3-8.目的と願い
残された遥は女子高生として初めて出来た友人達の消えて行った扉をぼんやりと眺め、結局彼女達を傷つけてしまったという深い罪悪感に苛まれ続ける。
彼女達を困らせたくない、裏切りたくないという想いで、距離を取りたいと考えながらも、同時に全く同じ感情から二人の示してくれる好意を無下にはできずにここまで来てしまっていた。しかし、きっとこの状況は彼女達と交流を持ってしまった時点で、遅かれ早かれ訪れたであろう回避できない事柄だったのだ。ただそれがこのタイミングだっただけの事で、きっとそれは仕方のない、あらかじめ決められていた事だったのだ。遥はその痛み続ける胸を圧し、凍える心を持ってそう自分を納得させるしかなかった。
「晃人君…」
独りになった遥は、小さく息を吸ってあと一つ片付けねばならない事柄があるのを思い出し、どこか虚ろな眼差しを対面する晃人の方へと向ける。
「本題に入ろう…」
急転直下の展開を迎えたばかりであるにも拘らず、ある種の性急さすら窺える遥の切り出し方に晃人は戸惑いと困惑の表情を見せた。
「貴女もご友人を追った方が…」
晃人はそう言ってくれたものの、遥はそれが出来る自分であったらどんなに良かっただろうかと、それを出来ないでいる自身を顧みる。今にも泣きだしそうだった楓、酷く寂し気な表情を見せた沙穂、そんな彼女達の事を思い返せば到底後を追えるはずがない。そうさせてしまったのは、間違いなく自分が彼女達と関わりを持ってしまったからに他ならないのだ。
「ボクには…後を追う資格がない…」
虚ろな表情でそう呟き、沙穂と楓の後を追うそぶりすら見せない遥の様子に、晃人は苦々しい表情で深い溜息を付く。
「…分かりました、では先にこちらの要件を終わらせましょう」
遥が動かない事を認めた晃人は、仕方なくといった感じではあったが、ようやく今日わざわざ生徒会室に呼び立てた本来の目的について話し始めた。
「まず、僕の目的は貴女の高校生活を円滑にする事でした」
少々予想外だったその言葉に遥が思わず「えっ?」と疑問の声を上げると、晃人は手振りで焦らないようにと示し事の次第を語り続ける。
「今日はその為の意思確認と、いくつかの提案をさせて頂く積もりでした。その中には対人関係に纏わる事柄も含まれていたのですが…」
そこで一旦言葉を切った晃人は意気消沈した様子で左右に首を振り、強い自責の念を見せた。無理もない、今晃人が語ったその対人関係に纏わる事柄という点において言えば、遥は沙穂と楓を失ったという形で最悪の結果を迎えているのだ。
「このような事態になるとは…想定外でした…」
自らの失策を悔いる晃人だったが、対して遥の凍え切った心はそれをまるで他人事かの様に感じさせていた。その代わりに遥は妙に整然とした思考で今し方語られたその思惑と、先程起こったばかりの一連の出来事を一つの事柄として頭の中で組み上げていく。
特殊な事情を持つ自分の高校生活を円滑にする事を目的としていた晃人は、対人関係という観点から同行して来た沙穂と楓は当然近しい間柄の人間であると理解し、であれば最優先で当たるべき相手だと考えたのだろう。その為彼女達が共にあの場に現れた事を咎めず、どこまで事情に精通しているかを確認した上で話を進めようとした。しかし二人の内、楓だけが正確な情報を持ち合わせており、あの場でそれを開示してしまった事は、先程晃人が口にした様に想定外だったのだ。
「もしかして、晃人君は…進んでボクの素性を二人に喋る気はなかった…のかな…?」
遥が一つ思い当たった事柄を確認すると、晃人は頷きそれを肯定した。
「勿論貴女が彼女達に話している以上の事は語るつもりがありませんでした」
その口ぶりからも、この状況は晃人も想像していなかった思い違いや食い違いによって引き起こされた完全なる不測の事態だった事が窺える。
「一先ず彼女達に対しては、入院生活の長かった遥さんは学校社会には不慣れだという方向で話を進めようとしていたのですが…」
そこへ来てあの思いがけない楓の告白だ。大きな誤算だったと言わざるを得ないだろう。そもそもの間違いはどこだったのか、悪いのはだれだったのか、そんな犯人探しに遥は意味を見いだせないでいたが、それでも幾つかの疑問が腑に落ちた。
「そっか…」
疑問の解消された遥は席を立って生徒会室の入口へと向かってゆく。こうなってしまった今、晃人がしようとしていた提案とやらは最早意味をなさないだろうし、そうであればこれ以上の対話自体にも意味を見出す事などできはしない。遥にしてみれば、後はもう自分が一人孤独な高校生活を粛々と過ごして行けば良いだけの事だった。
「あ…そういえば…」
そのまま退室しようと扉に手を掛けた遥は、最後にもう一つだけ疑問を思いつき晃人の方へと向き直る。
「誰に頼まれたの…?」
何故晃人が突然自分の高校生活をサポートする等という面倒事に乗り出して来たのか、遥はそれを少々不可解に感じたのだった。既知の相手とはいえ、そもそも晃人にとっての自分は兄の友人という程度の相手で特別親しくしていた過去もない。言ってしまえば実に微妙な間柄の人間だ。それにも拘らず晃人が到底自身の利益にはなりそうもないその事柄に取り組もうとしたのは、生徒会長という身分を考慮に入れても実に不自然で、遥はどうしたって第三者の介入を疑わずにはいられない。
「光彦…かな…?」
一番可能性のある第三者として遥は友人であり晃人の兄である光彦の名前を上げたがしかし、晃人は左右に首を振ってその予測は間違いである事を示した。
「あの人がこんな事を人に頼むと思いますか?」
逆に晃人から問われた遥は少し考えて、確かにあの朴とつとした光彦はこんな回りくどい事をするようなタイプではないだろうと思い至る。ただ、そうなると候補者はもういくらもいない。
「じゃあ…誰…?」
遥から再度の疑問を投げ掛けられた晃人は一瞬迷いを見せたが、数度こめかみを指で叩き、それからクライアントが誰であるか明かす決意をしたのか一つ頷きを見せる。
「僕に貴女の事を託したのは…、寺嶌先輩です」
晃人が若干ためらいがちに口にしたその名前は、遥にとっては少々予想外のものではあったが、聞いてしまえば妙に納得できる人物でもあった。
「そっか…亮介か…」
遥は眼鏡を光らせ企み事をする亮介の顔を思い浮かべて弱々しく苦笑する。あの思索好きで謀が趣味の様な亮介ならば全て合点がいくという物だ。
遥にとって本来の同級生である亮介は、晃人とは一年間高校生時代が被っているし、三年間送り続けてくれていたメッセージの中には彼が三年生時に生徒会長を務めていたという報告があった。そしてこれは遥が今の今まで失念していた事だが、亮介のメッセージには、彼が生徒会長を勤めていた際、役員にはまだ一年生だった頃の光彦の弟が加わっていた事も確かに記されていたのだ。亮介が生徒会の後輩であり、共通する友人の弟という立場にある晃人に白羽の矢を立てた事は、実に自然な流れだったのだろう。
「寺嶌先輩は、貴女の事を随分と気に掛けていました」
その言葉に遥は目を伏せ頷き返す。亮介が元男子高校生である自分を慮って善意から動いたのは遥にだって分かる事だ。例えその結果が今のこの状況なのだとしても、亮介には何の責任もありはしない。それは勿論亮介の指示に従ったらしい晃人だってそうなのだ。
「亮介にはボクからお礼を言っておくね…。それじゃ…」
全ての疑問が解消された遥が踵を返していよいよ生徒会室から立ち去って行こうとすると、椅子から立ち上がった晃人の長い腕が遥の手を掴みそれを引き留めた。
「僕が迂闊だったばっかりに、ご友人の件に関しては本当に申し訳ないと思っています」
背中から掛けられたその言葉に、遥は怒りも憤りもせずただ少しだけ寂し気に目を伏せ左右に首を振る。
「晃人君、キミはちゃんと目的を達成したよ…」
確かに対外的に見れば遥は友人を失い散々たる状況だろう。ただそれこそは、遥がこれまで望みながらも、その流されやすく弱腰な性格ゆえに成し得ていなかった事なのだ。
「ボクの悩みは…、これで解消されたから…」
沙穂と楓が自分の元を離れたのならば、少なくとももうこれ以上は彼女達を傷つける事は無い。関係が断たれたのであればもうこれ以上の裏切りもない。
「晃人君、ありがとう…」
遥は感謝の言葉を残し立ち去る意志を見せ、三たび生徒会室の扉に手を掛ける。しかし、晃人はそれでも遥の手を離さなかった。
「ですが僕は―」
晃人は遥の肩に手を掛け自身の方へと振り向かせる。
「泣いている貴女をこのままにはしておけません!」
そう口にした晃人は遥の目元にそっと触れ、その頬を伝おうとしていた一筋の涙を人差し指で掬い取った。
「えっ…」
思いがけない言葉と、思いがけず溢れ出していた自身の涙に、遥の心を凍えさせていたものがピシッと音を立ててひび割れる。
「ぼ、ボク…」
急速に広がっていく亀裂と共に、遥の胸の奥底から、止めどない感情が次々と湧き上がった。
「なん…で…」
溢れ出す感情と共に、脳裏に沙穂と楓の顔が浮かんで、遥の胸を今まで以上に強く締め付ける。ただそれは、何も彼女達を傷つけてしまった、裏切ってしまったという罪悪感や後悔の念からくる物ばかりではない。その胸の奥底には、彼女達を失ってしまったのだという強い喪失感が確かに存在していた。
「僕の目的は貴女の高校生活を円滑にする事です!」
晃人は遥の両肩を掴み、真っ直ぐな眼差しでもって自らの目的を再び口にする。
「遥さん、僕はまだ目的を果たせていない!」
自身の感情と胸の苦しみに揺れる遥を前に、そう口にした晃人の表情は強い確信に満ちていた。
「貴女が本当に願い、望む事を言ってください! 僕はそれに尽力する!」
その力強く熱を帯びた晃人の言葉が、遥の心を凍えさせていた物を一気に溶かし尽くしてゆく。剥き出しになった心で、遥はもう自分の気持ちを偽る事などできはしなかった。
「どう…して…、どうして…!」
どうして自分は彼女達と同じただの女子高生ではなかったのか。どうして同じ普通の高校生として出会えなかったのか。そんなやるせない思いに遥の胸はより一層強く締め付けられる。
「ほ、本当は…! 本当は…!」
彼女達を傷つけたくなかった。裏切りたくなかった。だから距離を置こうとしていた。だからこの状況も受け入れようと思っていた。でも、それは何故だ? 何故そうしたいと思っていたのか? 何故今これほどまでに胸が苦しいのか?
「ボク…ボクは…!」
遥は自身の心に問い掛ける。傷つけたくなかったのは、裏切りたくなかったのは…、そう、沙穂と楓の事が好きだったからだ。女の子として、女子高生として、初めて親しくなれた対等の存在。そんな彼女達の事が、彼女達と過ごせていた時間が大切だったから、二人はもう友達だったから、だから傷つけたくなかった。だから裏切りたくなかった。
ならば、願う事は一つしかない。
「ボクは…、ヒナと、ミナと…友達でいたかった…!」
理屈や理性を超えた、唯の高校生としてのたった一つの願いが心の奥底から強く湧き上がる。それが叶うのならば、それが許されるのならば、それを再び取り戻せるのならば、刺すような罪悪感も、押しつぶされそうになる苦悩も最早厭わない。今ではそれほどまでに、沙穂の示してくれた誠実さや、楓の与えてくれた優さが、二人の見せてくれた笑顔が、そしてなにより三人で過ごした時間が、どうしようもなく愛おしく思えて仕方がなかった。
遥の溢れさせた本当の願いを聞き届けた晃人は力強い頷きを見せる。
「その願い…僕がきっと叶えて見せます」
その言葉と共に再び目元に触れ涙を掬い取った晃人は、まるで遥の願いその物を救い上げてくれているかのようだった。




