1-9.出会い
検査と面談を終えた遥は自室に戻る途中、飲み物を調達するため入院病棟の共有スペースに設置された自動販売機前までやって来ていた。元々検査後に飲み物を買うつもりでいたので母が買って来たもふもふとした毛玉の様な見た目のポーチに小銭を入れ持参していた。
さて何を買おうかと遥はそのラインナップを検める。下段には缶コーヒーが数種類、中段には炭酸飲料系、上段がお茶とミネラルウォーターにスポーツドリンクという品揃えになっていた。
事故以前は缶コーヒーを比較的好んで飲んでいた遥だが、今ではコーヒーの類があまり美味しいと感じなくなっていた。賢治にその事を話したところ「味覚がお子様になったんじゃね」と冗談半分に言われたがあながち間違ってはいないのかもしれない。炭酸は元々苦手なのでそうなると後は上段の中から選ぶしかない。無難にスポーツドリンクにしようと決めポーチから小銭を取り出し自動販売機へ投入する。購入可能を示してボタンが一斉に点灯したのを認め目当てのスポーツ飲料へと腕を伸ばす。しかし車椅子に座った小さな身体の相応に短いリーチでは上段のボタンには手が届かなかった。上体をめい一杯伸ばしてみたがギリギリ届きそうでやはり届かない。車椅子から立ち上がればさすがに届くが、まだリハビリ途中で万が一もあるため一人の時には極力控えるように言われている。これは面倒だ。もうちょっと頑張ればもしかしたら届くかもと再度車椅子から伸びあがってボタンに手を伸ばすがやはり届かない物は届かなかった。缶コーヒーか炭酸で妥協するしかないかと遥が思案していると背後から声を掛けられた。
「ボタン、押してあげよっか?」
まだ若い、女性というより少女といった雰囲気の声だ。遥が掛けられた声に車椅子を回し振り向くと、シンプルな水色のパジャマにブラウンのカーディガンを羽織った中学生か高校生くらいの女の子が立っていた。長い髪と明るい笑顔が印象的な子だ。手に財布を持っているところを見ると同じく飲み物を買おうとやってきた入院患者だろう。自動販売機と悪戦苦闘している遥を見兼ねて声を掛けて来た様だ。
折角の申し出なのでここはお言葉に甘えておこうと遥が目の前に立つ女の子を上目で伺いながら「おねがいします」と言うと女の子は嬉しそうに目を輝かせ「お姉ちゃんに任せて!」と一旦遥と同じ目線まで膝を屈め良い笑顔で言うと、跳ねるように自動販売機の前に移動し「コレでいい?」とスポーツドリンクを指し示した。遥は女の子の生き生きとした様子に圧倒されながらも「大丈夫です」と首を縦に振る。女の子はそれを認め「オッケー」と語尾に星マークでもついていそうな上機嫌ぶりで自動販売機のボタンを押してくれた。
自動販売機がゴトッと音を立てスポーツドリンクが取り出し口に落ちてくると遥がそれを回収しようと手を伸ばすより早く女の子の手がスポーツドリンクを攫っていった。
「はい、どうぞ」
女の子からスポーツドリンクを手渡たされた遥は女の子の元気が有り余っている様子に、これで本当に入院患者なのかと若干戸惑いつつも「ありがとう」と素直に礼を述べる。
飲み物を手渡してからも尚女の子が良い笑顔で見てくるので遥はさらに戸惑った。病院内では見ず知らずの人から遠巻きに優しげな視線を向けられる事の多い遥だが、初対面の相手にここまで正面きって良い笑顔を向けられると流石にどう対応したらいい物か分からない。何か言った方がいいのだろうかと遥は頭を悩ませる。そんな遥を他所に何がそんなに楽しいのか女の子は満面の笑顔で身を乗り出してきた。
「ね。あたし花房美乃梨って言うの。あなたは?」
唐突な自己紹介に遥はますます戸惑う。「奏遥…です」と一応名乗り返しはしたが、歳の近い女の子からここまで積極的にコミュニケーションを求められた事が無い為ただただ困惑するばかりだ。
「はるかちゃんかぁ。可愛い名前だね」
遥の名乗りに美乃梨は目を輝かせる。一方の遥は自分の名前を可愛いと言われてやや複雑な心境だ。確かに女性名としても通用する名前ではあるが元々男として付けられた名前だ。それを可愛い名前と評されても素直に喜べはしない。かと言って自分は元々男だからそんな事言われても嬉しくない等と初対面の相手に言えばそれはまたそれで面倒を招きそうで、何となく曖昧にぎこちなく笑い返すしかなかった。
「はるかちゃん、良かったらあたしと少しお喋りしない? 話し相手がいなくて退屈してたの」
美乃梨はそう言うと遥の了承を待たず車椅子の後ろに回って共有スペースのソファーまで遥を運んで行く。もうすっかり美乃梨のペースだ。抗う間のなかった遥だが時間を持て余しているのは同様だったため、まあいいかと少しこの女の子と話をしてみるのも悪くない様に思った。
美乃梨はソファーの前に遥の車椅子を停め、自分はその正面に腰を下ろしたが直ぐ様立ち上がって「飲み物買うんだった。ちょっと待ってて」と忙しなく自動販売機まで駆けてゆくと炭酸飲料を手にまた忙しなく戻ってきた。改めて遥の正面に腰掛け炭酸飲料を一口飲むとようやく落ち着いてまた遥を良い笑顔で見やる。
「あたし先週くらいから入院してるんだけど、あ、二週間くらい安静にしてれば勝手に治る大したことない病気なんだけどね? 何せじっとしてらんない性格で、親もそれ知ってるから問答無用で入院させられちゃったんだよね。そしたらもう入院ってすっごい退屈で!」
一息ついたと思ったら美乃梨は一気にまくしたてるように喋り始めた。そんな美乃梨の様子になるほど親御さんの判断は正しい、と遥は頷かざるを得ない。喋りながらも一時として静止していない美乃梨に圧倒されながらも周りにはいないタイプだなと遥は新鮮さを覚える。
「何て言う病気なの?」
遥は特に気になったという訳でも無いが美乃梨を一方的に喋らせておくと延々と向こうのペースで進んでしまうだろう事が容易に想像できたので話の間隙に差し障りのない質問を挟んでみた。本人が大した事ない病気と言っているので問題のない話題だろう。
「えっとね、あれだよ。えーっと…。あれ? 何だろう…?」
遥の問いかけに美乃梨は人差し指を立てて自信満々の様子で答えようとしたが度忘れしてしまったのか、はたまた最初から覚えていなかったのか首を傾げ始める。しばし首を捻って「うーん」と考えていたが思い出したのかパッと瞳を輝かせる。
「ほら、あれだよ。A型とかB型かあるやつだよ!」
思い出したのは断片的な情報でしかなかった様だ。遥は大雑把過ぎる美乃梨の答えに頭を抱えそうになる。今までの十五年間特に大きな病気を患う事なく健康に暮らしてきたので病気には詳しくないが以前TVかなにかで耳にした事のある単語に思い当たった。
「もしかして、肝炎?」
あまり自信は無かったが遥の回答は正解だった様で美乃梨はまた瞳を輝かせ「それだ!」と感嘆する。
「はるかちゃん良く知ってるね。あたしのは急性肝炎って言うんだって。あ、そういえばはるかちゃんって血液型何型?」
A型B型という単語から連想したのだろうが急ハンドルを切った話題の流れに、もうこの子から会話の主導権を握るのは無理だなと遥は悟る。「O型」と一応質問には答えつつ、あとはもう好きに喋らせようと決めた。美乃梨は遥の両手を握ってもう常に輝きっぱなしの瞳を一層煌めかせる。
「はるかちゃんO型なんだ。あたしB型なの。相性ばっちりだよ!」
美乃梨は握った遥の両手を上下に振って実に嬉しそうだ。遥は一体なんの相性なんだと疑問を持たなくもなかったが深く追求はしなかった。
「それにしてもほんっと入院って退屈だよね。入院した直後はしんどくってそれどころじゃなかったんだけど、良くなってくるともうやる事なくて」
遥の両手をぶんぶん振っていた美乃梨はうんざりとした様子で言う。脈絡無視の美乃梨の会話能力には疑問を感じるが、入院生活が暇だというその意見には遥も同意せざるを得ない。時間を持て余した結果色々考え込みネガティブのどん底に陥っていた事を思い返すと少し恥ずかしい。
「ちょっと前までは同じくらいの歳の男の子がいたんだけどねー」
何気なくそう漏らした美乃梨に遥も何気なく「その子退院したの?」と尋ねるとこれまで見せていた生き生きとした様子から一転して美乃梨は少し困ったような表情を見せた。
「んーとね、遠いとこに行っちゃったみたい」
そう言って見せた笑顔は遥に向けていた良い笑顔とは違う、少し寂し気な笑顔だった。美乃梨の比喩的な言い回しは目の前の小さな女の子に対して気を使ったものだったが、その目の前の小さな女の子は見た目通りの年齢ではない。遥にその言葉の意味する処を理解できないはずはなかった。そして今まで自分の事ばかりに必死であまり意識してこなかった事柄に直面し青ざめる。入院患者全てが健康になって帰れるわけではないのだ。思わず遥は項垂れ小さく「ごめん…」と自分の迂闊さに対する後悔の念を表した。そんな遥の様子に逆に慌てたのが美乃梨だ。
「わっ! あたしの方こそごめんね。えっとその子とは、結局喋る機会がなくって、別に親しくなかったっていうか、いやいや、そういう事じゃないよね。ともかくはるかちゃんが気にする事じゃないよ!」
美乃梨としてはてっきり「遠い所って?」みたいな無邪気な子供らしい反応が返ってくるものと思っていただけに目の前の小さな女の子が見せた大人っぽい反応に驚きを隠せない。同時に賢い子だ。と思いながら一つの可能性に直面する。美乃梨は性格上それを聞かずにはいられなかった。
「はるかちゃんは…どれくらい入院してるのかな?」
美乃梨は恐る恐る尋たが、遥は自分の迂闊さに対する後悔の念に頭を取られていたせいでその様子に気付かず半ば上の空で「三年くらい?」と有りのままを答えてしまっていた。
「はるかちゃん…!」
突然目の前にいた美乃梨が遥の身体に覆いかぶさった。始め感情のままきつく抱きしめられた腕は次第に優しく包み込むような加減になり、遥のちょっと癖のあるやわらかい髪を後ろからまわした手で慈しむ様に触れた。
今度は遥が慌てる番だ。美乃梨の突然の抱擁に意味が分からず女の子に抱き着かれてただどぎまぎとしてしまう。なんとか平静を保とうと一体何が彼女をこんな奇行に走らせたのか一連のやり取りを必死になって思い返す。美乃梨が突然抱き着いてきたのは、確か自分の入院期間を聞かれそれに答えた直後だ。自分は何と答えた? 確か三年くらい。そう答えたはずだ。どこかおかしかっただろうか。意識がなかったので実感の沸かない年月ではあったが嘘は言っていないはずだ。気づいたら病院で三年経っていて十歳前後の幼女の身体だった。とそこまで考えてようやく遥は美乃梨がとんでもない思い違いをしている事に気付いた。小さな女の子が三年間も入院していると言われれば大抵の人は同じような想像をしたはずだと。またしても迂闊な事を言ったと自分が情けなくなる。
「あ、あの、もうすぐ退院できるって、さっき先生が」
遥は誤解を解こうと慌てて弁明を測る。美乃梨はおそらく遥を助かる見込みの薄い重篤な病を患った子と認識し憐憫の感情からこのような行動に至ったのだろう。
「だから、あの、ボクもう元気だし、大丈夫だから!」
遥の必死の弁明が認められたのか美乃梨はゆっくりと体を放す。それに遥がほっとしたのも束の間、今度は両の手で遥の頬に触れ顔をすっと近づけ真剣な面持ちで「ほんと?」と尋ねてくる。美乃梨は賢いこの子なら相手を気遣った嘘を言うかもしれないと遥の言葉を直ぐには鵜呑みにしなかったのだ。美乃梨の眼前に迫った顔に遥はまたも大慌てである。未だかつてこれほど間近で女の子の顔を見た事はない。顔の表面温度がみるみる上昇してゆく。顔を背けたくとも両手で頬を挟まれているためそれもできない。とにかくこの状況を抜け出すには美乃梨を納得させるしかなかった。
「ほ、ほんと、本当だから。それにボク病気とかじゃなくて、大怪我で、それでリハビリに時間が掛かってて…諏訪先生に確かめてくれていいから!」
かなりしどろもどろだったがその言葉は美乃梨に届いたようで、美乃梨はしばらくじっと遥の瞳を見つめていたが、「そっか」とひとつ頷いて遥の頬から両手を放し近づけていた顔を引っ込めると満面の笑顔を見せた。これで今度こそ一安心と思った遥だったが次の瞬間美乃梨は「よかったぁ!」と再び力いっぱい遥を抱きしめた。
「あたしてっきりはるかちゃんが重い病気なんだと。ほんとによかったぁ!」
そう思いの丈をぶつけてくる美乃梨に抗う余力は最早遥にはなかった。