1-7.二人の距離
「正直言うと、最初はやっぱ戸惑ったよ」
少し話疲れぼんやりとしていた遥に賢治はそう告白した。
賢治の告白を無理もない事だと遥はとりたてて責めはしない。三年ぶりに再会した親友がとびきり愛らしい幼女になっていたとなれば誰だって戸惑いの一つや二つや三つ感じて然るべきだし遥自分自身大いに戸惑い悩み迷走した経緯からそれは身に染みていた。むしろ賢治はよく取り乱さなかったとその精神力に賞賛を送りたいほどだ。
「ハルの親父さんから予め事情は聞いてたんだけどな」
賢治は正孝から連絡を受けた際に、事の一部始終を伝え聞いたのだという。抜かりない父の手練に遥はさすが我が父、と尊敬を新たにすると同時に賢治が自分を目の当たりにしても取り乱さなかった事に得心が行く。
「しかし…、聞いてはいたけど、まさかこれ程とはなぁ...」
そう言って賢治は改めて上から下までといった感じで遥の姿を再確認する。肩口まで伸びた少し癖のあるふわふわとした髪、整った輪郭と二重がぱっちりとした黒目がちな瞳の愛らしい顔立ち、下手をすれば自分の脚周りほどの厚みしかない華奢な身体から伸びる細い腕と足。そしてその姿を彩るフリルとリボンのパジャマ。
「つうか、すげー可愛いなお前」
ひとしきり遥の姿を観察した賢治は真顔でそう言った。
親友のドギツイ一言に遥は一瞬ぎょっとしたが今朝からそれこそ浴びるほど聞かされていたその言葉にげんなりとして、ジト目で賢治を見やる。
「けんじ、ろりこん?」
我ながらなかなかの反撃だったと遥は内心ほくそ笑む。しかし自分を可愛いと言った賢治がロリコンであるならば、可愛いと言われた等の遥はロリその物と定義されてしまう諸刃の剣だ。自分で言った後今後このネタは使うまいと心に誓う。
「ちげえよ! そういうこっちゃねえよ!」
遥の捨て身の一撃に賢治は慌てて反論すると大きな手で遥の小さな頭を無造作にぐりぐりと揺さぶる。そして不意に何か思い出して唐突に笑い出した。急に笑い出した賢治を遥は少しむくれて「なんだよ」と睨みつける。
「いや、悪い。ハルがたまに「賢治が女の子だったら」とか言ってたの思い出してよ」
なおも笑いながらそう言った賢治の言葉こそまさに痛烈な一撃だった。幼馴染が可愛い女の子、そんな漫画の様なシチュエーションを妄想して言った冗談だったが、それがまさかこんな逆の立場で実現するとは世は悲劇である。そういえば事故当日の帰り道にもそんな発言をした事を遥は思い出す。「そういえばあの日にも」そこまで言って遥ははっとして言葉を止めた。
事故当日、賢治は遥が無残な姿になり果てる瞬間を目の前で目撃している。自分の元の身体は修復不可能だったとしか聞かされていなかった遥は、実際それがどの様な状態だったのかは正確には分からないが、それがおおよそ直視できるような代物ではなかった事は想像に難くない。それが賢治にとっていい記憶であるはずがないのだ。そう遥が考えを巡らせた数舜の間に、それまで和やかだった賢治の表情から笑みが消えていた。
「わりぃ」
そう言って遥の頭から手を除けた賢治の表情は固かった。
「俺そろそろ行かねえと。バイトがあるんだわ」
遥の後ろ、病室の壁に掛けられた時計は五時を回るところだった。
二人は病室を出て、並んで病院の出口へと向かい進んでゆく。それは一種の習慣だった。別れる間際までその時間を共有する。そんな親友同士の暗黙の了解だ。
二人とも三年前の事故の事にはもう触れなかった。遥にしてみればあっという間の出来事で、気付けば三年後というあまり実感の沸かない事柄であったし、賢治にとっては大切な親友を一度失った忌々しい出来事の記憶だ。進んで話せるような内容ではない。
「ばいと、してるんだ」
車椅子で進む自分の速度にゆっくりと歩調を合わせて歩く賢治を見上げ、遥は代わりにどこか心にひっかっていた話題を切り出した。
「ああ、大学生は物入りだし、それに自分の車欲しくってな」
賢治はその問いかけにいつも通りの落ち着いた口調で答えてくれた。何気ない問いかけに何気ない回答といった感じだったがしかし遥の心が俄かに色めき立つ。バイト、大学、車、そのどれもが遥の知らない賢治の姿なのだ。それは湧かなかった実感と、他に直面していた問題に先送りになっていた三年の経過という現実を遥に再び突き付けるには十分な材料だった。
「免許は高校出てすぐ取ったんだけどな」
何気なく続ける賢治の言葉に遥の中で何かがブレてゆく。遥が高校一年の暮れに事故に遭ってから三年余りが経ち今は一月も末だ。去年高校を卒業した賢治は次の春には二年目の大学生活を迎えようとしている。その過程を遥は見ていない。免許を取って車を買うためにバイトをしているという。その経緯を遥は知らない。自分の居ぬ間に三年という年月を着実に重ねた賢治。方や自分は十五歳のまま目覚め、それどころか身体は十歳前後の幼女。大学も車の免許もアルバイトも、そのどれもがずいぶんと遠い所にあるように感じられた。
「それじゃ、また来るわ」
気づけば二人は一階ロビーの玄関前にまでたどり着いていた。別れの挨拶を告げ、一歩二歩と賢治の背中が遠ざかった。遥の中でそれがズレた三年間と重なり永遠に縮まらない距離の様に錯覚する。妙に気が焦った。今日せっかく賢治と再会して、そしてその賢治が確かに自分は奏遥だという確信をくれたのに。それが成せる十五年間、常に隣を歩んできた掛け替えのない存在なはずなのに。そんな親友と自分の距離が離れてゆく。姿形は変わってしまったけれど、それでも変わらず自分はその隣に居られるものとどこかで思っていた。語り合ったあの星空の様な思い出の光さえ遠く感じだす。宇宙の彼方で輝いた星は数年後にしか見ることが出来ない。そんな話を切なく思った事が頭をよぎる。もう、二人は過去に輝いた思い出の光でしか通じ合えないのではないか、そんな思いに遥の胸が締め付けられる。
「けんじ…!」
思わず遥はその名を口にしていた。声に反応した賢治が振り返る。記憶より、少し大人びた賢治の姿。このまま離れていくなんて絶対に嫌だ。遥のそんな思いがその未だ不自由な身体を突き動かした。
腕に力をこめ、車椅子からその軽い身体を引き離す。か細い足で病院の白い床を踏みしめる。
「ハル?」
遥の突然のその様子に賢治は固唾をのんだ。
それはあの日変わってしまった運命と、過ぎ去ってしまった無常な時間に抗おうとする遥の精いっぱいの意志。不確かな足取りで、それでも持てる力を総動員して、踏みしめ歩を進める。気を抜けばすぐさま崩れ落ちそうな身体。ほんの数歩のはずの距離が酷く遠く感じられる。それでも、追いつきたい。自分が奏遥だと確信できたから、十五年間常に隣を歩き続けた自分だからこそ。震える足に鞭を打つ。ゆっくりとだが着実に賢治との距離が縮まっていく。あと一歩手を伸ばせば届く距離。その姿をまっすぐに見据えようと顔を上げる。最後の一歩。そう思い踏み出したその瞬間、遥の身体はバランスを失った。届かない。このまま無様に倒れ伏すのか。自分と賢治の間を三年という大きな溝が隔てようとしている。もはや力を失った身体になす術はない。遥は悔しさに唇を噛みしめる。
「ハル!」
いつも落ち着いている賢治の珍しく慌てた声がほんのすぐ近くで聞こえてくる。固く冷たい床に打ち据えられるはずだった遥の小さな身体を賢治の逞しい腕が抱き留めていた。
「無茶しないでくれ…」
そう言った賢治の声は少し震えている。抱きとめられた腕の確かな感触と、そこから伝わる賢治の体温。失いたくない場所がある。遥は顔を上げ精いっぱいに持て得る限りの気持ちを前向きにして、未だにおぼつかない言葉を駆ってその思いを形にしようとする。
「おいつくから。すぐ、おいつく、から…!」
そのたどたどしく舌っ足らずな決意表明に、賢治は目を細め優しく答えた。
「馬鹿だな、おいてった事なんかねえよ」
賢治のその言葉が遥の心に暖かく光をともす。それは星空の様だった思い出の光とはまた違う、全身を暖かく照らす陽光のようだった。表面上の事柄に囚われがちな遥に、本当に大切な事は常に胸の内にあるのだとその光は教えてくれる。二人の時間がどれだけ隔たれようとも、心までは分てない、そう示してくれていた。




