上の遥をギュッと抱き締めながら、先の勝負で勝ち取った権利を主張していきり立つ。しかし、当然そんな事で臆する淳也ではない。
「隣ってのは左右両側にあるんだぜ? 一方は約束通りみのりんの物だけど、もう一方は今んところ別に誰の物でもない」
淳也の言い分は一応理屈としては通っており、確かに遥の隣は右側がこれまで誰も座っていない空席だ。尤も、美乃梨は遥を抱えている所為もあって、隣に座っているとは言い難く、現状でその席を使っていたのはこれまで飲み物を取りに行っていた沙穂である。
「隣とか関係なく遥ちゃんはもうあたしの物なんです! 遥ちゃんと約束したんですから!」
美乃梨は遥と交わした約束を持ち出して淳也の屁理屈を突っぱねるが、その主張は色々と突っ込みどころ満載だ。遥の記憶が正しければ、約束はあくまでもハグを許容するというただそれだけの事で、間違っても美乃梨の物になる等というものでは無かった筈である。
「なぁ遥、因みにその約束ってのは具体的にはどんな内容だ?」
淳也が約束の詳細について興味を持って尋ねて来ると、遥は小さく溜息を付きながら問われるままにその正しい内容を明らかにした。
「美乃梨が抱き着くのを許しただけで、別に美乃梨の物にはなってないよ…」
淳也に説明し終えた遥がチラリと頭上を見やれば、そこでは美乃梨が悪びれない笑顔でペロリと舌を出していた。その様子から察するに、美乃梨は確信犯的に約束を曲解していた様である。
「ふむ…」
説明を聞き終えた淳也は少し考えてから不意に席から立ち上がり、そのまま遥と美乃梨の正面に歩み寄ってくる。
「な、なんですか?」
美乃梨は遥をホールドする腕に力を込めて警戒の姿勢を見せるが、淳也はそれに構わず次にはかなり唐突な行動へと出た。
「よっとっ」
淳也はまるで仔猫でも抱き上げるかのように、遥の両脇に手を差し込んでその小さな身体を何の躊躇も無く美乃梨の腕から半ば強引に引っこ抜いてしまったのである。
「ひぁっ!?」
淳也の唐突だったその行動に遥の口からは小さく悲鳴が漏れ、そして勿論これに黙っていられなかったのが美乃梨だ。
「あー! 淳也さん何するんですか!」
美乃梨は烈火の如き勢いで抗議しながら伸ばした腕で遥を引き戻そうとするが、淳也はそれを難なく躱してニヤリと笑った。
「遥は約束に期間や回数を設定しなかったみたいだから、もう十分約束は果たされたと見なして有るべき形にもどすだけさ」
淳也はそう告げるなり、両手で持ち上げていた遥の身体をそのまま美乃梨から少し離れた左側の位置にストンと座らせる。淳也の解釈は一種の詭弁だが、美乃梨の膝で気まずさを募らせていた遥としては、敢えてそれを言及するべくもない。
「はふぅ…」
淳也にいきなり持ち上げられた事にはビックリしたものの、遥はようやく自由の身となった事にはほっとして安堵の息を吐く。
「あーん! 遥ちゃんがー!」
美乃梨の方は実に口惜しそうにして、淳也によって少し離されたその距離を詰めて再び遥を抱き寄せようとしたがしかし、何故かその動きは途中でピタリと止まってしまった。
「…ど、どうしたの?」
問い掛けながら遥は再び掴まえられまいとして若干身構えるも、美乃梨はその表情を引きつらせるばかりでそのままの体勢から動かない。
「あ…足がしびれて…」
遥の体重が幾ら軽いと言っても三十キロちょっとは有るので、それをずっと膝の上に乗せていたとなればそれも無理のない話だ。自ら望んでそうした結果であればそれに同情するべくは無く、それと同時に、これならば少なくとも再び膝に再び座らせる事は無さそうで、遥としてはようやく人心地付いた気分である。ただ、淳也が美乃梨の膝から救い出してくれた本来の目的を考えれば、安心しきるにはまだ早かった。
「んじゃ、話し戻すけど、遥の右側の席を賭けてこれから一つ勝負をしようと思う」
その時、淳也が扉付近で立ったまま状況を静観していた沙穂に一瞬だけ目配せした事に気付いた者はいない。
「面白そうだねー」
緊張感の無いのほほんとした口調でまず興味を示したのは、今まで花より団子と言った感じでカラオケに来るなりカレーを注文して、今正にそれを食べ終えた鈴村祐樹だった。
「カラオケで出来る勝負っつうと、採点機能を使った点数勝負か?」
次に興味を示した葛西智一が勝負の方法について問い掛けると、淳也はそれに頷きを見せながらも手振りでそれだけでは無い事を示す。
「採点機能は使うが、単純な実力勝負じゃ面白くないし参加し難いメンバーもいるだろ? だから、今回は点数の一桁台だけで競おうと思う!」
淳也が提示したルールは、極端な例を言えば95点と18点ならば後者の方が勝つという中々変則的な物だ。一桁台の点数を狙ってコントールする事は難しいので殆ど運任せだが、確かにこれならば得意不得意に関係なく全員が同じ土俵で勝負できる。
「淳也君、それは僕も参加しないと駄目なのかな…?」
この問い掛けは今まで鈴村祐樹と同じくカラオケや女の子そっちのけで、ひたすら食べる事に専念していた伊澤仁だ。因みに伊澤仁は自分で頼んだミックスサンドを早々に完食して、今は淳也が全員で摘まめる様にと注文していたパーティープレートを一人で全部平らげてしまいそうな勢いだった。丁度昼時なのでお腹が空いていたというのもあるだろうが、依然としてこの場に居辛い立場である伊澤仁の場合、その行動はどちらかと言えば現実逃避に近いだろう。
「できればジンさんも参加して欲しいんですけど…そうだなぁ…」
伊澤仁が渋っている事を認めた淳也は少し考えてから、傍に歩み寄ってその耳元でそっと何かを耳打ちした。
「あー…うん、そう言う事なら僕も参加するよ」
淳也が一体何を囁いたか定かでは無いが、伊澤仁の了承を得るに値する物だった事だけは確かだ。
「ところで俺達は良いけどさ、賞品が遥ちゃんの隣ってだけじゃ、女の子達はあんまり美味しくないんじゃないか?」
葛西智一が口にしたその疑問は尤もな物で、特に遥自身と既にその隣を片側だけとは言え占有している美乃梨にとっては間違いなく何のメリットもない。
「そうですよ! だからこんな勝負止めにしましょう!」
美乃梨は未だしびれたままの足をさすりながら再び抗議の声を上げるが、周到な淳也はやはりこれを黙らせる準備を怠ってはいなかった。
「大丈夫、もちろん女の子達には別に賞品を用意してるから」
そう言いながら淳也が今回ボディバックから取り出した物は、鮮やかな青地に金の地球儀が描かれた一枚のプラスチック製カードである。
「何それ…? プリカか何か?」
遥が眉を潜めながら適当に思い付いたことを問い掛けると、淳也はスッと立てた人差し指を左右に振って自信ありげの笑顔を見せた。
「このロゴでわかんねぇか? こいつはミリオンワールドの年間フリーパスだよ!」
賞品が何で有るのかを淳也が胸を張って堂々と言い放てば、鈴村祐樹が「すごーい」と全く凄そうではない感嘆の声を上げてパチパチと拍手をする。その気が抜けそうな反応はともかくとして、実際にそれは合コンの余興として賭けるには些か不釣り合いな程豪華な賞品だった。
ミリオンワールドとは要するに遊園地の類なのだが、ハリウッドの大手映画会社が主催する超有名大型テーマパークと言えばそれがどんな物かは何となく想像が付くだろう。この手の施設は一回の入場料自体それなりにするので、その年間パスともなればかなりの物だ。
「そ、それ、もらえるんですか!?」
淳也の提示した賞品に真っ先に食いついたのは、遥でも美乃梨でも無く、意外にも楓だった。何故意外だったかと言えば、楓は基本インドアであるし、ハリウッド映画も別段好きではない筈だからだ。
「ミリオンワールドって言やぁ、アニメコラボも頻繁にやってるよなぁ!」
葛西智一のその一言で楓がアニメ好きである事を周知している面々は、何故それに食いついたのか理解して皆一様に納得だ。ただ、淳也が最もその気にさせなければならないのは楓では無く遥と美乃梨であり、肝心なその二人はと言えば、どうにも今一つ反応は微妙だった。
「…それ、勝負に参加しないボクには関係ないよね?」
遥とて勝負に参加すればその賞品を得られる可能性自体は有るのだが、その発想に至らなかったという事は詰まりミリオンワールドには余り興味が無いという事だ。
「ミリオンワールドは素晴らしい所ですけど、あたしはもう自分の年間パス持ってるんでそんな物では釣られませんよ!」
美乃梨の場合は遥と違ってミリオンワールド自体はかなり好きな様ではあったものの、むしろその所為で淳也の用意した賞品が完全に無用の長物と化している。しかし、ミリオンワールドの年間フリーパスはあくまでも女の子達という大きな括りでの用意だった様で、淳也は遥と美乃梨をこの勝負に引き込むための別な方法を準備済みだった。
「みのりんがそれ程のミリオンワールド好きだったのはちょっと予想外だったけど、安心してくれ、他にも二人が勝負に参加したくなる凄い物を用意してるぜ?」
淳也の言い様から絶対ろくでもない物だと半ば確信した遥は、安心など到底できる訳は無くただひたすらに戦々恐々である。そして、何やらポケットからスマホを取り出した淳也が次に提示して来た物は、確かにろくでもない物に違い無かったが、それは遥の予想を大きく上回る最悪と言ってもいい程の代物だった。
「はい、でました! みのりんなら絶対欲しい事間違いなし! とある筋から入手した遥の貴重なコスプレ写真です! 他ではまず手に入らない貴重なこの一枚を優勝の副賞として付けちゃいます!」
淳也はそんなとんでもない事を宣言しながら、それが確かに存在する事を知らしめる様に、美乃梨に向って一瞬だけスマホの画面をチラ見せする。遥の動体視力ではそこに一体何が映っていたのかは確認できなかったが、スマッシュされたバドミントンのシャトルを捉える時の様な鋭い眼つきでその瞬間を見逃さなかったらしい美乃梨はこれに予想以上の勢いで食いついた。
「やります!」
今まで反対していたのが何だったのかというくらいに、美乃梨は即断即決の変わり身で、淳也としては正しくしてやったりである。こうなってしまえば後は遥を説得さえしてしまえば事は全て淳也の思惑通りで、それも最早時間の問題だった。
「ちょっとまって! ボクのコスプレ写真って何それ! そんなの撮った覚え―」
その存在そのものを否定しようとした遥は、その途中でふと心当たりに気付いてハッとなる。遥は今も昔もコスプレなんて物は生まれてこの方経験した事は無いがしかし、コスプレ紛いの恰好となれば話は別だ。
「そ、それ…もしかして…」
遥がまさかという思いで恐る恐る尋ねると、淳也はかつてない程に悪い顔でニヤリと口元を歪ませた。
「賢治の奴がさぁ、間違えて送って来たんだよねぇ」
その一言で遥は淳也が持っているという写真が以前賢治の母、朱美の策略によってゴスロリ衣装を着せられた時の物である事を確信する。一体何をどう間違えればそんな事になるのか賢治に激しく問い詰めたいところだが、差し当たっての問題はそれよりも淳也がその写真を持っているという事だ。
「そんなの今直ぐ消してー!」
遥は勢いよく席から立ち上がってスマホを奪い取ろうとするも、当然淳也はやすやすとそれを許しはしない。淳也は賢治程の身長がある訳では無いが、それでも少し高い位置にスマホを掲げ上げてしまえば、一四〇に満たない遥ではそれに手が届く訳は無いのだ。
「そうだなぁ、遥が今回の勝負で俺に勝てたんなら消してやるよ」
それが意味するところはつまり、遥も自らこの勝負に参加して一曲歌って見せなければ成らないという事である。美乃梨の様に優勝の副賞としない辺り若干条件は緩いが、勿論これは淳也の優しさ等では無く、遥がこの話に乗り易い様に誘導する一種の策略だ。淳也の性格を良く知っている遥はそれに気付きながらも、恥ずかしすぎる自分のゴスロリ写真等という物を抹消する為には、敢えてそれに乗るより他なかった。
「もー! やればいいんでしょ! 絶対勝ってそんな写真この世から消し去ってやる!」
最早幼過ぎる歌声に抵抗があって歌いたくない等と悠長な事を言っていられる場合で無くなった遥は、遂に自らの意志で勝負への参戦を表明する。恥ずかしい歌声を披露する事と恥ずかしい写真が世に出回る事のどちらがよりダメージが大きいか考えれば、それは断然後者なのだ。
「竹達さん、あたしが勝った場合もカナと同じにしてくれます?」
流石に見兼ねたのか、沙穂が自身も遥と同様の条件に出来ないか進言すると、淳也は特に渋ることなくこれを快く承諾した。
「オッケー、それじゃ話が纏まった所で、遥の隣と遥のコスプレ写真、それとミリオンワールドのフリーパスを賭けた勝負を始めますか!」
またしても全員を上手く乗せる事に成功した淳也が勝負の開始を宣言すると、一同は例によって「おー!」とやる気十分の声でこれに呼応する。今までは半ば仕方なく同調姿勢を見せていた遥も、賭かっている物が物だけに今回ばかりは他の誰よりも力強くこれに同調した。
「おぉー!」
遥は柄にもなくこぶしを突き上げながら、何としてもこの勝負に勝とうという強い意志を固めていたが、そのやる気の一方で一つ見落としていた事がある。それは、いつの間にか恥ずかしいコスプレ紛いのゴスロリ写真が美乃梨のみならず、他の面々に対しても副賞として提示されていた事であった。




