1-6.思い出
翌日、賢治と会うと決心を固めた遥は張り切っていた。極力前向きに、余計な事は考えないように努め、リハビリにはいつも以上に力が入った。賢治は見た目で人を判断しない。そう確信した遥はそれならば自分もそれなりの覚悟を見せようと、昨日響子が置いていった十五歳男子のメンタルで装うにはあまりにも少女趣味な例のフリルとリボンのパジャマに袖を通すことすら厭わなかった。その可愛らしいパジャマは想像以上に今の遥の外見にマッチしており、ただでさえ愛らしい外見を無類のものへと昇華させた。そんな遥の様相は院内で大変に人目を惹き、看護師から始まり、他の入院患者や見舞客達、しまいには回診に訪れた諏訪医師にまでも「可愛いね」と言わしめる結果となったのだ。
午前中だけで可愛いという単語をうんざりするほど浴びせられた遥は、やはり止めておけばよかったと後悔をするも最早後の祭りだった。
可愛いのバーゲーンセールに辟易とした遥は、一人病室で昼食を済ませ午後の過ごし方について思案する。賢治の事についてはもうさほど不安はなかったが、それでも懸案すべき事柄が山積みだった。この身体になった事で今後の生活その物がどうなるのか遥には未知数なのだ。何もせずにいるとまたあれこれと考えネガティブな思考に陥ってしまいそうなので何かしていたい。遥は思案の末病院内の売店にはいくらかの本が売られていた事を思い出す。幸い響子が何かの時のためにと置いて行った幾ばくかのお金がある。本の数冊くらいは買えるだろう。
善は急げと遥は車椅子に乗り移り、売店は確か一階ロビーの脇だったかと記憶をたぐりながら自室の戸に手を掛ける。病室の戸がノックされたのはそんなタイミングだった。
父や母が訪れるにはまだ時間は早く、諏訪医師の回診は昼食前に済ませたばかりだ。遥は一瞬考えたがおそらく昼食の食器を下げに来た看護師だろうと思い至り無警戒に手にかけた戸をそのまま開け放つ。しかし、そこに立っていたのは遥の予期せぬ人物だった。
「ハル…?」
そう呟かれた声に遥の全身が粟立つ。その声も、その呼び方も、遥は良く知っている。どうしたって間違えようがない。それは遥が生きてきた十五年間で最も多く聞いた物と言っても過言ではない。
「けん…じ…」
無警戒に開け放った扉の先に立っていたのは紛れもなく賢治だった。記憶よりも幾分か大人っぽくなってはいたが、その人物を見紛うはずはない。完全に不意打ちを食らった遥は自分でもあり得ないと思うほど間の抜けた調子でその名を口にするのが精一杯だった。
昨日遥が賢治に会うと決意しそれを聞き届けた正孝は、賢治には自分が責任をもって連絡しておくと約束してくれていた。そして律儀な性格の父は賢治が訪れる日時をあらかじめ知らせてくれるだろうと遥は踏んでいたため、その知らせがない以上賢治との再会はまだ先の事だと思い込んでいたのだ。それがそもそもの誤算だった。
昨晩正孝は病院から帰宅すると約束通り可及的速やかに賢治と連絡を取った。そして賢治はその報を受け明日会いに行くと素早く決断した。遥は計算していなかった、父正孝と親友賢治のその迅速な行動力を。そして自分が今その迅速さに対応できる連絡手段を持ち合わせていなかった事を。
「入ってもいいか?」
不意を食らって病室の入口で硬直する遥に賢治は少し苦笑してそう尋ねる。鳩が豆鉄砲を食らったがごとく呆然としていた遥は賢治のその言葉に我に返ると反射的に車椅子を後退させた。賢治はそれを了承と受け取り一歩室内へ踏み込み、病室をぐるりと見渡すとベッド脇に置かれた来客用のパイプ椅子を発見しそちらの方へ歩を進めた。遥は一瞬遅れてそんな賢治の後ろを慌てて車椅子で追う。パイプ椅子までたどり着いた賢治はベッドの方へと向いていた椅子を自分の後ろを追いかけてきた車椅子の遥へと向き直し静かにそこに腰を落ち着け二人は向き合う形となった。
遥にとってこのタイミングでの再会は完全に予定外で全くの不意打ちだ。話したい事は山ほどあるはずなのに、今はそのどれもこれもが上手く纏まってはいない。なんとか考えを纏め上げ言葉にしなければと心が急く。小さくなった遥の身体は正対しては視線が賢治の顔には届かず、広い胸板が目に入るばかりだ。賢治の顔を上目で覗きやるとその表情は至極真顔で、こちらの言葉を待っているのか、それとも親友の変わり果てた姿に戸惑っているのか、ただ微動だにせず遥を見つめていた。そんな賢治の測り知れない様子が遥を緊張させまた同時に焦らせた。
「けんじ、せ、のびた?」
緊張感と焦りに思わず遥の口をついたのはそんな言葉だった。
遥は自分の言葉のあまりの陳腐さに恥ずかしくなり、たまらず賢治から目を逸らす。我ながら酷すぎる。再会して第一声が身長の話題とか親戚のおばちゃんかよ。思わずそんな突っ込みを自分自身に入れる。完全にやらかしたと思いながらも恐る恐る再び賢治の方へと視線を向けると賢治は神妙な顔をしていた。そりゃそんな顔にもなるよ。と遥は自分の間抜けさ加減を呪わずにはいられない。だが次の瞬間賢治はその表情を崩壊させ声を立てて笑い出した。
「おまっ、久々に会って最初の台詞がそれって、親戚のおばちゃんか!」
奇しくも遥が内心で入れたのと全く同じ内容の突っ込みに、遥もそれまでの緊張感から解き放たれたまらず笑いを誘われる。それは遥の良く知るいつも通りの感覚、賢治との他愛のないやり取りの感触だった。
遥と賢治はしばし二人で笑いあう。遥が「ほんとに、そうおもったんだ」そう口にすると賢治の手が無造作に遥の頭に触れ、その少し癖のあるふわふわした髪を搔き乱した。昔から遥よりも頭一つ分ほど背の高かった賢治は良くこんな風にふざけて遥の頭を弄んだのだ。そんな昔と変わらないノリでしばし無造作に遥の頭を弄んでいた賢治は遥の頭からゆっくり手を放し、乱れた遥の髪を少し整えてやってから手を引っ込める。そして今しがた引っ込めたその手の平を見やってから、いつもの落ち着いた声でぽつりと呟いた。
「…お前が小さくなったんだよ」
その呟きが遥の胸にチクりと刺さる。頭に触れた賢治の手は、とても大きく感じられた。かつてそうされた時の感触とはずいぶん違った物だった。遥の心が陰る。かつての様には感じられなくなった賢治の手の大きさ、そして合わなくなった目線の高さ。そうだ、賢治の言う通りだ。変わってしまったのは自分だ。振り払ったはずの「違う生き物」という言葉が再び遥の中で首をもたげる。それは賢治の言葉としてではなく、遥がかつて中学の入学式で男女違う制服を纏った群衆を目にした時に芽生えた遥自身が元々持っていた感情だった。陰った心に自然と目線が下を向く。俯いた先には小さな手と一人では立つこともできないたよりない足。床がずいぶん近く感じられるのは錯覚ではない。
「ぼく、もう…」
違う生き物に、堪らずそうこぼしそうになった遥の言葉を賢治が遮った。
「ハル、みどり屋、覚えてるか?」
賢治のあまりに唐突な聞き馴染みある名称を伴った問いかけに、遥は一瞬きょとんとして、やや間を置いて戸惑いながらも賢治の顔を見上げ「紫ばあさんの?」と共通認識を確認する。
「そう、紫ばあさんのみどり屋」
賢治は満足げに頷いて応える。それは遥たちの住む街の市営プール横に店を構えるいわゆる駄菓子屋で、老店主が白くなった頭髪を紫のカラーで染めている事から、子供達は密かに紫ばあさんのみどり屋と呼びならわしていたのだ。
「ハルはいつもプール帰りにあそこでソーダアイス買って、半分俺にくれたよなぁ」
落ち着いた口調で過ぎ去った子供時代を懐かしむ賢治の目は優しげだった。遥もよく覚えている。懐かしい子供時代。夏休みは毎日母親にもらった百円玉を握りしめて賢治と共に市営プールに行くのが日課だった。五十円がプールの入場料、残りの五十円がおやつ代。遥は少ない軍資金でいかに豪勢なおやつを確保するかいつも考えていたが、賢治が決まって紐くじに挑戦しその軍資金を無駄にしてしまうので遥は結局二人で分け合える一つ五十円のソーダアイスを買う事になるのだ。
「けんじが、ひもくじやるから…」
少しだけ恨めしそうに遥は思い出をなぞる。紐くじは一回五十円で束ねられた無数の紐の中から当たりと繋がった紐を引き当てられれば店にある好きなおもちゃと交換できるという遊びだったが、小学校の六年間で賢治が当たりを引き当てる事はついぞ叶わなかった。因みに賢治のお目当てはモデルガンだったはずである。
「あれぜってー当たり入ってなかったぞ」
賢治は思い返して大人汚いと憤慨してみせる。
「でもほかのクラスで、あたったやついるって」
賢治は当たりを引けなかったし、遥は紐くじに挑戦したことはなかったが、当たりを引き当てた幸運なやつがいるという話は聞いたことがあった。その事を述べると賢治は肩をすくめた。
「それ間島の話だろ? あいつの話で本当だった事の方が少ねーじゃねーか」
賢治のそのしみじみとした物言いに遥は確かにと苦笑する。間島は遥達の同級生で聞きかじったような知識や外聞をさも自分の事の様に風潮して自分を大きく見せたがる、そんな少し困った人物だった。
「プールと言えば、お前よく着替えのパンツ持って来るの忘れてノーパンで帰ってたな」
賢治がニヤリと口角を吊り上げ少し意地悪くそう言った。プールへ行く際は着替えの手間を減らすためにズボンの下に水着を着こんで行く事が当たり前だったため、帰りに履く下着の用意を怠る事が時々あったのは確かだが、よくは言い過ぎだ。せいぜい十回に一回程度の頻度だったはず。少しばかり恥ずかしい思い出に遥の頬がすこし熱くなる。
「そういうけんじは、テレビにえーきょうされて、しばらくノーパンだった」
お返しとばかりに遥は言い返す。何時だったかTVでノーパン健康法なる奇怪な物が取り上げられているのを目にした賢治が一時真に受けて一月ほど下着を履かない生活を送っていたのを遥は知っている。本来ノーパン健康法は睡眠時に下着を着用しない事で締め付け感から解放されリラックスしてよく眠れるという物なのだが、当時まだ子供だった賢治はそれを誤って理解して四六時中下着を着用せず過ごしていた事があったのだ。遥の切り返しにそれを言われると弱いな。と賢治は両手を上げて降参の意図を見せた。
賢治の見せた降参のジェスチャーに遥はふと賢治の家で飼われている犬の事を思い出す。遥にもよくなついていたマルという名前の室内犬で賢治の家へ遊びに行くと、前足を上げてお腹を見せる降参のポーズ、いわゆる服従姿勢を披露してくれた。
「まる、げんき?」
遥がそう問いかけると賢治は「ああ」と短く頷いてから「もう大分歳だけどな」と付け加えた。マルは賢治が小学校へ上がった年に入学祝として飼い与えられた犬なので遥が事故に遭った当時ですでに十歳近く、それから三年を経ているので犬としてはそれなりの年寄りという事になる。
「いつだったか、マルが脱走して、二人で探し回ったっけ」
賢治が目を細めて昔を懐かしむと遥も同様に思いやる。一度不注意でマルが家から飛び出し行方不明になった事があった。遥はその後の顛末に思い至ってふっと小さく笑いをこぼした。
「まる、じぶんでもどってた」
空が暗くなり辺りがろくに見えなくなるまであちこちを走り回って、道行く人に尋ね、散々探し回っても結局二人はマルを見つけられず、意気消沈して帰宅すると何食わぬ顔でそこにいたマルが出迎えてくれたのだった。賢治の母親の話によれば、脱走して三十分ほどしてから戻ってきたのだと言う。
「あん時は参ったよなぁ」
賢治はその時の事を思い返ししみじみとしながら小さくため息をつく。そして懐かしくも他愛ない子供時代の思い出に、二人は顔を見合わせて笑い合った。
それから遥と賢治は、そんな二人ならば笑い合える沢山の思い出を幾つも語らった。
例えばそれは小学校の昼休みに繰り広げられた校庭争奪戦。例えばそれは風邪で休んだ遥の為に賢治が勝ち取った給食のデザート。そんな本当に些細な思い出に始まって、くだらない事が切っ掛けで初めて取っ組み合いの喧嘩をした時の事や、その後二人揃って遥の父親に叱られた事。二人でどこまで歩いて行けるか探検した時の事。その帰り道に二人を妙に不安にさせた見知らぬ街並の事。夏のオリエンテーションで夜中に二人抜け出し並んで見上げた星空の事。中学に上がって初めてスマホを手にして最初に登録し合ったお互いの番号の事。そのスマホで賢治が貰ったラブレターをどうするか語り明かした夜の事。そして高校の合格発表を二人で見に行った時の事。緊張感とその結果に心の底から分かち合えた喜びと、お互い口にはしなかったこの先も共にいられる事への安堵感。そんな二人にだけ分かる物語りの数々を、他人が聞けばどうという事もない、どこにでもありそうな、事実ごくありふれた二人が過ごした十五年間を、遥と賢治はその一つ一つを確かめるように、時に笑い、時に苦々しく、飽きる事無くいくつもいくつも語り合った。
二人で分かつ十五年分、語り合う思い出の数々はいつしか胸の内に数え切れないほどの光となって、それはまるでいつか昔二人で見上げた満点の星空の様になって煌めいていた。
「ハル、お前はハルだよ」
ぽつりと賢治がそう洩らす。それは遥に向けられた言葉というよりも自身に言い聞かせる、そんな呟きだった。遥はそんな賢治のつぶやきに穏やかな気持ちで頷き返す。遥は見失った自分をもう取り戻せていた。胸の内に煌めく思い出の星空が、確かに自分は奏遥だと教えてくれていた。




