3-21.理性と欲求
ホテルに辿り着き、賢治と共に予約の部屋へと通された遥は、室内の光景に愕然となっていた。
「け、賢治…本当にこの部屋…?」
室内を一望できる位置で立ち尽くした遥は賢治の袖を引っ張り、目の前の空間を指差して見せる。
「ん、あぁ、すげぇ良い部屋だよな。お袋に感謝しないと」
遥に促され室内を一望した賢治はかなりお気楽な調子だったがしかし、遥が言いたかったのはそんな事ではない。
「確かに…良い部屋…だけど…」
元々賢治の両親が利用する予定で予約していたホテルは、学生の身分では中々利用し難い高級ホテルで、部屋自体も相応に素晴らしい物だ。広さはそれ程では無いものの、上品なヨーロッパ家具が演出する落ち着いた雰囲気が優雅な一時を演出してくれる事請け合いで、備え付けのバルコニーからはパーク内が一望できるかなりの好立地でもある。しかし、遥にとってこの部屋は、そんなの素晴らしい点が帳消しになる程の大きな問題点があった。
「で、でも…さ…賢治…」
再び賢治の袖を引っ張り遥は問題点を明確にする。
「ベッド…一つしかないんだけど…」
その言葉に一瞬沈黙し改めて遥が指し示す方向へと真っ直ぐ視線を送った賢治は、ようやくその事に気が付き遥同様愕然となった。
「マジかよ…」
そう、この部屋は元々賢治の両親が利用する予定だったのだ。賢治の両親は息子を置いて二人で旅行しようというくらいには仲睦まじく、そんな二人が予約していた部屋はさも当然の様にダブルベッドが一台しか設置されていないカップル向けの一室であった。
「ど、ど、ど、どうするの!?」
二人っきりでお泊りというだけで一杯一杯だった遥にしてみれば、賢治と同じベッドで一晩を過ごす等キャパシティーオーバーも甚だしいことこの上ない。
「いや…どうするって…言われてもだな…」
一方の賢治は遥に対する特別な感情を自覚して以来、自分から積極的に手を繋ぐ程度には余裕があり、余程の事が無ければその愛らしさに翻弄される事も無くなっていたがしかし、このシチュエーションは流石にその範疇ではなかった。
「いくら何でも…マズイ…よな…」
独り言のように呟いた賢治は解決策を模索すべく思案の態勢へと突入する。いくら賢治の本質が幼女に劣情を抱かない真人間とは言え、それでも健全な男子である以上好きな娘と一つのベッドで一夜を過ごすともなれば何か間違いを犯さないとも言い切れない。遥にピッタリと抱き着かれて危うく理性が吹き飛びそうになったのはつい最近の事である。
「うぅ…」
解法を求めて思案する賢治の横で、遥は思いもしなかった状況を前に色々と挫けそうだった。ただ、一つ幸いだったのは、賢治に対して絶大な信頼を寄せ安心しきっている為、気まずさを最大限に募らせつつも、賢治とは違って具体的な危惧を抱かなかった事だろう。もしもこの時遥が年頃の男女でベッドを共にする事に関しての明確なビジョンを見出していたのなら、それはもうパニックどころでは済まなかった筈である。
「おっ、そ、そうだ! 部屋を替えてもらえるようフロントに頼んでみりゃいいんだ」
思案の末一つの打開案を見出した賢治は早速それを実行すべく、部屋に備え付けられている内線電話の受話器に手を掛ける。遥は賢治の提案に一縷の望みを託し祈る様な気持ちでそれを見守った。
「あっ…すいません部屋を替えて欲しいんですが…えっ? あ、はい…そうですか…、分かりました」
フロントとの短いやり取りを終えた賢治は、受話器を置いてゆっくりと遥の方へと振り返り力ない笑みを見せる。それはどう見ても芳しい結果とは思えない様子であったが、それでも遥は聞かずには居られなかった。
「どう…だったの…?」
如何にも不安げだった遥の問い掛けに、賢治は大変心苦しい気持ちになりながらも、ありのままの事実を伝えるべく左右に首を振るしかない。
「今日は満室で替われる部屋は無いそうだ…」
予想していた通りだったとはいえ、望みを絶たれた形になった遥はがっくりと項垂れ力なくペタリと床に腰を下ろす。賢治の口にした言葉は遥にとってまるで終末を告げるラッパの音色さながらであった。
「どう…しよう…」
半ば呆然自失でうわ言の様に呟く遥の様子に、少々焦った賢治は何としてもこれは解決策を見出さねばならないという強い使命感に駆られて再び思案に入る。替えが効かない以上この部屋で何とかするしかないが、何度見てもベッドは一つしかなく、室内には横になれそうなソファーの類も備わっていない。有るのは壁際のカウンターとペアになっているスツールが一つと、小さなテーブルを挟んで二脚設置された、がっちりとした肘置きのある一人掛けの木製チェアくらいの物だ。高さや構造上の問題からその三脚を並べるには無理があり、木製チェア二脚では身体の小さな遥ですら横になるのは難しいだろう。長身の賢治なら尚の事だ。そうなると残された選択肢は二つだけだった。
「同じベッドで寝るか、どっちかが床で寝るかだが…、同じベッドってのは…やっぱハルは嫌…だよな…?」
二つの選択肢を提示した上で意思確認を行おうという賢治の問い掛けに、遥は内心の気まずさを一旦忘れて思わず考え込んでしまう。
「うーん…」
気持ちが耐えられるかどうかという点を度外視すれば、遥は決して嫌な訳ではない。むしろ程度の問題こそあるが、大好きで安心できる賢治に引っ付いていたいという欲求は間違いなく有る。現状は戸惑いや気恥ずかしさの方がそれに勝っている事に加え、賢治の方こそが嫌がるだろうという思いから、そこへ踏み切れないだけだ。
「ボクは…その…嫌って訳じゃない…けど…」
根が正直な遥が素直に思った事を告げると、今度は賢治の方が考え込まずには居られない。もし本当に遥がそれを望むというのであれば叶えてやりたいところではあるし、二人とも柔らかな寝床を得られる方法はそれしかないがしかし、だからといってそれをすんなりと受け入られる賢治では無かった。
「しかしなぁ…やっぱりマズいだろ…色々と…」
考えた末やはりそれは回避すべきだという賢治の意見に、気持ちに精神力が追い付かない遥もそれに異を唱えられる由もない。
「しかたない…俺が床で寝るよ。せめて掛布団だけでも借りられると良いが…」
その結論に一瞬納得しかけた遥だったが、それはそれで問題がある事に気が付き咄嗟に立ち上がった。
「待って! 賢治は運転で疲れてるんだしそんなの駄目だよ!」
実際の経験がない遥には六時間に及ぶ運転がどれ程の労力かはっきりしたところは分からないものの、それが決して軽い物でない事くらいは想像が付く。そんな重労働を成し遂げた賢治に固い床での睡眠を強いるのは余りにも酷だ。
「ボクが床で寝るから、賢治はベッドでちゃんと寝てよ!」
遥は内線電話に手を掛けようとしていた賢治の腕にすがり付いて再度の検討を要求したが、それに対して賢治はかぶりを振って拒絶を見せた。
「気持ちは嬉しいが、やっぱり俺が床だ」
承服しない賢治がいよいよ内線電話を取り上げようとすれば、遥は非力な腕でぐいぐいと袖をひっぱりそれをさせまいとする。遥が床で寝るにしても寝具を調達すべくフロントへの連絡は必要だが、焦りでそんなのところまでは考えが及ばなかった。
「ボクは大丈夫だから!」
少々ムキになって食い下がる遥に、賢治は少し困った顔で苦笑しながら一旦内線電話から手を放し遥の方へと向き直る。
「なぁ、ハル…」
賢治はそう前置きをすると、遥の両肩に手を置いて至極真面目な表情で、遥にとっては意外な事を口にした。
「俺は男で、ハルは女の子だ。ならベッドで寝るのはハルだよ」
それは実に賢治らしい実直な考え方ではあったがしかし、それが自分に向けられた言葉であるという事実に遥は思わず愕然とせずには居られない。
「な…、な、なっ!?」
常日頃から賢治に女の子として認めてもらいたいという願望を持ち、そう思ってもらえる様自分なりに努めて来た遥だが、いざこうして真っ向から女の子扱いされると、どんな反応をすればいいのか全くわからず、ただただ狼狽するばかりだ。
「えっ…? ど、どう…して?」
余りの動揺に遥がひたすらに狼狽えていると、賢治はいつもの落ち着いた笑顔を見せ、大きな手でその少し癖のあるふわふわとした髪の毛をかき乱した。
「こういう時は男が譲るってのが相場だろ?」
賢治の優し気な眼差しと触れる手の感触、そして尚も女の子扱いされているという事実を前にして、遥は最早ベッドをどうするかという問題はどこかへ吹っ飛び、ひたすらに困惑するばかりである。
「け 賢治は…ボクの事…女の子だと思って…くれてるの?」
以前男同士でベタベタするのは抵抗があると言われ、賢治が未だに自分を昔と変わらず男として扱っている物と思い込んでいた遥にしてみれば寝耳に水も良い所だった。
「思うも何もハルは現に女の子だろ。前にもそんな話をしたぞ?」
さも当たり前の様に言った賢治の解答に、遥は一体いつの間にそんな事になっていたのかと益々困惑頻りである。
「えっ…ど…どゆこと?」
問い掛けながら遥も自身で記憶を辿ってみるが、やはりどうにも賢治に女の子として扱われた記憶が無い。
「覚えてないか? ハルを駅まで迎えに行った日の夜だよ」
小首を傾げるばかりのその様子に賢治が助け舟を出してくると、遥はそれを頼りに更に記憶を辿ってゆく。賢治に駅まで迎えに来てもらった日と言えば、沙穂と楓の二人と友情を改にしたあの日の事だ。その日の出来事を順追って思い返して行った遥は、ようやくそこで賢治が何の事を言っているのか思い当たった。
「あー…あの時…」
確かにあの夜、賢治は女の子の日に纏わるとんでもない勘違いをして、それから遥の身の上がもうすでに自分の手が及ばない女の子である旨の発言をしてはいる。
「思い出したか?」
賢治の確認に遥は頷き返しながらも、何やら少々腑に落ちない部分を感じてまたも小首を傾げさせた。
「でもあれは…ボクの身体が女の子っていう話し…だよね?」
あの時の会話は生物的には女の子であるという主旨の物だと認識していた遥にしてみれば、それは思っていた女の子扱いとは少々違っているのだ。
「…それ以外に有るのか?」
賢治が全くピンと来ていない反応を見せると、遥は何とももどかしい気持ちになって思わず口を尖らせた。
「むぅ…」
賢治の言う「女の子」という認識はあくまで生物的な観点でしかなく、奏遥というパーソナリティにまでそれが及んでいるかどうかは些かの疑問である。そうであれば依然として賢治との恋を成就させられる様な段階では無いがしかし、遥はふと一つの事に思い至って少し気持ちが明るくなった。
「賢治、あ、あのね!」
遥は今し方思い付いたことを自分の中で整理しながら、袖を掴んで賢治を上目で見やる。
「何と言われてもハルを床では寝かせられないぞ?」
賢治はベッド問題については頑として自身の主張を曲げる気は無いようではあるが、遥が今言おうとしてる事はそれではなかった。
「じゃなくて…、賢治がボクの事女の子と思ってるなら、前言ってた事はもう気にしなくていいんだよね?」
遥は思ったのだ、その意味合いがどうであれ賢治が自分の事を女の子だとするのであれば、以前言われた男同士で云々という話は無効なのではないかと。
「前言ってた事ってのは、一体いつのどんな事だ…?」
遥が少々脈絡のない話題を振って来た為、今度は賢治が首を捻ってその記憶を辿っていく番だが、二人の思い出は多岐にわたる為今一つどれの事か判然としない。
「えっとね、ボクが退院した日、ボクの部屋で賢治が男同士で引っ付いたりするのは抵抗あるって言った事だよ?」
その時の事を明確に記憶していた遥の解答に、賢治ははっとなり同時にサッとその表情を青ざめさせた。
「あー…そういや…言った…な…」
それは遥に異性を感じ始めて動揺していた賢治の苦し紛れから出た、言ってみれば心にもない発言だ。今になってそんな話を持ち出されるとは思ってもいなかった賢治としてはかなり気まずい話題である。
「ねぇ…どうなの? もうあれは気にしなくて良いんだよね?」
今しがた自分の口から遥が女の子であると言ったばかりの賢治は、当然今更それを覆す事等できはしない。
「まぁ…そうなる…よな…」
賢治からの肯定を受けて遥の気持ちがパッと明るくなってゆく。そしてそれは同時に、遥の中で抑圧されていた賢治に引っ付いて甘えたいという欲求のタガが外れた瞬間でもあった。一度解き放たれたその欲求は、あっという間に遥の初心な恋心から戸惑いや気恥ずかしさを駆逐し、更には些かの理性さえもその思考から消し去ってゆく。
「あ、あのね…それならボク…えっと…ね…同じベッドでも…良い…よ?」
袖をチョンと摘まみ、はにかんだ表情で上目遣いを見せる遥に、賢治は思わず一歩後退ってその表情を引きつらせた。
「ハル…お前、自分で何言ってるのか分かってんのか…?」
遥の意図はどうあれ、それは賢治にしてみれば「どうぞ召し上がれ」と言われているのも同じである。しかし、だからと言って、据え膳食わねば何とやらとばかりに、幼女である遥に手を出せる訳がない。
「さっきも言ったろ、ハルは女の子で俺は男だって!」
当然の焦りを見せる賢治に、きょとんとした遥は口元に人差し指の背をあて実に不可解だと言わんばかりに首を傾げさせる。
「それだと何で駄目なの…?」
男同士が嫌だという理屈は、元男である身の上から理解できた遥だが、男女でも駄目だと言われた理由については全く思い当たるところがなかった。もしそれがクラスメイトの男子から言われた言葉だったのならば、流石の遥もそこに性的なニュアンスが含まれていた事に気が付いただろうが、なにせ今は若干思考がお花畑であるし、そもそも相手は全幅の信頼を寄せる賢治なのだ。
「ハル…お前マジで言ってんのか…?」
信じられないと言わんばかりのその口ぶりにも、賢治が自分を性的対象として見る等とは夢にも思わない遥はやはり小首を傾げさせるばかりである。
「だって…、ボクが女の子だっていうなら賢治も嫌じゃないんでしょ?」
現状遥の着眼点はあくまで賢治が嫌かそうでないかというその一点だけだ。そして嫌かどうかで言えば、当然遥を愛しく思っている賢治も嫌である筈はなかった。
「嫌では…ないが…」
賢治としても、もし色々と許されるのであればむしろそれは願ってもない事だがしかし、しかしである。遥がその本質を全く理解していない以上、賢治はその色々を抑えねばならず、ともなればそれはかつての生殺し以上のより過酷な拷問的シチュエーションと言っても過言ではない。
「もう一回言うぞ、ハルは女の子で、俺は男なんだぞ…?」
再度同じ言葉を使って念を押す賢治であったが、それでも遥は小首を傾げさせ、あまつさえそのあどけない顔で警戒心ゼロの愛らしい笑顔すら見せる始末だった。
「そんなの分かってるよー。賢治ヘンなのぉ」
変なのは遥だという突っ込みを入れたい気持ちを抑えて、賢治は傍に有ったスツールを引き寄せそこへぐったりと腰を下ろす。まるでその中身まで幼女かの様に思えてならない純真無垢っぷりを見せる遥に完全に参ってしまっていた。自分を信頼しきっている遥に対して二人でベッドを共にする事の危うさを伝えるには、まず自身の秘めている想いから打ち明けていく必要性を感じる賢治だったが、当然そんな事は出来る筈が無い。
「お互い嫌じゃないなら問題ないよね? 二人ともふかふかのベッドで寝れるんだよ?」
確かにそれは遥の言う通りで、受け入れさえしてしまえばベッド問題は一気に解決である。遥が嫌がっていない以上、後は賢治が自制心を保てるかどうかだけなのだ。
「ねぇ賢治、良いでしょ?」
ぐいぐい袖を引っ張りまるでおもちゃをねだる小さな子供の様な遥に、賢治は急激に毒気を抜かれ、こんなにも幼女ならもうそれは理性の方が絶対的に勝って、手の出しようもないだろうという諦めの境地へと至った。
「ハルがどうしてもって言うなら…俺はもうそれでいいよ…」
どうにでもなれと言う半ば投げやり気味な気持ちで賢治がそれを了承すると、遥はパッと表情を輝かせて賢治の腕にしがみつく。
「ありがとう賢治!」
見た目や中身ばかりでなくその行動すらも幼女じみて来た遥の様子に、色々と思う所があり小さく溜息を洩らす賢治だったが、唯一遥が喜んでくれている事だけは救いであった。




