3-39.誤解と弁解
頭に血が上った末の衝動的な行動だったとはいえ、賢治の目的はあくまでも遥の短いスカートを改めさせることだった。遥をベッドの上に押し倒し両腕の自由を奪ったのも、その目的を確実に果たす為で、一方の膝が内腿の間に割り込んでしまっていた事に関しては本当にただのアクシデントだ。ただ、賢治自身が感じた様に、やはりその態勢はどう考えたっていかがわしい目的で遥を襲っている図でしかなかった。そしてそれは、第三者の視点からすればより一層疑う余地がない程に確定的だ。
「賢治…お前…」
その声が発せられたのは、扉が開け放たれたままだった部屋の入口の方からだった。
「っ…!?」
声に反応してビクッと身を震わせた賢治は、全身から血の気が引いて行くのを感じながら恐る恐る後方へと振り返る。遥からは見えなかったが、賢治はこの時この世の終わりにでも出くわしたかのような絶望的な表情をしていた。
「ま、待ってくれ! これは…その…違うんだよ!」
賢治は慌てて弁解の言葉を取り繕ったものの時既に遅い。
「お前は一体何をしとるんじゃあぁ!」
突如の野太い怒声が重低音で室内に鳴り響き、それと同時に賢治の身体は豪快に宙を舞っていた。
「ぬぁっ!」
賢治がいくら運動神経に秀でた物があるとはいえ、万有引力には抗い様がない。出来た事と言えば、せいぜい衝撃に備えて身を固くする事くらいのものだ。
「っがふっ…!」
結果、重力に逆らえなかった賢治の身体はあえなく部屋の壁面にと激突し、肺から押し出された空気と共に堪らず苦悶の声が漏れ出る。時間にすれば、ほんの三秒にも満たないあっという間の出来事であった。
「…え?…えっ?」
遥の視点からは大迫力の怒声と共に、賢治の身体が突然後ろに吹き飛んだようなもので、余りにも唐突だったその出来事に涙も引っ込んで唯々唖然だ。
「あっ…えっ…と…?」
遥は酷く困惑しながらも解放された身体を起こして、一先ずの状況確認をしようと試みる。ただ、周囲を見渡すまでもなく、遥には何となくだが事成り行きが理解できた。起き上がってまず視界に飛び込んできたのが、非常に見覚えのある特徴的な大きな背中だったからだ。
その背中は、筋骨隆々という表現が正しくピッタリな、極めて大きくて分厚い屈強な背中で、今し方賢治を吹き飛ばしたのも、この背中だと見てまず間違いが無い。屈強な体格を有する人物と言えば、兄の辰巳やクラスメイトの須藤隆史などが居るが、遥にはその二人以外にもう一人心当たりがあった。その人物は、未だ海外ボランティアから戻ってきていない兄や、特に親しくもないクラスメイトなんかよりも、よっぽどこの場に居る事が当たり前の人間だ。
「児玉おじさん…?」
遥が心当たりの名を口にすると、分厚い背中がくるりと反転して、それ以上に厚みのある胸板と共に、思った通りの顔が向き直ってきた。猛禽類を思わせる精悍なその顔付きから受ける印象は、現在壁に激突して目を回している賢治と非常に良く似ている。賢治が後二十年程歳を重ねて渋みを兼ね備えればこんな感じになるだろうといった雰囲気だ。それもその筈、遥が「児玉おじさん」と呼んだこの偉丈夫は、何を隠そう賢治に血を分け与えた実の父親である。
「ハルちゃん、大丈夫かい?」
賢治の父、児玉は壁に激突して苦悶している息子を差し置き、遥の方を案じて先程の怒声とは打って変わって実に優し気な声色で問い掛けて来きた。
「あっ…えっと…だいじょぶ…です」
戸惑いながらも自分は何とも無い事を答えた遥だったが、その解答に児玉は眉を潜めて何やら神妙な面持ちを垣間見せる。
「あー…ハルちゃん…」
児玉は実に気まずそうな顔で少しばかり視線を泳がせ、ゴツゴツとした太い人差し指である一点を指し示した。
「ハルちゃん…パンツ見えてるぞ」
その言い様にギョッとした遥が自分の下半身へと目を向ければ、トリコロールのドット柄が可愛らしい下着が児玉の言う通り完全に露な状態だ。恐らくは先程賢治が投げ飛ばされた際に、スカートがまくれあがってしまったのだろう。
「あぅ…」
遥はいそいそとスカートを整え、更には念入りになって裾をぎゅっと抑え込む。遥は普段なら下着を見られるくらいどうという事は無いのだが、ついさっきまでそこに賢治の膝が触れていた事を思えば、今は顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。
「うむ、ハルちゃんはもう女の子なんだから、そういうのは気ぃつけないとな」
スカートを直した遥を認めた児玉は満足げに頷くと、再び反転して賢治の方へと向き直る。壁に激突した衝撃から賢治が立ち直ったのも、それとほぼ同時の事だった。
「何すんだよ親父!」
壁際からヨロヨロと立ち上がった賢治が抗議の声を上げると、児玉はこれに対して眉を吊り上げて鬼の様な形相になる。
「それはこっちの台詞だ! お前は獣か! 母さんからハルちゃんが来てるって聞いて顔見に来てみれば! お前は一体何をしとるんだ! いくらハルちゃんが可愛いからって、無理やりするやつがあるか!」
どの辺りから見ていたのか定かではないが、やはり児玉は完全に賢治がいかがわしい目的で遥を襲っていたと認識している様だった。声を掛けられた時の態勢がアレだったので無理もない話だがしかし、だからと言って賢治は当然これに反論しない訳には行かない。
「あれはハルのスカートを―ってぇ!」
賢治が弁解の言葉を言い終わるよりも早く、児玉の拳骨が問答無用でその頭頂部にと落とされていた。児玉の人より大きな拳骨を痛烈に食らわされた賢治は、堪らず頭を押さえて悶絶だ。後ろで見ていた遥にも固い物同士がぶつかる鈍い音がハッキリと聞こえた程だったので、その衝撃たるや相当の物なのだろう。
「女の裸がみたけりゃエロ本でも見てろ! 溜まってんなら一人でマスでも掻いとけ! 大体ハルちゃんはまだ小さな子供だろうが!」
うずくまる賢治の襟首を片手でつかんで無理やり立たせた児玉は、もう一方の手で大きな握り拳を作って再度鉄拳制裁の構えだ。
「ま、まってくれ親父! そうじゃないって!」
児玉はあの場面を、賢治が遥を裸にひん剥いて性欲のはけ口にしようとしていたと解釈した様だが、当然これはとんでもない誤解である。賢治は遥を裸にするどころかスカートすらも脱がせる気などは無かったし、それ以上の行為など持っての外だ。
「俺がハルにそんな事する訳ないだろ! そこまで見失っちゃいねぇよ! なんだったらハルに聞いてみてくれ!」
賢治は何とか誤解を解こうと今一度の鉄拳を見舞われる前に、今度は早口になって一気に弁解の言葉を捲し立てる。遥の名前を出したのは容疑者である自分の主張だけでは弱いと判断したからだ。
「ふむ…」
賢治がした必死の嘆願が聞き届けられたのか、児玉は少し考えてから一旦拳を収めて遥の方へと振り返る。
「ハルちゃん、どうなんだい?」
児玉に問い掛けられた遥は、急に話の鉢が回って来た事に戦々恐々としながら、これに何と答えたら良いのか少しばかり困ってしまった。
「あっ…あの…えぇと…」
先程までは賢治の理不尽に怒り心頭だった遥だが、誤解によって親友が制裁されてしまうのは流石に見過ごす訳にもいかず、これを弁護するのも吝かでは無い。ただ、児玉は既に如何なく発揮している通り、早合点しやすい性格で、おまけに熱くなりやすい質だ。そんな児玉に上手く物事を説明するのは中々に骨が折れるし、事と場合によっては喧嘩両成敗とばかりに遥自身も制裁の対象となってしまう可能性すらある。
「あの…賢治が外そうとしてたのは、ボクのスカートを留めてたベルトなんですけど…」
遥は一先ず、これ以上の誤解を児玉に与えぬ様、ややこしそうな事の成り行きについては大幅にカットして、問題の場面にだけ焦点を当てて賢治の弁護を開始した。
「えっと…それは、ボクがスカートを短くしたから…で…」
本来ならばもっと具体的に賢治が何故そんな行動に出たのか、その動機を語るべきだったが、それに関しては正当な理由を聞かされていない遥では説明のしようも無い。せいぜい、賢治の行動と自分のスカートに因果関係がある事を示すのが遥には関の山だ。
「それで…ボクが嫌がって抵抗したから…、賢治に押し倒されて…」
慎重になる余り遥の説明はかなりたどたどしかったが、ここまでは起こった出来事をありのまま述べているに過ぎず、まだ比較的順調だったと言えよう。だがしかし、いよいよ問題の場面にと差し掛かった辺りで、その雲行きは一気に怪しくなった。
「賢治は…その…変な事をしようとして―」
していた訳では無い、と続けようとしていた遥の脳裏に、先程の物凄く恥ずかしかった彼是がつぶさになって蘇る。
「はぅぅ…」
内腿に触れられた時の悪寒や、その後の出来事は今思い返してみて悶絶しそうな程で、事実遥の顔はあっという間に耳の先まで真っ赤だった。
「あっ…ぅ…そうじゃ…なくて…賢治が…スカートの…えっと…中に…うぅ…」
大いに動揺してしまった遥は最早慎重に言葉を選んでいる余裕もなくなり、遂には再び羞恥心の限界を迎えて、赤くなった顔を両手で覆って堪らず俯いてしまう。
「うぅ…」
遥は猛烈に恥ずかしかったというだけだが、傍目から見ればその様子は、乱暴に遭った被害者少女が事件当日をフラッシュバックさせて悲嘆する姿以外の何物でもない。
「ハルちゃん、もういい…辛かったな…」
案の定勘違いしてしまった児玉は憐憫の眼差しで遥に優しい言葉を掛けると、それとは一転して鬼神の如き形相で賢治の方へと向き返った。
「やっぱりお前が無理やりハルちゃんを襲ったって話じゃねぇか!」
遥がした中途半端な説明と、顔を覆って俯いてしまったその様子からでは、児玉がそう解釈したのも仕方がない。遥の弁護は賢治の疑惑を解くどころか、結果としてはとんだ逆効果だった。
「い、いや…その…」
こうなった今、賢治は結局自分で疑惑を晴らすしかなく、真っ青な顔で表情を引きつらせながら再度の弁明を図る。
「今のはハルの言い方が悪かっただけで、本当に俺はハルを襲おうとしてた訳じゃないんだって! ただベルトを外そうとしてただけなんだよ! 信じてくれ親父!」
賢治は必死になって自らの潔白を訴えかけたがしかし、最早児玉がそれを受け入れる事は無かった。
「脱がす以外に何でベルトを外す必要がある! 訳の分からん事を言うな! 言い訳はもう沢山だ、その腐った性根を叩き直してやるから中庭に出ろ!」
児玉はそう言うなり、遥の腰回りくらいは有りそうな太い腕で賢治の首根っこを掴んで、問答無用で部屋の外へと引きずってゆく。
「痛ってぇ! ちょっ! ま、待ってくれ親父! 話を聞いてくれよ!」
平均より体格に恵まれ、一般人よりも幾分か身体能力に秀でている賢治だが、二回り以上分厚い屈強な肉体を有する児玉に掛かれば赤子同然だ。
「ハル! 助けてくれ! ハルぅぅぅ!」
父親に対して全く歯が立たない賢治は、どんどんと距離が離れていく遥に向って、助けを求めるのが精一杯だった。
「あっ…け、賢治!」
廊下の奥へと遠のいていく賢治の悲痛な呼びかけに、流石の遥も羞恥心から立ち直ってハッと我に返る。今も昔と変わっていないのであれば、この後賢治に待ち受けているのは、遥達が地獄の特訓と密かに呼びならわしている、一流アスリートも逃げ出しそうな程過酷な各種筋トレのフルコースだ。直接的な体罰で無い分一見良心的に思えるかもしれないが、体験した事のある者からすれば、まだ打たれた方がマシだと思える程には悲惨な内容である。賢治が今からそれを味わう事になる原因の一端が自分にもあるのかと思うと、遥としても大変寝覚めが悪いのでこれは捨て置けない。
「児玉おじさん、待って!」
ベッドから立ち上がった遥は、中庭へと向かって行った賢治と児玉を慌てて追いかけようとしたがしかし、廊下に出たところでは朱美がその進行方向を塞ぐようにして立ちはだかっていた。
「あっ、朱美おばさん、賢治が!」
遥が足踏みしながら廊下の奥を指差すと、朱美は実にのほほんとした笑顔で手の平をパタパタと泳がせる。
「ケンちゃんならだいじょうぶよー、たまにはいい運動だからー」
良い運動どころでは無い事を知っている遥は、早く賢治の元に駆けつけて児玉の誤解を解きたかったのだが、朱美は実に呑気な様子でその場から退こうとはしなかった。
「そんな事よりハルちゃん、おばさんとちょっとお茶しましょ?」
これから地獄を見るであろう息子を「そんな事」扱いで大変お気楽な提案をする朱美は、遥の手を掴んだかと思うと有無を言わせぬ様子で早速リビングへと向かって歩き出す。朱美は普通の主婦なので児玉の様な屈強さは当然無いが、それでも小さな幼女である遥ではこれにも抗い難い。
「で、でも賢治が!」
力では敵わないと分かりながらも、遥が賢治の元に駆け付けたい一心で少しばかり踏ん張っていると、朱美が向き直ってにっこりと微笑んだ。
「さっき佐々木さんが見えてねー、こんな時間に大声出して五月蠅いって、おばさん怒られちゃったのよねぇ」
その言い様に遥はサッと顔を青ざめさせて、思わず朱美の笑顔から目を逸らす。佐々木さんというのは紬家の真裏に住む一家で、遥が感情に任せて響かせた先の絶叫は、どうやらそちらにまでばっちりと届いていた模様だ。
「だからねー、おばさんちょっとハルちゃんとお茶したいかなーって、ね?」
そう言われてしまっては、遥としても賢治の事にばかりかかずらっている場合ではなく、朱美の言う「お茶」を断れる筈もない。
「あっ…はい…」
朱美はその返答に満足げな顔でニコニコとしながら、再び遥の手を引いてリビングへと向かって歩き出す。時計は既に午後十一時を半分ほど回った頃で、就寝前のナイトキャップティータイムには良い頃合いだったが、これから待ち受けている物はどう考えてもそんな穏やかなものではなさそうだった。




