3-16.約束と提案
四限目の終わりと昼休みの開始を告げるチャイムと同時に、養護教諭の美鈴恵美が昼食を取る為に保健室から出て行くと、それと入れ替わる様に沙穂と楓、そして青羽が遥の元を訪れた。
「カナちゃん、お弁当持ってきたよー」
楓からお弁当の巾着を受け取った遥は、ベッドに座ったまま足だけ下ろして友人達の方へと向き直る。
「ありがと」
約束通りやってきてくれた友達二人には笑顔を見せつつも、遥は後ろに控える青羽の存在に僅かばかりの緊張感を覚えずには居られない。時間を置いて冷静になった今でもコントロールの及ばない感情の微細な部分では、未だ男子に対する恐怖心が抜けきっていないままだった。
「早見がどうしてもカナに謝りたいっていうから連れて来たんだけど…」
沙穂は若干怯えた表情の遥とかなりバツが悪そうな青羽を交互に見ながら、小さく溜息を付く。
「カナちゃんが嫌なら帰ってもらうよ…?」
気遣ってくれる楓の申し出を受けて遥が戸惑いながら青羽の方をチラリと窺えば、その表情は酷く落ち込んだ様子でいつもの眩しいくらいの爽やかさは影もない。
「多分…平気…だと思う…」
その沈んだ様子に同情を禁じ得なかった遥が躊躇いがちに同席を許可すると、青羽はちょっとだけほっとした面持ちで一歩前へと進み出る。
「奏さん…」
距離が詰まった事で緊張感を増す遥であったが、次の瞬間には青羽が床に頭を着けんばかりの物凄い勢いで頭を下げてきた。
「本当にごめん! 俺達すげぇ無神経だった!」
突然の改まった謝罪に困惑する遥は、今では青羽達三人が悪い訳では無い事を理性の上では理解できている為に、何やら逆に申し訳ない様な気がしてきてしまう。
「えっと…ボクの方こそ…その…ごめんなさい…」
何の罪もない三人に対して取ったあんまりだった態度を思い返してしゅんとしながら謝罪を返す遥だったが、青羽はそれを受けても依然として深々と頭を下げたままその態勢を崩さない。
「奏さんは悪くないよ! 俺、約束してたのに気が回らなくって、ほんとすげぇ無神経だった!」
青羽は謝罪を重ねて一層頭を低くするも、遥はその口から出た「約束」が何の事かわからずに思わずきょとんとしてしまう。遥が小首を傾げながら沙穂と楓に目配せすれば、二人も青羽が何の事を言っているのか今一つ分からなかった様で同様に首を傾げていた。
「えっと…」
遥は約束について尋ねようとしたものの、低頭平身を維持している青羽の様子に妙なやりにくさを感じずにはいられない。
「取り敢えず顔を上げて欲しいんだけど…」
遥としては普通に向き合って話の出来る状態になってほしくての進言だったが、青羽は何を思ったのか頭を上げる代わりに床の上へと正座して一層その態勢を低く取った。
「えー…」
その突拍子もない行動に遥は気の抜けた驚きの声を上げ、もう一方では沙穂が心底呆れた様子でため息を付く。
「早見、あんたスカートはいてる女子の前に座り込むとか良い度胸ね」
その言葉にはっとした表情にななった青羽は、目の前にある遥の脚を一瞬見やってから、かなり慌てた様子で勢いよく立ち上がった。
「ご、ごめん! 俺そんなつもりじゃ!」
かなり気まずそうにわたわたとする青羽に、楓が苦笑しながらベッドの脇に置いてあった丸椅子を引っ張って来る。
「早見君とりあえずこれに座ったら?」
楓から椅子をすすめられた青羽は素直にそこに腰を下ろして、かなりぐったりした様子で項垂れ俯き加減になってしまった。
「えっとぉ…」
遥は青羽の余りの慌てようと落ち込みぶりに堪らず苦笑である。実際の所、遥が着用している制服のスカートは裾を詰めていない標準丈のままなので、正面に座り込まれたところで中が見える事はないし、そもそも中を覗かれたところで遥は別段恥じらったりはしなかっただろう。
「マジでごめん…立ってると怖がらせちゃうと思って…」
青羽はそれ程長身な訳ではないが、それでも立っていてはどうしたって遥を上から見下ろす形にならざるを得ない。そんな自分は遥に威圧感を与えてしまうのではないかと青羽なりに考慮した上での正座だった様だ。
「えっと…それで…約束って…?」
お互い座って向き合う形になった事で、遥がようやく気になっていた事を切り出すと、青羽は若干驚いた顔で「えっ」と声を上げた。
「あれ? 俺…てっきり…」
拍子抜けした様子でしばし一人首を捻っていた青羽は、ややあってから少々照れくさそうに苦笑する。
「ごめん、俺が勝手にそう思ってただけだから気にしないで」
青羽は一人で勝手に自己完結した様だが、疑問を残されたままである遥としては到底納得できるはずもなく、それは沙穂と楓も同様だ。
「あたしらは全然良くないんだけど」
沙穂が憮然とした面持ちで問い詰めると、楓が何か思い付いた顔になって「もしかして…」と遠慮がちに口を開いた。
「入学式の日に言ってた事…かな?」
その言葉に遥と沙穂は顔を見合わせながらそれぞれに記憶を辿り、二人ともほぼ同時に一つの出来事に思い至る。
「ボクをフォローしてくれるって言ってた事…?」
入学式の日、遥が三年間入院していたと、断片的な身の上話を語った際に、その境遇に同情した青羽は「できる限りのフォローする」とそう口にしていたのだ。
「真面目というか、律儀というか…あんたほんとイイヤツねぇ…」
青羽は遥の言葉には頷きを返し、若干皮肉交じりに言う沙穂には自嘲気味に笑って左右に首を振る。
「前にも言ったけど、俺は只のお節介焼きだよ…」
それから青羽は引き続き自嘲気味な笑みを見せながら「それに…」と前置きを付けて言葉を繋いだ。
「俺、奏さんを助けるって決めてたのに、肝心なところでちゃんとフォローできずに怖がらせちゃったし…、今だってその…、とにかく俺最悪だよ…」
最後に遥のスカートにチラリと目をやり再び気まずい表情で項垂れる青羽の様子に、遥達三人は思わず顔を見合わせてしまった。
「これは面倒ね…」
沙穂が遥に身を寄せて小声で呟くと、楓も同様になって小声で「どうするの?」と困り顔だ。スカートの件はひとまず良いとしても、青羽が約束とまで思い込んで積極的に関わってこようとしている事は少々問題である。心意気そのものは大変にありがたい事ではあるのだが、なにせ青羽は遥の「危近リスト」に登録されている人物だ。こうして責任を感じて謝罪に来てくれる程なので青羽の善良さには疑いを持たないとしても、それ以外の問題から遥が平穏な高校生活を望む限り、その名前がリストから外れる事は今後もないだろう。
「うーん…」
遥がこの問題をどうすべきか考えを巡らせていると、青羽が何やら神妙な面持ちになっておずおずと口を開いた。
「あの…さ…ちょっと良いかな?」
ひとまず現状では考えが上手く纏まっていなかった遥は、一旦それを保留にして青羽の話を聞く態勢に入る。
「うん、何…?」
発言権を得た青羽は一度深呼吸をすると、普段は余り見せない極めて真剣な面持ちで遥の方をじっと見つめ、そしてとんでもない事を口にした。
「奏さん、俺と付き合おう」
その発言に保健室の空気が一瞬にして凍り付いた事は言うまでもない。
余りにも脈絡なく唐突過ぎた話に、遥はそれまで頭の中で考えていた事がどこかへと吹き飛び完全に思考停止である。
「は、早見君何言ってるの!?」
楓が酷く動転した様子で問い掛ければ、沙穂はかなりの剣幕で青羽に詰め寄っていく。
「あんたバカじゃないの!?」
青羽は沙穂の勢いに気圧されながらも、しきりに首を傾げて自分の発言が不信を買っている事については今一つ納得できない様子だ。
「カナが男子を怖がってるって分かってるでしょ!?」
その問いに青羽が首を縦に振ると、沙穂は一層険を増して今にも掴みかからんばかりの勢いを見せる。
「じゃあ何でこのタイミングで告白とかする訳!? 頭おかしいの!?」
沙穂の口にした「告白」という言葉に青羽は「えっ?」と声を上げてから、急に慌てた様子になって飛び上がらんばかりの勢いで椅子から立ち上がった。
「ち、違う! そうじゃなくって!」
突然の否定と共に青羽は顔を青くしながら何やらブツブツと呟き、何か気付いた顔になったかと思うと今度は頭を抱えてへなへなとその場にしゃがみ込む。
「うあぁ…俺マジで最悪だ…」
自己嫌悪一杯にそうこぼした青羽は、それから力ない動きで立ち上がって、遥から少し椅子を遠ざけながら、そこに崩れ落ちる様にして腰を下した。
「ちょっと…!」
厳しい視線と口調を突き付ける沙穂に、青羽は左手で自分の顔を覆いながら、右手を付き出し「待って!」とストップを掛ける。それから過去最大級の気まずい顔で遥達三人を順に見回していった青羽は、先程の飛んでも発言を弁解すべく必死になって話し始めた。
「えっと…俺が言いたかったのは、付き合ってるフリをするのはどうかって事で…、傍で彼氏がガードしてるってなれば、大半の連中は諦めるだろうし、そうなれば奏さんは安心できるかと思ったんだ…」
その役割を自分が担うのはどうだろうかというのが正確な意図で、先程は気が逸って言い損ねてしまったのだというのが青羽の言い分である。言葉足らずも良い所でそそっかしいどころの話ではない。
「そ、そういう事かぁ…」
真相が明らかになった事で楓はかなり安心した様子で小さく溜息を洩らし、それまで愕然とするばかりだった遥も我に返ってほっと胸を撫で下ろす。
「どうかな、奏さん、俺と付き合ってるフリするのは…?」
青羽は引き続き気まずそうな顔で尋ねて来たがしかし、これに関して遥の解答は決まり切っていた。
「ごめん無理」
間髪容れない遥の拒絶に青羽は「まじか…」と力なく呟きがっくりと項垂れる。
「早見が彼氏役ってのはねぇ…」
沙穂が憐れみを含んだ視線でしみじみとそんな事を言うと、青羽はその理由が分からないのか不思議そうな顔をした。
「俺じゃ奏さんに釣り合わないって事…?」
青羽のズレにズレまくったその発言に楓が苦笑してかぶりを振る。
「早見君と付き合ってるなんて噂になったら、カナちゃん他の女子から目の敵にされちゃうよ」
その指摘に関しては青羽も思うところがあったらしく「あぁ…」と力なく頷き、自分が何故拒絶されたのかをようやく理解した様だ。
「あ、でも、早見君の案自体は良いと思うよ?」
落ち込む青羽をフォローする楓に、沙穂も発想そのものは悪く無いと認めて同意の頷きを見せる。
「ただ誰を彼氏役にするかよねぇ」
沙穂が少々難しい顔をすれば、楓も首を捻って「うーん」と考え込んでしまう。
「彼女が居る人は無理だよね…となると…、あっ…須藤君とかどう?」
完全に思い付きで上げられたその名前に、それを口にした当人である筈の楓も含めて全員が微妙な表情になった。人間山脈の異名をとる程の巨漢である須藤隆史と小さな幼女の身体を持つ遥の組み合わせは誰がどう考えてもアンバランスこの上ない。
「須藤じゃ彼氏ってよりボディガードねぇ…」
呆れた顔で難がある事を示す沙穂に、遥も同意して若干引きつった顔で溜息をついた。
「そもそも、須藤君とは全然話した事無いし…」
須藤隆史は遥とはまた違った意味で目立つ存在ではあるが、性格は寡黙で口数は少なく、クラス内でまともに喋った事がある者は殆どいないだろう。勿論遥もそうだがしかし、それは裏を返せばそんな殆ど接点のない須藤隆史の名前がこの段階で上がってしまう程、高校における遥の友好関係がごく限られた物である事の証明でもあった。
「せっかくの早見君が考えてくれた提案だけど、相手役が居ないんじゃ難しいね…」
早くも候補者ゼロの状況に楓が悩まし気に首を捻る。
「須藤はどうか分かんないけど、奏さんの彼氏役とかクラスの男子は大抵の奴が喜んで引き受けると思うけどね…」
発案者にも拘わらず早々に候補者から外された青羽は、どこか不貞腐れた様子で些か投げやり気味だ。
「それは…ちょっと…」
そもそもクラスの男子に異性として注目されている事に恐怖した遥としては、クラスメイトとは言えど、まともに喋った事も無い相手と付き合っているフリをする等到底考えられない。
「あっ、そうだ! 塚田先輩は?」
今度は自信ありげに閃いた顔を見せる楓であったが、遥はそれを全力で否定した。
「絶対無理!」
遥の余りに力強い拒否反応に楓は残念そうな顔でしょんぼりとしてしまう。
「すごい絵になると思ったんだけどなぁ…」
晃人は確かに学内では現状最も遥に近しい男子生徒と言えるかもしれないが、学園の王子様とも揶揄される存在だけあって、体面を考えれば青羽と同等かそれ以上にリスキーな相手である。
「絵になるとかの問題じゃないよ…」
思いがけず上がった晃人の名前に戦々恐々とする遥だが、その名前を切っ掛けに今朝あったばかりだったもう一人の塚田である智輝の事をふと思い出した。
「あー…うーん…」
事情を知ってくれているし、比較的友好的な間柄でもあるので適任と言えば適任だ。ただ智輝はクラスも違っているし現在は部活動に勤しんでいる様なので、遥としては妙な事を頼んで変な負担を掛けるのも何やら申し訳ない気がしてならない。
「他のクラスに仲の良い男子とか居るの…?」
妙に恨めしそうな青羽の問いかけに遥は苦笑しながらも、やはり智輝を巻き込むのは止めた方が良さそうだと結論付けて別の事で言い繕った。
「えっと…、そう言えば放課後に晃人君と会うんだったなーって…」
その事は沙穂と楓には既に伝えてあったため、二人もそれを思い出して「あぁ」と感嘆の声を上げる。
「会長が彼氏役ってのは無しにしても、相談してみるのは良いかもね。あたしらが思いつかない様な良いアイディアくれるかもしれないし」
晃人は生徒会長を務める程の人物なので、沙穂が言う様に自分たちの考え及ばない事を提案してくれそうだという期待感が持てるのは確かだ。
「そうだね、じゃあこの話は取りあえず晃人君に相談するって事で」
遥のこの発言で問題は放課後へ先送りされることが決まり、この話題はここで打ち切りである。青羽は自分の提案が手離れしてしまった事に不服そうではあったが、それでも異論は唱えてはこなかった。
「それじゃあ、そろそろお弁当にしよっかー」
話が一段落して楓が昼食にする意図を告げると、保健室の壁に掛けられた時計をチラリと見やった青羽がかなり慌てた様子で椅子から立ち上がる。
「ヤバっ! そろそろパン屋帰っちゃうよ!」
青羽は弁当の持ち合わせがなく、昼休みにやってくる移動販売のパン屋で昼食を購入する予定だったようだが、時既に昼休みは半分を経過しており、時間的に言ってギリギリだろう。
「奏さん、ほんとごめんね!」
青羽は最後に今一度遥に向って頭を下げると、昼食を確保すべく慌ただしく保健室を飛び出して行った。
「なんか…悪い事しちゃったかな…」
自分のせいで青羽が昼食にありつけなかったとしたら、遥としては非常に申し訳の無い限りである。
「まー、女子がいくらでもお弁当分けてくれるんじゃない?」
沙穂の言い様に楓が少々遠い目で「そうだねー」と同意して頷くと、遥も納得してその後三人はガールズトークに話題を切り替えお弁当タイムへと突入だ。この際遥が昨晩賢治とどうなったのかを二人から追及され、色々と思い出して赤くなったりしどろもどろになった事は語るべくもない事柄である。




