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1-8.肉体と精神

 賢治と再会を果たしてから一週間程が経過したある朝、遥が睡眠から抜け出しベッドの上でぼんやりしていると「遥ちゃーん」という猫撫で声と共に病室の戸が開き若い女性看護師が姿を現した。普段遥の担当看護師は権藤さんという恰幅の良い中年女性なのだが、権藤さんが休みの日にはこの若い女性看護師が代わりを務める事になっていた。確か樹下という名前だったはずだ。起き抜けでまだぼんやりとしていた遥の気分が若干重たくなる。遥はこの看護師が少し苦手だった。

「遥ちゃん、もう起きてるかなぁ?」

 樹下看護師が小さな子に接する様な優しい口調とにこやかな笑顔でベッドまで近づいてくる。遥がこの看護師を苦手としている理由がこれだ。遥の身体の事情を知らされていないのか、それとも知った上でなのかは分からないが、樹下看護師は遥に対し外見年齢基準の接し方をするので、精神年齢は十五歳男子の遥にとって非常にやりにくい相手なのだ。

「あら? 遥ちゃん今日はご機嫌斜め?」

 ベッドの上の遥を覗き込んで樹下看護師がそんな事を言う。まだ寝起きでうまく意思統一できていなかったのか苦手意識が表情に漏れていた様だ。樹下看護師にはその表情が不機嫌そうな物に映ったらしい。

「どうしたのかなぁ? まだ眠いのかなぁ?」

 尚も小さな子に接する用のにこやかな表情で対応してくる樹下看護師が、不意に何か思い付いた様に胸前で手を合わせそれまで以上に優し気な顔を見せた。

「もしかして今日は大好きなお兄ちゃん来ない日なのかな?」

 そんな意味の分からない事を言うと「そっかそっかぁ」と一人納得した様だが、言われた当の遥は完全に置いてけぼりだ。兄の辰巳は未だ見舞いには訪れていないし、兄の事を嫌いではいが「大好きなお兄ちゃん」等と形容した事は一度もないので、誰か他の子と勘違いしているのでは無かろうかと訝しむ。そんな遥を他所に樹下看護師は微笑ましそうに「次はいつ来てくれるのかな、早く来てくれるといいね」と見当外れを続けるので遥には益々意味が分からない。

 実は樹下看護師の言うこの「大好きなお兄ちゃん」というのは賢治の事だった。あの日二人が別れ際に演じた一幕はその舞台がロビー玄関前だった事も有り、かなり多くの人に目撃されている。ただ二人の関係性を正しく知る者がいなかっために、大好きなイケメンお兄ちゃんと離れたくない一心で不自由な身体を克服しようとする愛らしい妹。概ねそんな風に捉えられておりその様に伝聞されていた。その為元より愛らしい外観から院内では仔犬仔猫を見る様なほほえましい目を向けられる事の多かった遥だが、最近はそれに輪をかけ優しげな雰囲気と妙な熱視線までもが加わっていた。完全に賢治との一件が原因だが知らぬのは本人達だけである。他にもあの日を境にリハビリにより一層力の入った遥に対し周囲が密かに「イケメン効果凄い」と実しやかに囁いていたのもまた遥の与り知らぬ所である。

「それじゃあ遥ちゃん、検査に行きましょうか」

 樹下看護師のその言葉にそれまで疑問符を増やすばかりだった遥は今日が定期検査の日だった事を思い出す。遥には週に一度、新造された肉体やその肉体に移された脳に異常がないか詳細に検査する日が設けられていた。遥の良く知らない大掛かりな検査機器に幾つか乗せられ事細かに数値を取って異常がないかを調べるのだ。病室を訪れた樹下看護師はその迎えだった。

 遥は検査へ赴くため車椅子に移ろうとベッド脇に両足を下す。今までは上半身の力と体重移動を使って車椅子に乗り移っていたが、賢治との一件を切っ掛けにベッドから車椅子に移動する程度ならその両足でこなせる様になっていた。遥がその成果を披露しようとベッドから立ち上がり掛けたその時、突如樹下看護師の身体が眼前に迫った。遥がぎょっとして動きを止めるとその隙に樹下看護師は遥の両脇に腕を差し込みそのまま遥を軽々と抱えあげてしまった。

「ふぇっ!?」

 唐突の事に思わず遥の口から変な声が洩れる。突然抱き上げられた事もそうだが、何より遥は今若い女性看護師と正面から密着する形になっている。身体は幼い女の子だが心は健全な十五歳男子だ。年上の女性に突如密着され動揺しないはずがない。

「怖くないからね」

 そんな遥の動揺を他所に樹下看護師は手慣れた動作で遥を車椅子に座らせると「それじゃあ検査室まで行きましょうね」と車椅子を押し始めた。普段なら車椅子を使った移動も自力で行う遥だが、今は心が乱れきっていてそれどころではない。内心嬉しいやら恥ずかしいやらで顔が赤くなっているのがはっきりと自覚できる。赤くなった顔を見られまいと俯き何とか平静を取り戻そうとしたが、密着した時に感じた柔らかな感触が頭を離れず、結局遥が平静を取り戻したのは検査室に辿り着くのとほぼ同じ頃であった。


 検査室に行くまでのちょっとした波乱とは打って変わり、検査は一時間程で滞りなく終了し遥は今は診察室で結果を確認する諏訪医師の前に居た。

「問題はなさそうだね。健康状態も良好だ」

 検査結果に目を通していた諏訪医師が顔を上げ人懐っこそうな笑顔を見せる。

「このまま検査に問題がなければ、後はリハビリの状況次第で退院できるよ」

 ゆったりとした口調で諏訪医師がそう告げると、遥はホッとすると共に一抹の不安を覚えた。退院するという事は日常生活に戻るという事だ。両親や賢治のお蔭で以前ほどネガティブではないにしろ、やはりいろいろと懸念材料は多い。遥はこの機会にひとつ思い付いていた考えを諏訪医師に尋ねてみる事にした。

「あの、先生ちょっと聞きたいんですけど」

 言葉はリハビリも進みだいぶ明瞭に発音できる様になっていた。若干舌足らずな所は抜けきっていなかったが、それでもたどたどしかった以前に比べれば雲泥だ。遥の問いかけに「私に答えられる事なら」と諏訪医師はデスクに向かっていた体を遥の方へと向き直す。

「えっと、ボクが小さな女の子になったのは、脳を保存できる期間に限りがあったからですよね」

 遥は最初に諏訪医師から聞いた話を頭の中で整理しながら自分なりに話の道筋を作っていく。諏訪医師は遥の少し端折った話しの内容に考えを巡らせてから「そうだね」と頷きそれを肯定した。

 遥は考えたのだ、女性化が発覚した際一時成育を中断したが為に十歳前後までしか育たなかった肉体と、それをそのまま与えられる事になったそもそもの原因は脳の保存にタイムリミットが存在していたせいだと。

「それなら、今から新しい身体を作り直して、元の性別のちゃんとした年齢の身体になる事はできませんか?」

 今の遥は肉体を得て生命活動に滞りがない。それならば脳の保存期限等という時間制限に縛られず新しい身体を確実に造ってそれにまた乗り換えれば元に戻れるのではないだろうか、専門的な知識はないが理屈状それは可能なのではないかと考え付いたのだ。諏訪医師は少し難しい顔をしたが遥の考えを否定はしなかった。

「技術的には可能だと思う」

 一旦は肯定するが「しかしいくつか問題がある」とゆったりとした口調で言葉を続けた。

「まず新しい肉体の成育には当然だが時間が掛かる。君の本来の年齢、今十八歳だね。そこから更に生育にかかる時間を計算に入れ、完成時の実年齢に則した肉体を用意するには大体四年必要だ」

 それは遥も何となく想定していた事だ。今の身体が三年掛かっているためそれ以上の時間は必要になるだろうと。しかし四年後であっても正当な身体に戻れるのであればやはり戻りたい。諏訪医師は今の身体で四年間社会生活を営んだ上でまた違う性別と肉体年齢になる事を問題視していたが遥はその事にまで考えは至らなかった。諦めた様子を見せない遥に諏訪医師は続ける。

「それから移行期間の問題もある。今の身体で生活を続けて新しい身体が出来たら即座に移し替えるという事はできないんだ。一度脳から元の身体の感覚をリセットする必要がるので一定期間肉体から脳を切り離しておかなければならない。個人差はあるけど大凡一年程かな。万全を期すなら二年だ」

 移行期間という情報は遥には初耳で想定外の事だった。再生医療は普通ならば遥の様な身体を失う大怪我や、肉体が維持できなくなった難病の患者に施される。その場合移行期間と肉体の生育期間は重なるので問題にならないが、遥の想定した正常な身体からの乗り換えは事情が異なってくる。移行期間と成育期間を並行させるとしても一年ないし二年間一旦は社会生活を停止しなければならない。遥は自分の存在しない年数の経過とその辛さが身に染みたばかりだ。頭の中で失う時間と取り戻せる身体が天秤の上で揺れる。どちらも捨てがたくまた得難い。苦悩に揺れる遥に「最後にもう一つ」と諏訪医師がダメを押す。

「費用の問題がある。再生医療に掛かる費用は大変に高額だ。今回君の場合は交通事故だったので加害者側の保険でその費用は賄われているけど、実費でとなると大変難しい金額だよ」

 諏訪医師は具体的な金額は述べなかったが、諸々合わせると九桁に近い額だと説明した。加えるなら再生医療は医療保険が適応されない先進医療に分類される為完全な自己負担になると言う。

 遥は指折り桁を数えゾッとなる。金銭的な問題は遥にとって最も現実的な壁だった。経済能力のない遥自身には勿論だが、それなりに裕福とはいえ一般家庭である奏家が気軽に支払える額でないという事は分かる。改めて正しい身体を得るという考えに淡い期待を抱いていた遥は思わず肩を落とした。そんな遥の様子に諏訪医師は初日に見せたような苦渋の表情を向けてくる。

「私個人の心情としては君を元の身体に戻してあげたい。しかし医療に絶対はないし病院組織としては君の命を繋ぎ止め五体満足な身体を用意できたというだけで今回の治療は概ね予定していた成果を上げられたという事になっているんだ…」

 そう言って諏訪医師はまた「本当に申し訳ない」と深々と頭を下げた。遥はそんな諏訪医師を責められなかった。人懐っこそうな話しやすい人柄と真摯な姿勢を好いていたし、諏訪医師の言う様に命を救ってもらい身体を与えてもらったというのもまた事実だ。今回の対話で僅かな希望は絶たれてしまったが逆に踏ん切りをつけるしかないと覚悟を決めた。

「変な事聞いてすみませんでした」

 遥は落胆しつつも気持ちを改め素人の浅知恵に丁寧な回答をくれた諏訪医師に感謝して頭を下げる。「力になれなくて申し訳ないね」と諏訪医師も改めて頭を下げてくれた。

 その後二、三検査結果に対する確認を済ませると病室に戻っても大丈夫だと諏訪医師から申し渡され遥は軽く会釈をして診察室を後にした。去り際「樹下君に送らせようか」と諏訪医師が訪ねてきたがそればかりは丁重にお断りした。

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