3-34.選択
遥が写メを送るよりも少し前、その頃賢治は大学構内にあるラウンジでテーブルの上にノートパソコンと数冊の本を広げて、ゼミで扱う資料作りに勤しんでいた。
この資料作りはゼミの新参者に課せられる一種の通過儀礼の様な物で、今期から入ゼミした賢治はその慣習に倣ってこれを任され、今こうして作業に励んでいる。因みに、ゼミの研究テーマは身体リハビリテーションに関する物で、賢治がそこに所属するに至った経緯は、言うまでも無く遥の一件があったからだ。
「ふぅ…」
区切りの良い所で作業の手を一旦止めた賢治は、傍らに置いてあった缶コーヒーに口を付けて小さく息を吐く。賢治はこの手の作業を少々苦手としており、午前中から取り掛かっているにもかかわらず、資料作りは少しばかり難航気味だった。
「あと少し…」
缶コーヒーをテーブルの上に戻して一度大きく伸びをした賢治は、資料作りを再開させるべく、目の前のノートパソコンと向かい合う。作業量的には後少しどころでは無いが、その言葉はモチベーションを保つための一種の自己暗示の様な物だ。
それからは自己暗示の効果もあり、比較的集中して作業を進めてられていた賢治であったがしかし、しばらくすると資料作りは大きく行き詰まってしまった。
「うーむ…」
賢治は少し考えてから、傍らに置いてあった自分のリュックをまさぐり、そこから「運動機能回復の手掛かり」と題された一冊の本を引っ張り出す。その手垢と折れ目で随分とくたびれた様子が見て取れる本は、賢治が入ゼミする以前から持っている私物だった。
「確かこれに…」
賢治は資料作成の助けになりそうなヒントを求めてページをめくりながら、本を買った当時、即ち遥がまだ病院でリハビリに励んでいた頃の事を思い起こす。
あの頃の歩く事は愚かしゃべる事もままならない様子だった遥の痛ましい姿は、賢治にとってただ見守る事しかできなかった無力な自分を想起させる苦い記憶の象徴だった。購入して数か月しか経っていない本が随分とくたびれてしまっているのは、そんな無力な自分を何とかできない物かと、当時の賢治が足掻いた痕跡だ。
思えばあの頃の自分は、酷く惨めで情けない存在だったのではないかと、賢治はついそんな事を考えてしまう。遥はいつも「賢治が居てくれるから」とそう言ってくれていたが、賢治にしてみれば、結局は具体的に何もしてやれなかったという事実は動き様がない。本でかじった付け焼刃の知識などは、結局の所何の役にも立ちはしなかったのだ。そもそも遥には専門のリハビリ医が付いていた為、それに関して賢治の出る幕があった筈もない。
「はぁ…」
大きく溜息を付いた賢治は、ノートパソコンの横に置いてあったスマホを手に取り、そこにぶら下がっている遥とお揃いのマスコットを指先でやんわりと弾く。弾かれたマスコットはゆらゆらと揺れ、その不安定な様は賢治の複雑な心境を現している様だった。
賢治は完全に作業の手を止めて、その頭の中で遥の事を思い描く。片時も離れる事の無かった生来の親友。そして今は密かに想いを寄せる何よりも大切な掛け替えのない存在。
「ハル…」
遥は今頃どうしているのだろうか。近くに居られない自分がもどかしくてたまらない。ただでさえ近頃のぐっと女の子らしくなってきた遥は、自分からは遠い存在に変化しつつある様に思えてならないと言うのに、今はそれを傍で見守る事すらままならない。
遥を傍で支えていくと誓った在りし日の想いは、今でも色褪せず一時でも忘れた事などは無いが、それだけにその通り出来ない現状は、賢治を妙な焦りへと駆り立てもした。
出来る事ならば、今直ぐ遥の元へ行き、どこへも行ってしまわないようにと、きつく抱き締めてしまいたい。しかし、そんな事は当然叶うはずもなく、考えれば考える程、唯々虚しさが募るだけだった。
賢治は資料作りの事を一時忘れ、ひたすらに遥の事を想って一人只悶々とする。しかし、そんな賢治を、ふと視界に落ちた影が現実へと引き戻した。
「…んぁ?」
我に返った賢治は少々間抜けな声を上げながら、影の発生源を確かめるべく後方に身をよじって振り返る。
「あっ…」
見れば、そこには最近見知った顔の人物が一人、腕組みをした片方の手にスポーツドリンクのボトルをぶら下げる様に持って立っていた。
「やぁ紬君、資料作り捗ってるかしら?」
気安い様子で問い掛けて来たその人物は、賢治が所属するゼミの一つ上の先輩で、名を飯田奈津希と言う。赤いメッシュの入った長い前髪のショートカットと、モデルさながらのスラっとした長身が人目を惹く中性的な雰囲気の女性だ。
「飯田先輩…」
賢治が名を呼ぶと飯田奈津希は僅かに口元を緩ませながら、断りも無く真横の椅子へと腰を下ろす。
「下の名前で呼んでって言ったでしょ?」
飯田奈津希は非難する様な冷ややかな視線でそんな事を言いながらも、手にしていたスポーツドリンクを賢治の方へと差し出してきた。資料作りを頑張っている後輩への差し入れという事らしい。
「ありがとうございます…奈津希先輩」
賢治は持っていたスマホをテーブルへ置き、それに代わって飯田奈津希からスポーツドリンクを受け取って素直に感謝の言葉を述べる。
「よろしい」
飯田奈津希は賢治が言われた通りに下の名前で呼び直した事を満足げにしながらも、次にはどこか気だるそうな様子でテーブルの上に頬杖をついた。
「ところで紬君、交流会の話、考え直してくれないかなぁ?」
飯田奈津希は色っぽい流し目でそんな事を言ってきたがしかし、その話題に賢治は小さく溜息をついて、少しばかりうんざりとせずには居られない。
「それでしたら、前も言った通り参加するつもりはありませんよ…」
飯田奈津希の言う「交流会」とは類似する研究を行う幾つかのゼミが意見交換を目的に集まる学生主導の会合の事だ。ただし、それは外聞を繕った表向きの話であって、実態はただの飲み会、大学生的に言えばコンパというやつである。
「女の子達が、紬君を呼べって五月蠅いのよねぇ」
飯田奈津希の言い様は賢治をより一層うんざりとさせ、その溜息をそれとわかる程に深いものへと変えさせた。今し方言われた事こそ、賢治がその「交流会」に参加したくない理由その物なのだ。
大学でも相変わらず異性からのアプローチを受ける事の多い賢治は、コンパともなると普段より幾分も積極的になった女子大生達に四方八方を囲まれてしまう事を当然免れない。それを羨ましい話とするのは簡単だが、遥という意中の相手が居る賢治からすれば、その様な自体は正直に言って面倒事以外の何物でも無いのだ。
「いくら、先輩の頼みでも、俺は―」
飯田奈津希に改めてキッパリと断りの文句を告げようとした賢治であったが、それを遮る様にして先程テーブルの上に置いたスマホが耳障りな振動音を響かせた。遥が自分の艶姿を披露すべく、賢治に写メを送ったのが正にこのタイミングである。
「…ちょっとすいません」
テーブルの上で振動するスマホを手に取った賢治は、メッセージの送り主が遥である事を認めると、断りを入れて飯田奈津希との会話を中断させた。もしメッセージの送り主が他の誰かからであれば賢治はこれを無視して飯田奈津希とのやり取りを続行したであろう。しかし相手が遥ともなれば賢治の優先順位は当然そちらの方が上だ。
「写真付き? 珍しいな…」
賢治が何事だろうかと思いながらスマホを操作してゆけば、その画面に映し出されるのは当然のことながら遥の送った例の艶姿を収めた画像に他ならない。
「なっ…!」
腿の半ばあたりまで短くなった制服のスカート、それによっていつも履いているらしいニーハイソックスとの間に形成された眩いばかりの絶対領域、そして極めつけのちょっとぎこちない様子が愛らしいギャルピース。そんな破壊力満点な遥の姿を収めた画像を目の当たりにした賢治は、驚愕の声を上げると共に、その頭の中で実に複雑な感情がスパークした。
ただでさえ可憐な美少女である遥が、ミニスカート、ニーハイソックス、絶対領域という三種の神器で武装すれば、それは最早無敵に等しい存在である事は賢治の欲目を抜きにしても疑う余地は無い。だがしかし、常日頃から可愛い遥に妙な虫が付かないかと心配でたまらない賢治からしてみれば、これを手放しで喜ぶ事など到底できはしないのだ。
賢治は遥の送って来た写真を速攻で保存して、消してしまわない様にロックを掛ける念入りさを見せながらも、その心中はかなり穏やかでは無かった。
「あいつ…何考えてんだ…!」
賢治はわなわなと震える指先をスマホに向けながら、これに何と返信すべきかと思考をフル回転させる。その愛らしい姿を素直に褒めてやるべきか、それともやりすぎだと嗜めるべきか。褒めてやれば遥は喜ぶだろうが、それを増長させる事にでもなれば賢治としては堪った物ではない。逆に否定的な意見を送れば遥の気を損ねてしまう恐れがあり、これも賢治としては出来れば避けたい事柄である。二者択一だが、賢治にとってはある種究極の選択だ。
「紬君…どうしたの…?」
賢治が只ならぬ様子でスマホと睨み合っているその様は、当然ながらそれを横で見ていた飯田奈津希の興味を引いてしまっていた。そして、好奇心を刺激された飯田奈津希の行動は実に率直だ。
「あら可愛らしい…」
好奇心のまま無遠慮に横からスマホを覗き込んできた飯田奈津希は、その画面に映っていた制服姿の愛らしい美少女を目にして怪しく目を光らせる。
「ちょっ! 先輩! 勝手に覗かないでください!」
飯田奈津希の行動にぎょっとした賢治は慌ててスマホの画面を手で覆ったが、既にバッチリとみられた後で今更手遅れだった。
「紬君の妹さんかしら?」
飯田奈津希が含みのある笑みを浮かべて問い掛けてくると、賢治は冷たい汗を一筋流しながら若干のしどろもどろである。
「あっ…いや…、隣の家に住んでる幼馴染で…」
遥の事を何と説明したらいいのかと迷って、結局有りのままを述べた賢治だったが、飯田奈津希はそれを不思議そうにして少し首を傾げさせた。
「幼馴染って…その子、中学に上がりたてとかじゃないのかしら?」
飯田奈津希の抱いたその疑問は、事情を知らなければ至極尤もな物だ。飯田奈津希は制服姿から中学生としたのだろうが、遥はその容姿だけ見るとまごう事無き幼女である。仮に百歩譲って飯田奈津希の言う様に中学に上がりたてだとしても、もうじき二十歳の誕生日を迎えようかという賢治との年齢差は実に十歳近い。一般的にはそこまで年が離れているとなると、その相手を幼馴染と呼ぶのは、些か不自然で少々無理があった。
「い、いや…、ハルはこれでも高校生なんですよ…」
遥はその見た目と違って本来の年齢は同い年ではあるが、その事こそ大凡他人には説明し難い事柄だ。それに関しても説明しあぐねた賢治は、結局一先ずの事実関係だけを述べて弁解を図るしかなかった。まだ若干苦しい所だが高校生としておけば、中学一年生よりかは幼馴染と呼べる範囲に収まらなくもないだろう。
「ふぅん…」
賢治の説明に納得したのかどうかは分からないが、飯田奈津希は一先ずそれ以上幼馴染の話題については突っ込んでこなかった。賢治は何とかこの場は取り繕えた事に一旦ほっと胸を撫で下ろしたがそれも束の間のことである。飯田奈津希は唇を舌先でなまめかしくなぞって、些か恐ろしい事を口にした。
「ねぇ、ハルちゃん…だっけ? 今度大学に連れてきてよ。私可愛い子大好きなの」
飯田奈津希の蠱惑的な笑みを浮かべたその発言に、賢治は明らかに不穏当な物を感じて戦慄せずにはいられない。女性は何かにつけて可愛い物を愛でたがる生き物ではあるが、飯田奈津希のそれは明らかにそう言った物とは趣が異なっているように思えてならなかった。もしそうであるならば、それは賢治にとってかなり忌々しき事態である。
賢治は本来ならば、他人のセクシャリティに口を差し挟む様な真似はしないがしかし、事、遥が関わって来るとなれば話は全く別だ。おままごとレベルだった美乃梨ですら看過できなかったというのに、その何枚も上手そうで、あからさまに危ない雰囲気の有る飯田奈津希に遥を引き合わせる等、賢治にしてみればもっての外である。
「絶対に嫌ですよ! 勘弁してください!」
賢治が堪らず席を立って少々声を荒げると、飯田奈津希はクスクスと笑ってひらひらと手の平を泳がせた。
「冗談よ」
その発言の真偽は幾分も怪しい所ではあるが、賢治は一先ず落ち着きを取り戻して元の席へと座り直す。
「マジで勘弁してくださいよ…」
憮然とした面持ちで念を押す様に言う賢治に、飯田奈津希は引き続きクスクスと笑いながら、スッと目を細めて何やら意味ありげな表情を作った。
「その子は紬君のお姫様なのねぇ。道理で周りの女子大生には見向きもしない訳だ」
確かにそれはある意味ではその通りなのだが、それ以上の意味合いを含んだその言い方に賢治は少しばかり慌てずには居られない。流石に大学で妙な疑惑が広まるのは、賢治としても当然本意ではないのだ。
「ハルが特別で、俺は先輩が思ってる様なのじゃ―」
賢治は何とか弁明を試みようと発言しかけたがしかし、言い終わるよりも早く飯田奈津希が席を立って立ち去る素振りを見せた。
「別に言いふらしたりはしないから安心して」
そう言う問題でも無い様な気がしつつも、これ以上突っ込んで藪蛇になるとそれこそ適わない賢治は一先ずここは大人しく引き下がるしかない。
「交流会の件は気が変わったらいつでも言って頂戴ね」
それだけ言い残してそのままいよいよ立ち去って行こうとした飯田奈津希は、ふと何か思い出した様な顔になると足を止めて少々意地の悪い笑みを見せた。
「そうそう、教授からの言伝、その資料一度チェックしたいから夕方までには提出する様にって、そう言ってたわ」
どうやらそれこそが飯田奈津希がこの場にやって来た本来の要件だった様であるが、賢治にしてみれば全くもって寝耳に水である。
「それ先に言ってくださいよ!」
堪らず抗議の声を上げた賢治に、飯田奈津希は悪びれた様子も無く、それどころか少しばかり愉快そうにすらする。
「頑張ってね」
飯田奈津希はそれだけ言い残して今度こそ悠然とした足取りで立ち去ってゆき、残された賢治はといえば思わずその場で頭を抱えそうになっていた。
資料作りは丁度暗礁に乗り上げていた所で、このペースで行くと今し方言われた夕方という刻限は正直厳しいと言わざるを得ないのだ。しかし、だからと言ってそれを投げ出せる道理もない。
「やるしかねぇ…」
大きく息を吐いて気合を入れなおした賢治は、残り半分以上は有る資料作りに猛然とした勢いで取り掛かる。勿論遥から送られて来た写真の件を忘れてはいないし、大変気掛かりではあるのだが、こうなった今それについては一旦先送りにする以外なかった。そもそも、まだ何と返信すべきかがまとまっていないのだ。当然今の賢治にその事をじっくりと考えていられる様な余裕は、時間的にもリソース的にも有りはしない。今の賢治に出来た事は、遥からのメッセージをその頭の片隅に置きながらも、ひたすら資料作りに全力を傾ける、ただそれだけだった。




