3-24.学生の本分
ゴールデンウィークも明け、世間で五月病の存在が実しやかに囁かれ出した五月の中旬、高校生達にはその病状へ更なる追い打ちをかけるかの如く、憂鬱にならざるを得ないイベントが待ち構えていた。
「以上がテスト範囲だ、しっかり復習しておくように」
四限目の終了間際、教壇に立つ中邑教諭が発した宣言を受けて、教室内が俄かに騒然となる。テスト、それ即ち高校生ならば避けては通れない学生の本分。そう、もう間もなく中間考査の時期がやって来るのだ。
一学期に実施される中間考査の範囲はそれ程広い訳ではないが、テストと言うだけで拒否反応を示す者は多い。特にようやく高校生活に小慣れてきた一年生の大多数にとっては、五月病を患っているか否かに関わらず、当然の如く歓迎できる様な事柄ではないだろう。誰しもが勉強好きだったり、勉学に自信があったりする訳ではないのだ。
「では以上」
昼休みの開始を告げるチャイムが鳴るのと同時に中邑教諭は終了を告げ、日直に依る起立礼の号令を以て、四限目の授業は終了となった。
「日直、黒板頼んだぞー」
中邑教諭がそれだけ言い残し教室から立ち去って行くと、遥は自分の席には着かず、職務を全うすべく黒板へと向かってゆく。何を隠そう今日の日直は遥だった。
しかし、遥にとって日直と言う仕事はそれ程楽な物ではない。号令を掛ける程度は別段どうという事は無いが、問題は今正に中邑教諭から言い付けられた黒板の後始末だ。
「むーっ…!」
遥は黒板消しを手に目一杯伸びをしてみるが、案の定一四〇に満たないその小さな身体ではどうしても上の方にまでは手が届かなかった。
「んーっ!」
その場でぴょんぴょんと飛び跳ねながら遥は黒板の上の方へと手を伸ばしていくも、無駄に黒板消しの跡を増やすばかりで、お世辞にも綺麗になっているとは言い難い。
「奏さんガンバってー」
遥が黒板と悪戦苦闘している最中、教室内の誰かからそんな声援が送られてくる。遥が日直になる度繰り広げられるこの光景は、今やクラス内では一種の名物だった。小さな身体を使って一生懸命に頑張るその様子はクラスメイト達を大いに微笑ましい気持ちにさせているが、当の遥はただただ必至である。
「カナちゃん、手伝おうか?」
楓が傍までやって来て助力を申し出て来るも、遥は左右に首を振ってそれを受け入れなかった。これは遥にとってはいわば自身の尊厳を掛けた孤独な戦いなのである。
「ミナ、そっとしといたげなって、カナは自分でやりたいのよ」
沙穂の方は自分の席に座ったまま、遥の気持ちを汲みつつも若干の呆れ顔だ。
「そっかー、カナちゃん頑張ってー」
楓からの応援を受けた遥は意気込みを改にして、引き続きぴょこぴょこと飛び跳ねながら黒板との格闘を続行させる。しかし中邑教諭は黒板を上から下まで余すところなく使うタイプの教師で、特に今回はそれが顕著だ。その難易度はベーリーハードを通り越してエクストリームの域に到達していると言っても過言ではない。
「むぅ…」
どうしても一番上の方が綺麗に消せない遥は一旦手を止め、黒板に残った正しく文字通りの汚点を恨めしそうに睨みつける。
「カナぁ、早くしないと昼休みおわっちゃうよー」
沙穂が机に肘を付き待ちくたびれた様子で激を飛ばしてくると、遥はしょんぼりと肩を落として最終手段を取る事にした。
「ごめーん、もう済ますからー」
遥は沙穂に返事を返しながら一旦席まで戻って踏み台にすべく自分の椅子を持ち上げる。遥としては足場を利用は敗北宣言も良い所だが、このままでは自分が仕事を終えるのを待っているがために昼食をお預け状態になっている沙穂と楓に申し訳が無いのだ。
「しょっ…と」
黒板の前に椅子を据えた遥は、足りない身長を補うべく上履きを脱いでその上へとよじ登る。流石の遥もこれならば黒板の上まで手が届き、ようやく仕事を完遂できるかと思いきや、新たなる問題が浮上した。
「んーっ…!」
屈辱を圧して足場の利用に踏み切り、何とか縦の問題を解決した遥であったがしかし、今度は横に対するリーチが不足してしまっている。椅子の上に立ったからには、当然左右の動きは封じられ、その腕の届く範囲でしか仕事がこなせない事は遥にとって少々の誤算であった。
「むーっ!」
小さな遥の腕は広大な黒板に対してあまりにも短い。全体をカバーするには一旦椅子から降りてポイントを変えるしかないが、その手間を惜しんで欲をかいた遥はリーチを拡張すべく、椅子の上でつま先立ちになって身を乗り出した。
「か、カナちゃんあぶないよ!」
傍でその様子を見ていた楓が慌てた様子で警告を発してくるも、手早く仕事を終えたい遥はそれを聞き入れず腕を伸ばしてゆく。
「ちょっとカナ、それは止めときなって!」
楓に続いて沙穂も警告してくるが、遥はそれでも無理を通してそれを止めなかった。あと少し手を伸ばせば丁度切りのいいところまで届きそうなのだ。
「ぬぅー…!」
友達の忠告を聞き入れず爪先立ちで、身体全体を使い限界ギリギリまで腕を伸ばした遥だったがしかし、やはりその未熟な体感覚でそんな態勢を長く維持できるはずも無い。
「あっ…あわっ…とっ…!」
案の定無理が祟った遥の態勢からバランスという概念が一気に崩れ去った。遥は慌てて失った均衡を取り戻そうと身体を逆側に傾けたが、今度はそちらに体重が振れ、その身体は無情にも椅子から滑り落ち、重力に引かれて固い床へと向かってゆく。
「カナ!」
「カナちゃん!」
沙穂と楓が声を上げたのはほぼ同時の事だった。沙穂は自分の席から立ち上がり、直ぐ近くにいた楓は遥のフォローに入ろうと受け入れ態勢を取る。だが、楓が遥を捉えるよりも早く、その身体は別の人物によって抱き留められた。
「奏さん何してんの! 危ないよ!」
大きく息を乱したその声の主は、抱き留めた遥を床に立たせると、直ぐにその身体を解放する。遥が振り向けば、そこに居たのは昼休みの開始と同時に昼食を買いに出て行っていた青羽であった。
「やー、アオっち間一髪だったなぁ」
教室の入り口付近からそんな声を上げたのは、手に移動販売のパン屋の紙袋を持った新山耕太だ。
「アオバ今めっちゃ速かったねぇ」
新山耕太と連れ立って姿を現した最上篤史は、驚異的な瞬発力を発揮した青羽に感心しつつ床に落ちていたパン屋の紙袋を拾い上げる。
「あ…ありが…と?」
状況が今一つ呑み込めない遥が小首を傾げながら一応のお礼を述べると、青羽はほっとした表情になって遥の手にしていた黒板消しを取り上げた。
「貸して、俺やるから」
青羽はそう言うなり、遥があれほど苦戦していた黒板の書き込みを苦も無く綺麗に消し去ってゆく。程なくあっという間に黒板を処理し終わった青羽は、それから少し怒った様な顔で遥の方へと向き直ってきた。
「奏さん、こういうのは俺とかに頼んでくれていいから無茶しないで!」
未だ状況がよく呑み込めていない遥だったが、青羽の強い口調に何やら迷惑をかけてしまったようだと察してしゅんとして項垂れる。
「ごめんなさい…」
遥が謝罪の言葉を口にすると、傍までやって来ていた沙穂がその肩をポンと叩いた。
「早見に借り一つだねぇ」
沙穂の言い様に楓も同意してうんうんと頷きを見せる。
「早見君に何かお礼しないとねー」
遥は諸事情あって青羽をなるべく積極的に関わりになりたくない相手として、通称「危近リスト」に登録しているが、思い返せば入学以来青羽には色々と助けられてばかりだ。
「お礼かぁ…」
良い機会なので、この際その借りを一気に清算するのもありかもしれないと、遥は考えたが、とは言え具体的に何をすればいいかが今一つ思い浮かばなかった。
「何かして欲しい事ある?」
遥が小首を傾げながら上目で問い掛けると、青羽は一瞬びっくりした顔になったが直ぐにいつも通りの爽やかな笑顔を覗かせ左右に首を振る。
「俺がしたくてしてるだけだから、お礼何て別に―」
そこまで口にした青羽だったが、突然何か思い付いた顔になって、言葉を止めた代わりに「あっ」と声を上げた。
「なになに? アオバは奏ちゃんにお願い聞いてもらえるの? やったじゃん」
傍までやって来た最上篤史が青羽の肩に肘を置きながらその顔をにやけさせれば、新山耕太もそれに追従して逆側から青羽の肩に腕を回しニヤリと笑う。
「カナっちにお願い事出来るなんて羨ましい奴め!」
傍目には男子の他愛のない戯れであったが、そのやり取りに黙っていられなかったのが沙穂だ。
「カナに変な事要求したら許さないからね?」
沙穂が遥を隠す様に一歩前に進み出て睨みを利かせると、青羽は慌てた様子でかぶりを振る。
「しないよそんな事!」
沙穂に弁明を返した青羽は少しふてくされた顔になって、新山耕太と最上篤史の腕を振りほどき、改めて遥の方へと真っすぐに向き直った。
「あの…奏さん…」
青羽は何やら申し訳なさそうにするが、遥は思わず若干身構えながら沙穂の陰から顔を覗かせる。
「あの…ボクが出来る範囲にしてね…?」
遥が少し困った顔になってお手柔らかにして欲しい旨を告げると、青羽は深く溜息を付いてがっくりと肩を落とした。
「俺マジでそんなつもり無いよ…」
青羽は普段爽やかさ満点だが、一旦落ち込むと中々浮上しない為、こうなると若干面倒臭い。ファンの女子達に言わせればそんな所も可愛くて良いらしいが、そこは遥の与り知らぬ世界だ。
「あの…それで早見君はカナちゃんに何かお願い…するの?」
気落ちするその様子を気遣う楓の控えめな問い掛けに、青羽は少し気を取り直した顔になってから何やら気恥ずかしそうにして鼻の頭を指先でこすりつける。
「えっと…テスト勉強…見てくれないかなって…」
少々意外だったその要求に拍子抜けした遥は、思わず小さく笑い声を洩らしながらも、特に躊躇う事無く快くそれに頷きを返した。
「そんな事で良いんだったら、全然大丈夫だよー」
遥は普段から楓と共に青羽の勉強を見る機会が多い為、今更それが改まったお礼になるかどうかは今一つ疑問が残るところだが、本人がそれで良いというのだから問題ないのだろう。
「よかった…俺、結構何科目か不安なところあったんだ」
遥がすんなりと了承したので青羽はほっとした様子で普段の爽やかさを取り戻して笑顔を覗かせる。
「奏ちゃんにマンツーマンで勉強見てもらえるなんて羨ましいねぇ」
事の次第を見守っていた最上篤史がまた横やりを入れて来ると、沙穂がムッとした表情になって再び遥との間に割って入った。
「それ、あたしも参加させてもらうから」
その参戦表明は遥にとって少々意外な物であったが、秀才タイプである沙穂が一緒に勉強してくれる事に関しては大歓迎である。
「あ、あの…じゃあ…ワタシも…」
楓も若干遠慮がちに参加を表明してくるが、これについては元々付き合わなければいけない様な気がしていた遥としては全く異論がなかった。
「うん、っていうかミナが一番やんなきゃだよ」
当たり前の様に結束する仲良し女子三人組の様子に、新山耕太と最上篤史は顔を見合わせ、それから二人で青羽の肩をポンと叩く。
「奏ちゃんとマンツーマンじゃなくなっちゃったねー」
「アオっち残念だったなー」
新山耕太と最上篤史の言い様に青羽は慌てた様子で遥に向って手の平を交差させた。
「い、いや! 元々そんな事考えてないから!」
妙な焦りを見せる青羽に遥は小首を傾げながら、また小さく笑い声を洩らす。
「新山君と最上君も参加する?」
遥は自然な流れで、能天気に青羽の友人達にも参加を呼び掛けてみたが、これに対して新山耕太と最上篤史は意外そうな顔をしながらも揃って左右に首を振った。
「俺は遠慮しとくよー。彼女と一緒に勉強するからー」
最上篤史がそんな事を言えば、新山耕太もそれに便乗して頷きを見せる。
「俺も右に同じくって事で」
遥は二人の言い様に思わずリア充爆発しろと呪いの言葉を胸中で囁きつつも、一先ず二人が不参加である事には納得して話を先に進める事にした。
「参加者はヒナとミナと早見君の三人ね。じゃぁ、いつやるかだけど…」
テスト勉強の定番と言えば放課後の図書室と相場が決まっているので、遥はそれを念頭に置きつつも青羽をチラリと見やって首を傾げさせる。
「早見君って部活入ってたっけ…?」
遥が確認のため問い掛けると、青羽は申し訳なさそうな顔でそれに頷きを返した。
「うん、サッカー部。テスト期間中は三日前から部活が休みって聞いてるかな…」
青羽の回答を受けた遥は、部活が休みになる三日間は放課後を利用するとしても、それ以前にどこかでまとまった時間を作った方が良いだろうかと考えを巡らせる。
「多分、今週中には全教科のテスト範囲が分かると思うから、日曜日あたりに誰かの家に集まってやるのがいいかなぁ?」
遥が考えた末に一つ提案をしてみると、参加者である沙穂と楓、そして青羽はそれぞれに少々難しい顔をした。
「日曜に集まるのはいいけど、ウチは狭いから無理ねぇ…」
沙穂が日取りについては認めつつも自宅は不向きである事を示せば、それに続いて楓が申し訳なさそうにする。
「ワタシも日曜は平気だけど、家は弟達がうるさいから駄目かも…」
楓も沙穂同様に自宅が不向きである申告をしてくると、遥は参加者の中で残された一人である青羽へと視線を向けた。
「早見君はどう?」
遥の問い掛けに青羽は、気まずそうな顔をしながら鼻の頭をこすりつける。
「日曜は午前中部活あるけど午後からなら…、でも俺の家は姉貴達が…」
こちらもスケジュール的には問題ないようではあったが、やはり青羽も自宅については難色を示した。しかし遥は青羽が難を示したその理由について今一つピンと来ずに小首を傾げさせる。
「…それの何が駄目なの?」
遥が疑問に思った事を素直に問い掛けると、青羽は気まずそうな表情で「いやぁ…」と言葉を濁すばかりで答えを明確にしない。
「カナっち、察してあげなよー」
新山耕太が少々呆れた顔で話に割り込んでくれば、それに続いて最上篤史が大袈裟な身振りで肩をすくめて見せる。
「女の子三人も家に呼んだ日にはそりゃ大騒ぎっしょ」
これについては流石の遥も思わず納得だ。言われてみれば確かに男子高校生が自宅に女の子を呼ぶ等、それだけで大いにイベント性に富んだ出来事である。それを女姉弟に知られでもしたら、中々大変な事になりそうであることは遥にも想像が付く。
「じゃあボクの家かなぁ」
消去法的に自宅を提案した遥の意見に沙穂と楓は特に異論は挟まなかったが、メンバー中唯一の男子である青羽だけは何やら戸惑いを見せた。
「あの…俺も奏さんの家行って良い…のかな?」
青羽がおずおずと問い掛けて来ると、遥は何故そんな事を言うのだろうかと疑問に思ってまた小首を傾げさせる。
「なんで? 全然良いけど?」
遥は女の子としての自覚を強めている一方で、根っこの部分では未だに男の子としての自意識が残ったままだ。沙穂と楓を現同性の友達として家に招く事に抵抗が無いのと同時に、かつての同性である青羽を家に招く事にこそ何の抵抗もなかった。
「奏さんが良いなら…その…良いんだけど…」
あっけらかんとした遥に、青羽は何やら気まずそうな顔を見せ、沙穂はそんな青羽に冷ややかな視線を投げつける。そしてその横では楓が少々困った顔をして、やや遠巻きに居る新山耕太と最上篤史は意味深な笑みを青羽へと送っていた。
遥は友人達がそれぞれに見せる妙な反応の意味が分からず、きょとんとして小首を傾げさせるばかりである。
「えっと、日曜日にボクの家って事で良いんだよね?」
遥が最終確認すると、それぞれ思う所は在りつつも参加者全員それに同意し、こうして次の日曜日に遥の自宅で、沙穂と楓、そして青羽を交えた中間考査へ向けての勉強会が開催される運びとなった。




