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3-41.予期せぬ状況

 賢治と壮絶な喧嘩を繰り広げた翌朝、最後の話し合いを待たずにあっさりと睡魔の餌食になってしまった遥は、紬家の和室に敷かれた布団の上で目を覚ました。

「ふぁ~…」

 上体だけ起き上がって一度大きく伸びをした遥は、寝ぼけているせいもあって、目覚めた場所が普段寝起きしている自室では無い事を不思議に思って小首を傾げさせる。

「あれ? ここ…」

 そこが紬家にある和室である事は考えるまでもなく理解できた遥だったが、何故そんな所で寝ていたのかについては良く分からなかった。

「えっとぉ…」

 遥は寝ぼけ眼を擦りながら、状況を確認しようと記憶の糸を辿ってゆく。遥が覚えている最後の場面は、賢治を呼びに行った朱美の戻りをリビングで一人待っていた所だ。そこで記憶がぷっつりと途切れて今に至っている為、遥は結局自分が睡魔に抗えず眠ってしまったのだという所までは取りあえず理解できた。自宅の自室では無く賢治の家にある和室で目覚めたのもそのせいなのは間違いないがしかし、遥は新たな疑問を覚えて再び小首を傾げさせる。

「なんで和室…?」

 紬家に泊まる際は賢治の部屋と相場が決まっていたので、和室に寝かされていた理由が遥には判然としなかったのだ。その事は、賢治と同じ部屋に寝かせて何か本当に間違いが有ってはならないと判断した児玉による処置だったのだが、遥はそこまで深刻に捉えられているとは思いもしていなかったので、これに関してはいくら考えても分かる筈はない。

「きっと、喧嘩しちゃったから気を使ってくれたんだな…」

 児玉がした配慮の意味を理解できなかった遥は、一人で見当違いの納得をすると、取りあえずの状況確認も済んだ為、活動を開始するべく布団から立ち上がる。昨日決着を付けられなかった賢治との話し合いが今日のメインイベントになるであろう事は言うまでもないが、その前にまずは一旦自宅へと戻って身支度を済ませる必要があった。

 元々賢治の家に泊まる予定では無かった遥は、当然着替えを用意して来てはいないし、夕食後すぐこちらへ来た為、昨晩はお風呂にも入っていないのだ。

「…さて…と」

 遥は一先ず朱美や児玉に挨拶してから自宅へと戻ろうと考え、和室の対面あるリビングへと向かうべく入口の襖にと手を掛ける。がしかし、遥はそこで自分が今、昨日着ていた制服では無く、ゆったりとした男物のワイシャツ一枚だけという出で立ちである事に気が付いた。幸いワイシャツが大きい為、着丈的に下着が見える様な事は無いが、そうだとしても中々にだらしのない格好だ。

 おそらくここへ寝かされた際、朱美あたりがパジャマの代わりにと着替えさせてくれたのだろう。制服のまま寝てしまっていたらスカートが皺になっていただろうし、寝心地も決して良い物では無かった筈なので、それに関しては有難い話ではある。

「…うーん」

 遥はこれをどうすべきかと、少しばかり考え込んでは見たものの、結論を出すのにはそれ程時間を要しなかった。

「まぁ、いっか…」

 人前へ出るには些かだらしない格好なのは確かだが、見られる相手は朱美や児玉、それに賢治くらいのものだ。遥は昔からTシャツに短パンといった部屋着以外の何物でもない恰好で賢治の家に出入りしてるので今更と言えば今更であった。何より実際問題、部屋のどこを見渡しても元々着ていた制服は見当たらず、他に着替えられる物もない以上、遥には元より考える余地等ありはしなかったのだ。

「よしっ…」

 遥は現在の服装については早々に諦め、それに関してはもう気にしない事として、今度こそ行動を開始する。遥が寝かされていた和室を抜けて廊下へと出れば、その正面がすぐにリビングだ。小さな遥の短い足でも、そこへ辿り着くのは物の数歩で事足りる。

「おはようございますー」

 遥が挨拶を送りながらリビングの扉を開けて室内へと入っていくと、向かって右手のダイニングテーブルで新聞を読んでいた児玉がすぐに気が付いた。

「おぅ、ハルちゃんおはよう」

 相手が遥だからなのかもしれないが、今朝の児玉は比較的機嫌が良さそうで、昨晩賢治に見せていた鬼の形相とはまるで別人の様である。

「あらぁ、ハルちゃんおはよぉ」

 児玉に続いてダイニングの奥にあるキッチンの方から顔を出して来た朱美は、実にのほほんとした笑顔で、こちらは普段通り相変わらずだった。

 壁に掛けられた時計に目をやれば午前八時を回ろうかと言う所だったが、リビングに居るのは朱美と児玉だけで、どうやら賢治はまだ自室で寝ている様である。

「朱美おばさん、ボクの制服は?」

 制服を回収してから帰宅しようと考えた遥が和室には見当たらなかったその所在を問い掛けると、これに対して朱美は頬に指をあてがいながら少々予想外の事を口にした。

「あら、ハルちゃんの制服ならお洗濯しちゃったわよ?」

 その意外な返答に遥はきょとんとして、これには思わず困惑である。

「へっ…?」

 意味が解らずに遥が間の抜けた声を上げると、朱美は相変わらずお気楽な笑顔でパタパタと手の平を泳がせた。

「だいじょうぶよー、ケンちゃんの制服だっていつも家で洗ってたのよぉ」

 朱美はのほほんとした様子で、それくらい手慣れた物である事を告げて来たが、遥からすればそう言う問題ではない。朱美が制服を洗濯してしまったという事は、今直ぐそれを回収する事が不可能という事だ。

「えっと…、じゃあボク、家でシャワー浴びて着替えたりしてきます…」

 制服についてはもう取りあえずこの場では諦めるしかなく、遥は仕方なくそのままリビングを出て行こうとしたがしかし、これに異を唱えたのが児玉だった。

「ハルちゃんはもう女の子なんだ、そんな恰好で外にでちゃいかん」

 言わんとする事は確かに尤もで、遥もそれを理解できなくは無いものの、実際はそんな事を言われても、朱美が洗濯してしまった制服以外の着替えを持ってきていいないのでどうしようもない。

「でも…すぐそこだし…」

 なにせ自宅は歩いて一分も掛からない目と鼻の先だ。遥はそれくらいならば問題なかろうとその事を申告してみたが、それでも児玉はこれを良しとはしなかった。

「そういう問題じゃぁない」

 一度言い出すと容易に意見を曲げない辺りは、間違いなく賢治の父親である。こうなった児玉を説得するのが殆ど不可能である事を知っている遥は少々困ってしまったが、そこへ朱美がニコニコとしながら大きめの紙袋を一つ差し出して来た。

「ハルちゃん、着替えならあるわよぉ」

 その一言で朱美が何故制服を洗濯してしまったのかを瞬時に理解した遥は、まんまとしてやられた事を悟ってその表情を引きつらせる。差し出された紙袋に入っている物は、おそらく例の「親戚のおさがり」と称される、朱美が遥に着せたい服と見て間違いが無いだろう。

「で、でも…ボク、下着も替えたいから…やっぱり家で…」

 遥はそれらしい理由を見繕ってやんわり断ろうとしたが、朱美は実に良い笑顔でそれをあっさりと一蹴してしまった。

「だいじょうぶよー、下着もちゃんとあるから」

 何ともご丁寧な事に、朱美は下着まで用意してくれている様で、こうなってしまうと遥も最早これを拒めるだけの正当な理由が見当たらない。

「あっ…はい…」

 観念した遥が渋々ながらも着替えの入った紙袋を受け取ると、朱美は満足げに微笑んで一つ頷きを見せる。

「ハルちゃん、お風呂沸かしてあるから入ってらっしゃい」

 まるでそうなるのが既定路線だったかの様な朱美の周到さに、遥は小さく溜息を洩らしながらも素直にこれを受け入れた。

「それじゃあ…お風呂、お借りします…」

 朱美の手の内である事は全く喜べない遥であったが、着替えとお風呂に関しては元々予定していた事だ。自宅に戻る手間が省けたのだと前向きに考えることにして、遥は朱美に勧められるまま大人しく浴室へと向かって行った。


「ハルちゃん、バスタオルここにおいておくわねー」

 脱衣所の方から朱美がそう声を掛けて来たのは、遥がお風呂に入ってからニ十分程経ってからの事だった。

「はぁーい」

 遥は脱衣所の朱美に向って返事を返すと、今まで浸かっていた浴槽からゆっくりと立ち上がる。遥はそろそろお風呂から上がろうと思っていた所だったので、朱美の段取りはまるで見計らったかのようなタイミングであった。実際に朱美は、遥がどれくらい入浴に時間を掛けるのか、それを経験則で知っていたのだろう。この辺りは流石、家族同然の付き合いをしてきた幼馴染の母親といった所だ。

「っしょ…」

 浴槽から出た遥は、洗い場で全身の水分を軽く拭き取ると、既に脱衣所から朱美が立ち去っている事を認めて浴室の扉を開け放つ。遥はそのまま脱衣所へと足を踏み出したが、正にその時だ。先程朱美が閉めて行った脱衣所の扉が、何の前触れなく無造作に開かれた。

「あっ…」

 遥は一瞬、朱美が戻って来たのかと思ったがしかし、そうではない。扉をくぐってのっそりと姿を現したのは、スウェット姿で頭に寝ぐせを付けた、たった今起きたばかりと言った様相の賢治に他ならなかった。

「賢治…」

 遥が名を呼ぶと、入口から真っ直ぐ洗面台へ向かおうとしていた賢治は、まるでリモコンの停止ボタンを押したかのようにその場でピタリと動きを止めた。

「は…?」

 賢治は短く声を上げてから、まるで油の切れたブリキのおもちゃの様なぎこちない動きで首だけ向き直って来る。その視線の先にある物は、当然の事ながら入浴を終えた直後で、未だ一糸纏わぬ姿でいる遥以外に無い。

「なっ…!」

 賢治はそれまで半開きだった相貌をカッと見開いたかと思うと、再びその場で完全に停止してしまった。

「えっ…と…」

 遥は機能不全に陥っている賢治を眺めながら、この予期せぬ状況に一体どう反応したらいいのだろうかと少々困惑する。悲鳴でも上げればよかったのかもしれないが、如何せん遥はそこまで女の子としての自意識が発達してはいなかった。

 例えば、昨晩の様に男の子時代では経験し得なかった直接的な刺激を伴う事柄ならば、遥もまだ恥ずかしがりようがあっただろう。だがしかし、今はただ素っ裸で賢治の前に居るというだけの事だ。過去を遡れば、それこそ一緒に銭湯や温泉に行って、互いに一糸まとわぬ裸の付き合いをした事も一度や二度では無い。勿論それは遥が男の子だった頃の話で、女の子になってからはその限りでは無いが、何れにしてもただ裸を見られているというだけでは、今更大袈裟に恥ずかしがってみせるのも中々に難しい事である。

「あの…おはよう…?」

 結局、色々と考えたあげく反応に困った遥は、一先ず朝の挨拶をしてみるという、少しばかり間の抜けた対応をする事しかできなかった。

「…お、おうっ」

 賢治は遥の挨拶に半ば条件反射的に返事をして来たものの、動きそのものは相変わらずの一時停止状態だ。そんな賢治の様子に、遥はまた少々困ってしまって小首を傾げさせる。理屈や常識的な観点では、遥も女の子である自分の裸を男に見られる事は好ましくないと分かってはいるのだが、そうは言ってもやはり相手は賢治なのだ。更に言えば、幼女の身体は女性らしい起伏とは一切無縁で、遥は常日頃からそこには何のセクシャリティも見いだせずにいる。これではやはり、遥が恥ずかしがって見せる事等はどだい無理な話だ。

「まぁ…うん…」

 遥は何となく自分で一抹の虚しさを覚えながら、最終的には「気にしない」という結論に達して、フリーズしてしまっている賢治を尻目に、本来すべき事をする事にした。お風呂から上がってすべきことと言えば、濡れている身体を拭いて服を着る事以外に無い。

 遥が身支度を整えるべく脱衣所をざっと見渡すと、先程朱美が用意してくれたバスタオルは今賢治が立っている場所より奥にある様だった。

「賢治、ちょっとごめんね」

 遥は完全に硬直している賢治をやんわりと押し退け、バスタオルを手にすべくその横をすり抜けてゆく。あられもない姿の遥が直ぐ間近に迫った為か、ここでようやく賢治はその動きを取り戻した。

「おわっ! す、すまんっ!」

 いくら遥が本人の自覚している通り女性未満の幼女だからといって、完全に異性として意識してしまっている賢治からすればそんな事は関係がない。俄かに我を取り戻した賢治は一言謝罪の言葉を残すと、勢いよく扉を閉ざし、逃げるようにして脱衣所を飛び出していった。

「…別に…、良いけどね?」

 その余りの慌てぶりに遥はきょとんとしながらも、これには思わず苦笑である。ただ、賢治が思いの他良い反応をした為、どうせならばもっと女の子らしく恥ずかしがって見せればより効果的だったかもしれないと、少しばかりこれを後悔しないでも無かった。

 昨日大喧嘩したとはいえ、賢治に対する遥の恋心は未だに健在で、自分を女の子として意識してもらいたいと言うその気持ちも依然として変わってはいないのだ。

「まぁ…いいや…服着よ…」

 一先ず過ぎ去ってしまった事はもう仕方が無いので、その事については今後に生かす事として、遥はその後何事も無かった様に身支度を再開させた。

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