3-10.友達
「遥ちゃん、落ち着いた?」
耳元で優し気な声で問い掛けてきた美乃梨に、遥はコクコクと小さく頷きを返す。思いがけず優しくされて堪らず小さな子供みたいに泣いてしまった事は、少々気恥ずかしくはあったが、遥はどこかで救われた想いでもあった。
「美乃梨…ありがとう…」
遥が素直な気持ちで感謝の言葉を口にすると、美乃梨はフフっと小さく笑い声を漏らし、未だ膝に抱いたままの遥を愛おしそうにキュッと抱き締めた。
「遥ちゃんがあたしの前で泣いてくれたの、初めてだね」
遥もその言葉にこれまでの事を振り返って、そういえばそうかもしれないと思い至る。今の身体になって目覚めてから、様々な事柄を前にめっきり泣き虫になっていた遥だが、確かに美乃梨の前で感情を露わにして泣いた記憶はなかった。
美乃梨は普段元気で明るいその性格上、そこに居れば場の空気をも明るくしてしまうし、また在りし日の病院での一幕を思い返せば、人の感情に共感しやすい一面から誰よりも先に泣いて周囲の気持ちを引き受けてしまうのだ。
それだけに今回美乃梨が見せてくれた優しさは、遥にとってはまさしく思いがけない物で、それを前にして他の誰に見せた事の無い大泣きをしてしまったのは仕方のない事だった。
「ねぇ…美乃梨…」
改めて感謝の言葉を口にしようとした遥は、少し冷静さを取り戻した頭で、美乃梨の膝の上で抱きかかえられている現在の態勢について、今になって改まった気まずさを覚えてしまう。
「あの…そろそろ…放して…」
遥がもぞもぞと身じろぎしながら解放して欲しい旨を申告すると、美乃梨は意外にもあっさりと抱擁を解き、その上で遥の脇を両手で支え自分の膝の上からひょいっと降ろしてくれた。
「またいつでも甘えてね!」
振り返って向き合う形になった遥に、美乃梨は実に明るい朗らかな笑顔で自分の膝をポンと叩いて見せる。
「ありがとう…」
美乃梨の真っ直ぐな笑顔に小さく笑い返した遥は、気恥ずかしさを覚えつつも、その心遣いについてはただ嬉しく感じられていた。それは美乃梨に先立って電話を掛けてきてくれた亮介に対してもそうだ。遥は改めて自分は周りの皆に支えられているのだと実感して、そんな皆の気持ちを無駄にしない為にも前を向かなければと気持ちを強く持つ。
「よしっ…」
気を吐いて意気込んでみた遥だったがしかし、美乃梨が人差し指でトンっとその薄い胸の中心に触れてまた明るく笑った。
「ほら、駄目だよ、力抜いて?」
その言葉に遥はふっと気持ちが緩んでまた少し涙が出そうになってしまう。
「で、でも…」
ほんの僅かばかりの強がりと戸惑いを見せる遥に、美乃梨は目を細めていつもより幾分も柔らかく微笑んだ。
「あたし、遥ちゃんに恩返しをしたいの。だからあたしの前では無理しないで?」
それは、様々な負い目から常に誠実であろうとしていた遥の想いに似た、遥に命を救われた美乃梨だからこそ示せる、そんな思い遣りの形だった。
「そっか…分かったよ…美乃梨」
美乃梨の想いに心を解きほぐされた遥が、素直な気持ちになって頷きを見せると、美乃梨はパッと表情を明るくしていつも通りの朗らかな笑顔で笑う。
「じゃあ、とりあえず賢治さんでも呼ぶ?」
そんな事を言いながらスマホを取り出しちょっと悪戯っぽく笑う美乃梨だったが、遥は不意に上げられた想い人の名前に思わず赤くなってかなり慌ててしまった。
「な、なんで賢治…!?」
ここの所、大学とバイトで忙しくしている賢治とは余り会えていなっかったので、確かに会いたいと思う気持ちはある。しかし今この場面でとなると色々と不味い気がしてならない。美乃梨によって心を丸裸の如く素直にされてしまっている今、賢治と相対したら一体どんな事になってしまうのか正直分かったものではないのだ。
「じょーだんだよー、もー遥ちゃん可愛いなぁ」
クスクスと笑いながら美乃梨がスマホを脇に置いたので遥は一先ずほっと胸を撫で下ろす。しかし美乃梨が賢治の名前を上げたのは、遥にしてみれば少々意外であった。賢治と美乃梨はその立場はそれぞれとしても何かと自分を巡って争うライバル的な物だという事は遥もなんとなく認識しているのだ。
「びっくりするからやめて…」
遥が顔を赤くしてもじもじしながら抗議すると、美乃梨はまたクスクスと声を立て実に良い笑顔である。実際の所、賢治に対する遥の恋心に気付いている美乃梨は、賢治に嫉妬しながらも、近頃では恋する遥もまた格別に可愛いとそれはそれで良いように思っていた。
「それじゃあねぇ…」
美乃梨は少し首を傾げて考えを巡らせてから、ややあってやわらく微笑み真っすぐな眼差しで遥の瞳をじっと覗き込んだ。
「楓ちゃんと沙穂ちゃんの事、聞かせて欲しいな」
その言葉に遥ははっと息を飲む。美乃梨が耳元で優しい言葉を囁いてくれたあの時から、その話題が避けられない物である事を遥も薄々は感じていた。どのような経緯でかは定かで無いにしろ、美乃梨が事情を知ってくれているのは確かで、だからこそあれほどの優しさを見せたのだという事は遥にも分かっていたのだ。
「ね、遥ちゃん、一人で抱え込まないで?」
美乃梨の柔らかい笑顔を前に、いつも以上に素直になっている遥の心が吸い寄せられてゆく。その同じ方向を向いて寄り添ってくれている思い遣りと、何よりも同じ女子高生という立場にある美乃梨にならば、遥はその胸の内にある想いを打ち明けても良いと、そう思えていた。
「うん…」
遥は一度小さく頷きをみせ、美乃梨の笑顔に見守られながら、ぽつりぽつりと沙穂と楓の事を語りだす。入学式の日に初めて話をして、自然と連れ立って行動する様になった沙穂と楓。派手な外見に反して根が真面目で誠実な沙穂。優しくて恥ずかしがり屋で甘えたがりの楓。女の子として、女子高生として、初めて出来た特別な友達。そんな二人と過ごしてきたこれまでの高校生活。授業中ちょっとしたメモを交換し合ったり、休み時間に勉強を教え合ったり、毎日一緒にお昼を食べて他愛のない話をしたり、そして放課後はいつも三人で駅前のアーケードを訪れ、時にちょっとした贈り物をし合ったり、そんな高校生としてのありふれた日々の話。お互いを愛称で呼び合う様にまでなっていた二人の事をどれ程好きになっていたか、どれ程大切に思っていたか、そして三人で過ごしていた時間がどれ程掛け替えの無いものだったか、そんな宝物の様な話を、遥は一つ一つを愛でる様に丁寧に丁寧に語っていった。
「ボク…二人の事がもう大好きだったのに…でも…、ボクは…」
それまで、目を伏せながらもどこかキラキラと輝いていた遥の瞳が俄かに光を失っていく。昨日の事が頭を過り、また強い喪失感が胸の奥から押し寄せる。二人を傷つけてしまった。二人を裏切ってしまった。大好きだったのに、大切だったのに、そんな二人を失ってしまった。そう思うと遥はもう、それ以上なにも語れなくなった。
「うっ…うぅ…」
堪らず遥が涙をこぼし始めると、美乃梨の手がそっと頬に触れる。
「遥ちゃん…」
遥の想いに共鳴したのか、美乃梨もその瞳に涙を溢れさせ、それでも柔らかく笑って、自分の事には構わず遥の涙を優しく拭い去った。
「大丈夫だよ。遥ちゃんの気持ち、ちゃんと二人に伝わってるよ…!」
美乃梨がそう言ったその直後の事だ。
『カナ…!』
『カナちゃん!』
室内に響いたのは、聞き間違えようもない、高校生活を再開させてから遥が一番多く聞いていた、今一番聞きたいと思っていた、そんな沙穂と楓の声に他ならない。
「ヒナ…ミナ…?」
突然の事に遥は呆然となって思わず周囲を見渡したが、部屋の中に居るのは自分と美乃梨の二人だけだ。それでも、確かに聞こえたその声は、遥の願望が作り出した幻聴等ではない。間違いなく現実のものとして、ハッキリと二人の声がそこに響いたのだ。
「遥ちゃん」
にっこり微笑んだ美乃梨は、脇に置いてあった自分のスマホを手に取りそれを遥の前に掲げて見せた。
「あっ…!」
美乃梨が手にするスマホの画面を見た瞬間、遥の大きな瞳がまん丸になって一層大きく見開かれる。その画面には通話中を示す表示と、点灯するハンズフリーのアイコン、そして通話相手の名前に「水瀬楓」と大きく表示されていたのだ。
「ほら、遥ちゃん」
美乃梨は一旦自分の手元にスマホを戻すと、一度画面をタップしてそれを遥の手に握らせる。遥は手渡されたスマホと美乃梨を交互に見やって困惑したが、美乃梨に促され、そして二人の声を恋しく思い、恐る恐るとスマホを耳元へと近付けた。
「あ、あの…」
遥が通話口に向かってためらいがちに声を掛けると、スピーカーからガサゴソと何やら動きのある音が響き、そして次には息を吐く様な音が聞こえてくる。
『あー…カナ…あたし…沙穂。昨日はごめん…ちょっと…びっくりしちゃって…』
美乃梨のスマホから響いた沙穂の声は少し震えていた。それから再び何やらガサガサと動く音がすると次には楓の声がスピーカーから鳴り響く。
『カナちゃん…ワタシも…ごめんなさい! ワタシのせいで!』
楓の声は通話越しでもはっきりと分かる程に涙声だった。二人の声が、二人の言葉が、遥の胸の奥深くまでハッキリと響き渡る。
「ヒナ…ミナ…! ボクも…ごめん…、ごめんなさい…!」
遥の瞳から感情と共に大粒の涙がポロポロと溢れ出す。裏切ってしまったのは、傷つけてしまったのは、他でもない自分の方なのに、それなのに、沙穂と楓は自分を責めないでくれている。そんな二人の気持ちを受け、遥の胸の中心でたった一つの願いが燦然と輝き出す。昨日晃人の前で願ったその想いは、今ではより一層確かな、何よりも強い物へと変わっていた。
「ヒナ、ミナ…、ボク…これからも…、二人と…」
遥は顔を上げ、自らの言葉で沙穂と楓に伝えるべく、その願いを真っすぐな気持ちで紡ぎ出す。
「二人と友達でいたい…!」
遥が心から溢れさせた願いを聞き届けた通話の向こうで、楓が声を上げて泣き出してしまったのが微かに聞こえて来た。
『ちょっ…ミナ…んもぉ…』
少し遠巻きに沙穂のそんな若干呆れた様な声が漏れ聞こえて来ると、それから沙穂が小さく咳払いをして通話口に立った気配を示す。
『カナ、あたしら今駅前のカラオケに居るからさ…』
沙穂はそこで一旦言葉を区切って、また遠巻きに「ミナ…! ほら…!」と楓を呼んだが、当の楓はわんわんと泣く一方の様だ。楓がとても話をできる状態では無いと判断した沙穂はまた咳払いと共に通話口に戻る。
『ミナと二人で待ってるから…だから…、カナも早くおいで!』
その言葉の後に「ガナぢゃああん」と号泣する楓の声が響き、沙穂は少々苦笑混じりに「じゃあ」という一言を残し、そこで通話を終わらせた。
「ヒナ…ミナ…!」
二人の声と、二人が示してくれた想いの余韻に遥がポロポロと涙をこぼしながらも茫然となっていると、こちらも瞳一杯に涙を溜めた美乃梨がそれでも明るく朗らかな笑顔で遥の手を掴んだ。
「ほら、遥ちゃん!」
立ち上がって遥を引き上げた美乃梨は室内をぐるっと見回し、壁に掛けてあった制服を手に取りそれを遥の胸へと押し付ける。
「着替えて! 二人の所に行ってあげて!」
美乃梨の笑顔と、差し出された制服を前に、遥ははっと我に返って、かつてない程の勢いで着替えを開始させた。状況は今一よく呑み込めてはいなかったが、沙穂は楓と二人で待っていると言ってくれたのだ。遥が行動を起こすのにそれ以上の理由は必要ない。
あっという間に制服へと着替えを終えた遥は、そのままの勢いで部屋を飛び出して行こうとしたが、ピタッと足を止め自分のスマホをブレザーのポケットに突っ込み、次にはこの春から部屋に導入していたドレッサーの前へと立ち戻る。
パジャマを頭から脱いだせいで乱れていた髪をちょいちょいと手櫛で整えた遥は、次にドレッサーの上に置かれていたジュエリーボックスを開け、その中にある無数のヘアピンの中から迷いなく二本を選び出した。
「よし…っ」
薔薇のヘアピンを左側に、ハートのヘアピンを右側に、それぞれを耳元に刺し、遥は今度こそ準備万端である事を今一度ドレッサーの前で確かめる。
「美乃梨! ありがとう! 行ってきます!」
遥は最後に美乃梨へ向ってパッと明るく華やいだ笑顔を向けると、そのまま部屋を飛び出した。待っていると言ってくれた沙穂の元へ、自分の為に泣いてくれた楓の元へ。
「行ってらっしゃい!」
ただの女の子として、普通の女子高生として、大好きな友達の元へと向かっていた遥を見送った美乃梨は、今日初めて見た遥の愛らしい笑顔にほっこりしてその顔をほころばせる。しかしややあって、人に家に一人残されてしまった自分の状況に気付いて思わず首を傾げさせた。
「あれ…?」
施錠をしないまま立ち去るのは何やら不味い気がするし、かといって本人が居ないのにこのまま遥の部屋に留まり続けるのもそれはそれで気まずい。
「うん…まぁ…いっか!」
自分の状況は少々アレだが、遥が笑顔になった事に比べれば、それは美乃梨にとって些細な事柄だ。成るように成るだろうと楽観的になった美乃梨は、遥の脱ぎ捨てて行ったパジャマを畳んだり、ちょっとした出来心で遥の枕をぎゅっとしてみたりと、一人至福のひと時を過ごすこととなった。
それから美乃梨は、程なくして仕事から帰ってきた響子に見つかり大変怪訝な顔をされたのだが、事情を説明した所特に咎められる事が無かったのは幸いである。




