3-11.暖かな涙と倒錯の世界
バスに乗り駅前へと降り立った遥は、停留所のすぐ目の前にあるカラオケボックスへと駆け込み、移動中メッセージで確認してあった沙穂と楓の待つ部屋へと飛び込んでゆく。
「ヒナ! ミナ!」
扉を開け放った遥が息を切らせながら二人の名を呼ぶと、中で待っていた沙穂と楓が勢いよく立ち上がった。
「カナちゃん!」
遥の元に駆け寄りその両手をぎゅっと握った楓は瞳一杯に涙を溜めて随分と鼻声だ。もしかしたら通話が切れた後もずっと泣き続けていたのかもしれない。
「カナ、待ってたよ…」
楓に続いて落ち着いた足取りで近づいてきた沙穂も少しだけ涙声で、瞳の端には僅かだがキラリと光を反射するものが窺えた。
「ヒナ…ミナ…、ごめん…ごめんなさい…。ボク…ずっと…」
本当に自分の事を待ってくれていた二人を前にして、遥の胸に沢山の気持ちが溢れ出す。油断すれば感極まって直ぐにでも泣き崩れてしまいそうだった。
「ほら、とりあえず座ろ」
沙穂が背中をポンっと叩いて促せば、楓が握っていた手を引き、三人は遥を中心にボックス内のソファーで肩を寄せ合う様にして腰を下ろす。両肩に触れる沙穂と楓の暖かな体温を感じとり、二人が傍に居てくれている事を心から実感した遥は、結局は気持ちが抑えきれずにポロポロと涙をこぼし始めてしまった。
「カナ…大丈夫だから…」
泣き出してしまった遥の様子を目にした沙穂はうっすらと微笑み、遥の頭に手を回し自分の肩へと抱き寄せる。
「昨日はごめん…、あたしちょっと気が動転しちゃってさ…」
沙穂はそんな風に言って遥の事を責めもせず、むしろ自らの非を悔いる様にして自嘲気味な笑顔を見せた。涙で言葉の出ない遥が、悪いのは自分だと感じ顔を上げて左右に首を振ると、沙穂は「いいの」と穏やかに応えてまた遥の頭を抱いて肩に寄せた。
「あんな態度とったら、カナが傷付くってちょっと考えれば分かった筈なのにね…」
沙穂の言葉と、そこに込められた優しさが、遥にはどうしようもなく堪らなかった。傷つけてしまったのは、裏切ってしまったのは他でもない自分なのに、沙穂が謝る必要何てないのに、そう思うと遥はもうただただ泣けてきて、そんな遥に釣られるように楓も「カナちゃぁん! ヒナちゃぁん!」と声を上げて豪快に泣き出してしまった。
涙もろい友達二人に沙穂は小さく苦笑すると、遥のちょっと癖のあるふわふわとした髪を優しく撫でつけながら自分の思っていた事を一つ二つと打ち明け始める。
「あたし、カナがずっと何か悩んでるのは気付いてたんだよね…」
遥がいつもどこか物憂げで、何か自分達に気兼ねしている様子だったのを、沙穂は傍に居ながらずっと感じ取っていたのだと言う。
「昨日その理由が分かった時は、そりゃあショックだったけど…」
そこまで言った沙穂の表情は、昨日生徒会室を立ち去る間際に見せたのと同じ、あの寂し気な笑顔を浮かべていた。遥はその表情から胸の奥がズキリと痛み、堪らず顔を上げて口を開けかけたが、沙穂はそれをさせず再度遥の頭を自分の肩へと抱き寄せた。
「聞いてカナ…あたしね、騙されてたとかそんなじゃなくって…、今までカナを無理に付き合わせてたのかなって考えちゃって、それでちょっと辛かったの…」
それが昨日生徒会室を一人で立ち去り、その間際に見せた表情の意味だと、そう振り返った沙穂はどこかバツが悪そうだった。
罪悪感から自責の念を増やす一方だった遥は、沙穂がそんな風に気に病んでくれていた事に唯ひたすら涙がこぼれ出た。沙穂は益々気持ちと涙を溢れさせる遥を一層優しい手つきで撫でやると、少し苦笑交じりに笑う。
「本当はやっぱり重い病気なのかなって、深読みもしてたのよ?」
その事は一度遥が否定した事ではあったが、それでも何かと遠慮がちでいる遥の態度から、それは周りを心配させないための優しい嘘なのかもしれないと、沙穂はそこまで考えた様だった。
「だからさ…」
沙穂はそこで一度言葉を止め、遥の頭を肩から離し真っ直ぐに瞳を見つめて少し照れくさそうに笑う。
「今は正直、ホッとしてんの」
そう言って沙穂はまた遥の頭を肩に寄せ、その髪を飾っていた薔薇のヘアピンを愛おしそうにそっと指先でなぞった。
「せっかく友達になったんだもの」
出会ったあの日、沙穂はその言葉を使って遥と関わって行く事に覚悟を示し、そして今また同じ言葉で遥がここにいる事を、これからも居続ける事を歓迎してくれていた。遥は依然涙を溢れさせながらも、「友達」と今でも言ってくれた沙穂の言葉と、沙穂の示してくれた気持ちを強く胸に抱く。
「い、今まで…本当の事…言えなくて…ごめんなさい…」
涙声でたどたどしく遥が想いを口にすると、沙穂は目を細めて優しく微笑んだ。
「あたしも…気付いてあげられなくてごめん…。ミナは気付いてたのにね…」
その言葉と共に沙穂はただ泣く一方の楓をちらりと見やって苦笑する。思えば楓はかなり早い段階から事情を知りながら、それでもずっと友達として接してくれていたのだ。そして今も、こうしてまるで自分の事の様に泣いてくれている。
「ヒナ…ミナ…」
責めないでくれている沙穂、泣いてくれている楓。遥はそんな二人を前にして、今まで本当の事を告げられなかった事に後悔の念を強めながらも、心に灯った暖かな気持ちを真っ直ぐに前へと向ける。
「ボク…ボク…」
二人がこれからも友達でいてくれるのならば、もう畏れる事は無い。ならば今こそ、自分の口から、自分の言葉で二人に伝える時だ。
遥は顔を上げ、胸前で両手をぎゅっと握り、涙と共に心を紡ぐ。
「ちゃんと…女の子じゃなくて…ごめんなさい…!」
今の身体になった当初は、自分の身に降りかかった理不尽な運命を呪いもした。でも今はもう違う。
「ボク…二人が大好きだから…! だから…! だから…!」
だから、普通の女の子として、だから、普通の高校生として、二人と何の気兼ねもない、何の変哲もない普通の友達でありたい。遥は今、そんな風に思えていた。
「カナ…」
遥の想いを聞き届けた沙穂は短く頷くと、その特異な成り立ちから悩み、畏れ、苦しんでいた遥の胸の内を思い遣る様に一層優しい眼差しを見せる。
「カナは同じだよ…。あたしらと同じ…普通の高校生だよ」
初めて出会ったあの日の様に、その言葉に遥の心が軽くなってゆく。今その言葉は自分の境遇を悲観するばかりだった遥にとって、救いであり、また許しでもあった。
沙穂がまだ自分を同じ高校生だと言ってくれているのならば、そしてまだ友達でいさせてくれるのならば、もう二度と手放したりはしない。そんな思いから遥が沙穂と楓の袖をキュッと掴むと、それを目にした沙穂がフッと顔をほころばせた。
「これであたしらより歳上で元男なんて、全然説得力ないよ」
冗談めかしてそんな事を言った沙穂は微笑みながら真っ直ぐな瞳をつくる。
「カナが昔どうだったかなんてあたしらは気にしない。初めて会った時からカナはカナだった。だから今までも、これからも、あたしらは変わらず友達だよ」
沙穂が淀みなく自分の気持ちを告げると、それまで遥以上にワンワンと泣く一方だった楓もガバッと顔を上げて勢いよく遥の方へと身を乗り出してきた。
「あ、あのね…カナちゃん…!」
楓は泣き腫らした赤い顔で眼鏡の奥の瞳をうるうるとさせ、遥の手を気持ち一杯にぎゅっと握りしめる。
「あたし達もカナちゃんの事大好きなんだよ!」
そして楓はまたわーっと声を上げて泣き出してしまった。そんな楓の様子に沙穂はちょっと呆れた様子で小さく溜息を付きながらも、遥に向って満面の笑顔を向ける。
「まぁ、そういう事だよ…!」
二人の想いを前に遥の涙は止まるどころか一層その粒を大きくする。ただそれは悲しみに暮れていた頃の冷たい涙とはまるで違う。沙穂と楓の想いを胸にした今、それは心を幸せで満たす暖かな涙だった。
「ヒナ…、ミナ…ありがとう…! 二人とも…大好きだよ…!」
涙ながらに遥が改めてその想いを伝えると、既に大泣き状態だった楓がその泣きっぷりを一層エスカレートさせ、それに釣られて遥も益々涙を溢れさせる。沙穂はそんな二人を若干呆れながらもただ優しく見守り続けた。
ひとしきり泣いた遥と楓がようやく落ち着きを取り戻すと、二人を見守りながら自分の髪をくりくりと弄んでいた沙穂がふと思い出した様に「そういやさ」と口を開く。
「カナの好きな人って男なの? 女なの?」
遥に誰か想い人がいる事を以前から察していた沙穂は、元男の子である遥が恋をする相手の性別は一体どっちなのだろうかと、そんな何気ない疑問を抱いた様だ。だが、その問い掛けは遥を少々アンニュイな気分にさせてしまう物だった。
「えっとぉ…」
遥の想い人である賢治は言うまでも無く男であるのだが、その事柄は遥にとっては色々と複雑である。いくら遥が形に囚われ易く、女の子として生きていくと覚悟を決めていようとも、その精神面は依然として男の子としての自意識を残したままなのだ。その上で客観視してみれば、賢治に対する恋心は凡庸な遥の考え方では些かアブノーマルな嗜好に分類される物だった。
「うー…」
賢治に対して恋心を抱いてしまったその事については、最早抵抗も後悔もありはしないのだがしかし、いったいそれをどう無難に説明したらいい物かと遥は頭を悩ませる。
「あっ!」
遥が言いあぐねていると、その横で楓が何やら思い付いたのかパッと目を輝かせて身を乗り出して来た。
「もしかして花房さん?」
遥と美乃梨がかなり親しい間柄である事が今日の出来事から容易に想像できたのだろう。それ故楓は美乃梨の名前を上げた様だったが、これに関しては単なる思い違いである。
「美乃梨は友達として好きっていうか…。ボクが事故で助けたのが美乃梨で…、それで色々とあって、仲は良いと思うけど」
遥が訂正と共に美乃梨との関係について簡単に説明すると、楓は予想が外れた事に若干がっかりした様子ではあったが「そっかぁ」と一応は納得した様だ。
「それであの子、カナの事あんなに慕ってんのね」
沙穂の方は大いに納得したという感じで頷きを見せ、それから自分の肘を抱えて頬杖を突きながら首を傾げさせる。
「で、結局どっちなの?」
沙穂によって本来の疑問が再度投げ掛けられると、遥はまた返答に困ってしまった。
「えっとぉ…」
元男である自分が男である親友に恋をしている等という事はやはり普通に考えたらおかしいだろうかと、遥が上手く答えられず言葉を濁していると、突然ブレザーのポケットに入れていたスマホが着信音を響かせた。
「あっ…ごめん…ちょっと電話が…」
家にいない自分を心配した母の響子からだろうかと、遥はそんな予測を立てながら、一先ず沙穂の疑問に対する返答を保留に出来るいい口実ができた事にほっとしながらスマホを取り出し画面を確認する。しかしほっとしたのも束の間、画面に表示されていた名前は遥の予想に反してよりもよって賢治からであった。
遥は絶妙な間の悪さを見せる親友を恨めしく思いつつも、出ない訳にもいかず渋々ながら応答のアイコンをタップする。
「賢治?」
遥が耳元にスマホを当てて応答すると、賢治は「ああ」と簡潔な挨拶を述べて早速と要件を話し始めた。
『今駅前のロータリーに居る』
唐突なその言葉に遥は思わず「えっ」と声を上げて困惑してしまう。間の悪い通話を寄越して来たばかりではなく、直ぐ近くまで来ているなど遥にとっては予想の斜め上も良い所だ。
『ハルを迎えに行ってくれって、小母さんに頼まれてな』
その一言で賢治の要件を大凡理解した遥だったがしかし、先程沙穂から向けられた「好きな人」という質問の件もあって、今はとても平静な心持で賢治と顔を合わせられる気がしない。
「えーとぉ…、まだしばらくは出れないかなぁ…?」
ルームの使用時間にかこつけてこのまま賢治には引き取ってもらおうと、遥がそんな逃げ道を見出しかけたそのタイミングで室内のインターフォンがベルを鳴らす。それの意味するところはルームの退出時間が間近に迫っている事に他ならない。
このままでは間もなく賢治と対面する事になってしまう遥は変に気が焦って、ルームの使用時間を延長させるという簡単な知恵すら思いつかずひたすらに困惑し、そうこうしている間に楓がインターフォンに出て「わかりましたー」と答えてしまっていた。
『後どれくらいだ? 何なら俺はどっかでコーヒーでも飲んで待ってるが』
遥の焦りを他所に賢治はいつもの落ち着いた調子で、都合を合わせられる懐の広さを見せるが、時既にその必要もなく沙穂と楓はもう帰り支度を開始させている。
「あー…大丈夫…。もう時間だったみたい…」
根が素直な遥が正直にありのままを伝えてしまうと、賢治はどこかほっとした声で「分かった」と答えそこで通話は打ち切られた。こうなってしまってはもう遥は賢治のお迎えを甘んじて受け入れるしかない。
遥が賢治との通話を終えてスマホをポケットに収めると、すっかり帰り支度を整えた沙穂が少し首を傾げて何気なく問い掛けて来きた。
「賢治って誰?」
その質問が先刻された想い人の件と重なって、遥の顔は自然と赤みを帯びてゆく。
「えっと…幼馴染で、今迎えに来てくれてるって…」
顔を赤らめながらももじもじとして質問に答える遥に、沙穂がスッと目を細めて、いつも気だるげなその表情をニヤニヤとさせた。
「なる程ねぇ、幼馴染かぁ」
これは完全に勘付いている顔だと察した遥が益々顔を赤くすれば、その一方で楓が少々意外そうに眼鏡の奥でその瞳を丸くする。
「カナちゃんの好きな人って男の人だったんだ。なんか倒錯的だねぇ…」
何故か少しうっとりとした表情になった楓の物言いに、遥は内心ギクリとしながらも慌てて弁明を図った。
「け、賢治はその…と、特別で! 男の人全般が好きって訳じゃないから…!」
若干墓穴気味の遥に一層にやけ顔になった沙穂は、遥の肩に腕を回してその小さな身体を抱え込む。
「とりあえず、あたしらも友達として挨拶しとかなきゃね!」
そんな事を言いながら声を押し殺すようにして笑った沙穂は、早速と遥を伴い歩き出す。二人のやり取りを見ていた楓もどこかウキウキした様子でそれに付き従い、部屋を出た三人はカウンターで清算を済ませ、いよいよ賢治の待つ駅前のロータリーへと向かってゆく。遥はこうしてまた三人一緒に居られる事を嬉しく思いつつも、その一方で二人に賢治を紹介しなければいけない事には少々複雑な心境であった。




