3-28.誤解と勘違い
遥が沙穂と楓を連れ戻った事で早速開始された勉強会は、和やかながらもその名目通り至極真面目に執り行われていた。
「あっ、そこはさっき教えた文法が当てはまるから―」
英語科目の問題に取り組んでいた青羽が苦戦していると、遥がノートを覗き込む様にして身を乗り出して丁寧にその解法をレクチャーしてゆく。
「あっ…うん…ありがとう…」
青羽は遥がこうして身を乗り出して来る度、僅かに気まずい顔を垣間見せつつも、勉強の進度そのものは比較的順調だ。しかし、そんな青羽の一方で、勉強開始から一時間程しか経っていないにもかかわらず、早々に音を上げた者があった。
「カナちゃぁん…そろそろ休憩しようよぅ」
ノートから顔を上げたかと思いきや、正面に座る遥に両手を伸ばし若干涙目でそんな事を訴えかけて来たのは、勉強会メンバーの中で最も学力に難がある楓だ。
「えー…まだ早くない? ねぇヒナ、ミナの勉強進んでるの?」
楓に泣きつかれた遥が本人に確認せず沙穂に伺いを立てたのは、楓の勉強を見ていたのが沙穂だからである。お礼をするという名分がある遥はその役目を違えず青羽に付きっきりである為、楓の勉強がどの程度捗っているかについては現状把握していないのだ。
「正直びみょー…休憩とか言ってる場合じゃない…」
遥からの問い掛けに答えた沙穂は、楓をチラリと見やって若干うんざりした様子でその進行具合が芳しくない事を示す。
「ほんとだ、あんまり進んでないね…」
遥が楓の広げているノートと教科書を覗き見れば、確かに沙穂の言いう通り余り捗っていない事が一目瞭然だった。手始めに数学から取り掛かっていた楓は、今でも開始時と同じ教科書のページを広げたままで、ノートも殆ど白紙に近い状態だ。この調子で行くと今日の勉強会中は数学に終始してテスト教科を一通りさらう事は難しそうである。とりあえず数学だけやれば後はバッチリというのであれば問題ないが、楓は全教科まんべんなく苦手としているので、そういう訳にも行かない。
「うーん…もうすこしがんばれない…?」
遥が勉強を続行すべきだと進言すると、楓は益々涙目になってしょんぼりと肩を落とす。
「うぅ、ヒナちゃんちっとも教えてくれないし、全然進む気しないよぅ」
楓は勉強の進行具合が芳しくないのは沙穂の指導方法にも問題がある事を抗議するも、これに対して沙穂は溜息を付いてかなりの呆れ顔だ。
「人聞き悪いわね、ちゃんとヒントは出してるでしょ?」
沙穂と楓のやり取りを聞いた遥は苦笑を洩らしつつ、勉強に関して言えばこの二人は相性が悪いのかもしれないと思わないでもなかった。遥が青羽の勉強を見ながら横で聞いていた限り、沙穂は基本的に突き放し形で、楓が助力を求めても簡単な足がかりだけを与え、まずは独力での解決を促すのだ。本人の身になるという点で言えば、その指導方針は長い目で見て大変結構な物だが、楓はそもそも分からない所が分からないというタイプなので、テストを間近に控えた現状では今一つ効果的とは言い難い。
「うーん…」
遥がこのあまり芳しくない状況をどうしようかと考えを巡らせていると、ノートと教科書に向っていた青羽が顔を上げ少々遠慮がちに小さく手を挙げた。
「俺もちょっと休憩したい…かな…?」
青羽も休憩を要求して来たとなると、休憩したい組と続行組の勢力は半々である。青羽の勉強は遥の見立てでも順調なのでこちらは問題ないとしても、やはりネックとなるのは楓の方だ。
「でもミナがもう少し進んでからの方が―」
せめて楓が一教科くらいこなしてから休憩に入ろうと提案しかけた遥だったが、それまでベッドの上で静かに本を読んでいた賢治が口を差し挟んできた。
「集中力が切れた状態で勉強したって頭には入らないと思うぞ。適度に休憩挟んだ方が効率は上がるんじゃないか?」
それは何気なく口にした一般論にすぎなかったものの、勉強という点に関して言えば大学受験を経て一日の長がある賢治のこの意見はそれなりの説得力が無いでも無い。
「うーん…それもそう…なのかなぁ…?」
賢治が休憩を推進し、休憩派が過半数を超えたとなると、これは遥としても無視する訳にもいかない状況だ。何より他ならない賢治がそう言うのであればという、至極個人的な感情も働いて、遥の心情も休憩の方へと大きく傾いた。
「じゃあ…、いったん休憩って事で、おやつにしよっか」
休憩を受け入れた遥はそうであればと、準備をすべくゆったりと席から立ち上がる。
「ワタシ手伝うよー!」
おやつ準備の手伝いを申し出て来た楓はさっきまでの涙目とは打って変わり実に晴れやかな笑顔で、この現金さに遥は思わず苦笑だ。とは言え一人で一階のキッチンからおやつと人数分の飲み物を持って戻るのは中々に大変そうであった為、これはこれで遥には有難い申し出である。
「うん、じゃあお願いね」
遥が楓に頷きを返しながら沙穂に視線を送ると、それに気付いた沙穂は少し考えた様だったが、結果的にはその場から動く素振りを見せなかった。
「二人いれば大丈夫そうね」
普段何かと連れ立って行動する三人なので、沙穂がこの場に留まる事を遥は少し意外に思ったものの、確かに言われた通り二人いれば事足りるのは事実だ。
「それじゃミナ、いこっか、お父さんがケーキ買って来てくれてるよ」
沙穂が付いて来ない事を認めた遥が部屋の扉を開けて促すと、ケーキという単語に反応して実に良い笑顔になった楓は軽快な足取りでその後に続いてゆく。
「わぁい! けーきぃ!」
この時実は青羽と賢治も助力を申し出ようとしていたのだが、沙穂の一言でこれを阻止されてしまっていた事は遥の預かり知らぬ所であった。
遥と楓がおやつの準備をするために階下へと向かってから程なく、二人の談笑する声が部屋からは聞こえなくなった頃合い。沙穂が手にしていたシャープペンをテーブルの上に置いて青羽へと視線を向けた。
「早見、あんた大人しいわね…?」
訝し気な眼差しと共に突然そんな事を沙穂に言われた青羽は、その真意を測りかね困惑した表情である。
「えっ…と…?」
勉強会が始まって以来、遥の無警戒な距離感に少なからずドギマギとしながらも至極真面目にテスト対策を行っていた青羽は、一体全体何の事かさっぱりといった感じだ。
「あんたさ、カナの事好きなんでしょ?」
その単刀直入な言い様に青羽がぎょっとしたのは言うまでもないが、それを遠巻きにボンヤリと聞いていた賢治もほぼ同様の反応を示していた。
「あー…ヒナちゃん…だっけ? ちょっといいかな?」
賢治は暇つぶしに読んでいた本をベッドの上に伏せて置くと、遥達が囲んでいたテーブルの方へと降りてきて、沙穂の対面にいる青羽の横へと腰を下ろす。
「…何ですか?」
意外な人物に口を挟まれた沙穂は、若干鋭い視線を向けて来たが、賢治はそれに怯まずいつも通りの落ち着いた様子で横に居る青羽の肩を叩いた。
「実はキミが来る前に、その話を彼としてたんだよ」
その際に失恋宣言と共に複雑な心境を聞き及んでいる賢治からすれば、再び同じ話題を青羽に向ける事は傷口に塩を塗るも等しく、余りにも酷な様に思えてならなかった。最初に切りつけてしまったのが自分であるとなれば猶更の事である。
「だからだな―」
賢治は助け舟を出すつもりでその話題は既に決着が付いている事を沙穂に告げようとしたがしかし、意外にもそれを当人である青羽が遮った。
「紬さん、俺、自分で話しますよ」
賢治は青羽の前向きな表情に少々躊躇いながらも、本人がそうするというならばそれを止める由もない。
「俺はただ奏さんの助けになりたいだけで、変な下心とかは本当に無いんだ」
青羽は真剣な面持ちで真っ直ぐに自身の心情を告げるがしかし、沙穂は眉を潜めてそれに承服した様子は見せなかった。
「あんたさ、この前カナに付き合おうって口走ってたよね? あの時は色々言い訳してたけど、あれって本心でしょ?」
あの時青羽は言葉のはずみだと弁明していたが、沙穂はそれをうっかりと漏れ出た本音であると、その様に目星をつけていた様である。
「なぁ、その話は―」
その出来事が失恋した瞬間である事を聞かされていた賢治が、堪らず再び話に割って入って入ろうとするも、またしても青羽がこれを遮った。
「確かに心のどこかでそうなれたら良いって思ってたかもしれない。そう言う意味では本心…なのかな…」
青羽が包み隠さずその想いを口にすると、沙穂は睨みつけるも同然の眼差しを見せながら深々とした溜息を付く。
「じゃあやっぱ、あんたカナの事好きな訳ね?」
その問い掛けに対して青羽は臆した様子は見せず、極めて真剣な面持ちを沙穂へと向けた。
「俺は奏さんの事―」
青羽は自分の気持ちを確かめる様に、ゆっくりと口を開き、一呼吸を置いてから沙穂に向って殊更真っ直ぐな眼差しを見せる。二度に渡って青羽に言葉を遮られた賢治は、最早当人達に任せた方が良いのだろうと聞く態勢に入っていたがしかし、有る事に気付いてそうも言っていられなくなった。
「ちょっとまっ―」
些か不味い事態が差し迫っている事に気付いた賢治が慌てて制止を掛けるも、時すでに遅い。青羽が核心を告げる言葉を口にしたのはその制止とほぼ同時の事だった。
「好きだよ」
明瞭に告げられた青羽の真っ直ぐな想いを聞き届けた沙穂は、苦々しい表情で一層深いため息を付く。沙穂は眉間に皺を寄せ青羽に向ける視線を益々厳しくさせていったが、その一方で賢治はある一点から目をそらして思わず手の平で顔を覆いつくしていた。
「えっと…」
その短い一言を発したのは、賢治でも、青羽でも、まして沙穂でも無い。それは賢治が目を逸らした先、つまり部屋の入口に姿を現した外でもない遥が発した物であった。開け放たれた扉と、ぽかんとした表情でそこに立ち尽くす遥の姿に沙穂と青羽が愕然となったのは言うまでもない。
「か、奏さん…いつから…そこに…」
青羽が上ずった声を上げると、沙穂がかなりぎこちない動きで、後方の遥が姿を現した入口へと向き直った。
「カナ、あんた…下に行ってたんじゃ…」
二人からの問い掛けに遥は、困惑した表情を見せながら、口元に人差し指の背を当て小首を傾げさせる。
「あの…、飲み物何が良いかなって…?」
躊躇いがちに用向きを告げた遥は、見れば手ぶらで、一緒に階下へと行った楓も今は一緒では無い。もし楓と共に戻って来ていたのならば、二人分の足音や話し声に沙穂と青羽も気付いたであろう。しかし単独で戻って来た遥の足音は、その軽い体重と最近愛用しだしたモコモコとした柔らかな素材のスリッパのせいでごく微かしか響かず、それを聞き慣れていた賢治以外はその接近に扉が開け放たれるまで気付けなかったのだ。
「カナ…あの…さ…、今の、聞いてた…?」
沙穂の珍しくかなり気まずそうな顔での問い掛けに、遥は引き続き小首を傾げさせつつも、それに対して頷きを返した。
「聞くつもりは無かったんだけどぉ…」
遥は答えながら室内にいた三人を順に見回してかなりの困り顔だ。偶然とは言え思いがけない場面に遭遇してしまった手前無理もない。
「あー…ハル…あの…だな…」
何とか場を丸く収められない物かと口を開いた賢治であったが、遥はその声に何か気付いた顔になったかと思うと、大股で室内に踏み入り賢治の腕を取った。
「賢治! こっち!」
遥に腕を引っ張られ賢治は取りあえず、促されるまま立ち上がりはしたものの、その行動の意味が分からず眉を潜めさせる。
「…なんだ?」
堪らず投げかけられたその疑問に、遥は少し頬を膨らませて掴んだ腕を下に引っ張り、今度は自分の目線へと賢治を屈ませた。
「もぅ! こういう時は二人っきりにしてあげようよ!」
遥はそんな事を耳打ちするが、賢治は益々意味が分からず一層眉を潜めさせる。しかしその一方で、実際の所は賢治以外にも丸聞こえだった遥の言葉を耳にしていた沙穂と青羽が勢いよくその場から立ち上がった。
「カナ! あんた誤解してる!」
「奏さん! 勘違いだよ!」
二人同時に力強い否定の言葉を繰り出した沙穂と青羽に、ここでようやく賢治も遥が少々間抜けな思い違いをしている事に気が付いた。
「ハル…、お前…どこから聞いてたんだ…?」
呆れ顔をした賢治の問い掛けに、遥は沙穂と青羽を交互に見やって、何やら申し訳なさそうな顔をする。
「えっと…早見君がヒナに…、その…好き…って…言ってたところから…」
少し頬を赤らめ気恥ずかしそうに告げたられたその発言に、沙穂と青羽は二人同時に勢いよく遥へと詰めかける。
「違うから!」
「そうじゃないよ!」
二人同時の力強い否定の言葉を再び投げかけられた遥は唯々困惑頻りだ。
「…あ、あれ…? えっ…? でも早見君がヒナに向って好きって…」
眉尻を下げた遥が見聞きしていたままの場面を遠慮がちに述べると、沙穂と青羽は顔を見合わせこれに対しては先程の力強い否定とは打って変わって弱腰になった。
「えっと…それは…そうだけど…、あれは…その…ちがくて…」
誤解は解きたいところだが、好意を秘めて遥を陰ながら助けてゆくと宣誓したばかりだった青羽は、当然その想いをここで打ち明けられる筈もない。
「えーと…早見が好きって言ったのは…あたしの事じゃ無いのは確かなんだけど…」
そして、青羽が遥に好意を持っている事を快く思っていない節の強い沙穂としても、それをここで明るみにする事は勿論望むところではないだろう。沙穂と青羽が一体全体何と答えたら良いのか言葉を濁していると、賢治が小さく息を吐いて遥の肩をポンッと叩いた。
「ハル、ケーキの事だぞ」
余りに唐突だったその言葉にきょとんとした表情になった遥は、また小首を傾げさせて沙穂と青羽、そして賢治を順に見回してゆく。
「…けーき?」
賢治の些か脈絡を欠いた発言には遥以外の二人も一瞬ポカンとしてしまっていたが、頭の回転が速い沙穂がまず我へと返った。
「そう! ケーキ! 早見はケーキが好きなのよ!」
少々大げさな手振りを交えて沙穂が賢治の発言に便乗すると、青羽もようやく流れを察して慌ててそこへと合流する。
「そ、そうなんだ! ケーキが好きだって話をしてて!」
遥は沙穂と青羽の妙な必死さに少々気圧されながらも数度首を捻り、やや間を置いてからふっとその表情をほころばせた。
「そっか、ケーキかぁ」
遥が納得した様子を見せると、沙穂と青羽、そして賢治は何とかこの場は誤魔化せたようだと、三人同時に安堵の息を吐く。
「俺、ほんと甘いものに目が無くて…」
少々引きつった笑顔で念を押す様にして言葉を重ねた青羽に、遥は少し意外そうな顔をしながらも頷きを返した。
「じゃあ、直ぐ準備するねー」
そんな事を言ってほがらかな笑顔を見せた遥は、有言実行とばかりにおやつの準備へと戻る為、踵を返して軽快な足取りで部屋を後にして階下へと向かってゆく。
「ハルが天然で良かったな…」
遥の立ち去った扉を眺めながら賢治が何気なくこぼすと、沙穂と青羽もそれに関しては頷くこと頻りだった。
「とりあえず早見、この話は―」
沙穂がそこまで口にした次の瞬間、階下へ向かって行ったと思われていた遥が再び扉を開け放ちその場へと舞い戻る。
「ボク、飲み物何が良いか聞きに来たんだった」
ペロリと舌を出してそもそも部屋に戻って来た用向きを告げる遥ののほほんとした様子に、沙穂はがっくりと項垂れ大きな溜息を付くと共に力なく手の平を泳がせた。
「あたしは紅茶で…」
お気楽な遥と、それに脱力する沙穂の様子に青羽と賢治は思わず苦笑いだ。
「あっ…、俺も紅茶で…」
一瞬間を置いて青羽が沙穂に続けば、賢治も頷き同様である事を示す。
「俺もそれで良いぞ」
賢治はどちらかと言えばコーヒー党だが、わざわざ一人だけ別の物を要求して手間を増やすのも忍びないというものだ。何より、今はとにかく遥の要件を済ませてやる事こそが先決であった。
「三人とも紅茶ね、りょうかーい」
要望を聞き届けた遥が、今度こそ部屋を立ち去り階下へと向かって行くと、残された三人は一様に疲れた表情で互いの顔を見合わせる。
「早見…覚えてなさいよ…」
沙穂から恨めしそうな視線を向けられた青羽は、反論する事も何やら憚られ唯々気まずそうな笑顔を返すばかりであった。




