3-6.騒動
四月も下旬に差し掛かった頃、午前中の授業を終えた昼休みの教室で遥が沙穂と楓と共に机を囲んで昼食を取っていると、何やら廊下の方から生徒達がザワザワとする声が聞こえて来た。
「何だか騒がしいね?」
既に自分のお弁当箱の中身を綺麗に片付けた楓は、騒ぎに興味を示して教室の入口辺りに目を向ける。遥達の教室は廊下側に窓が無い為、廊下の様子を覗おうとすれば、ガラスの嵌め込まれた入口に目をやるしかない。
「カナ、卵焼きちょーだい」
こちらも既に自分の分を食べ終えている沙穂は別段騒ぎには興味が無いようで、我関せずと遥の小さなお弁当箱からおかずの卵焼きをかっさらい、ノータイムでそれを自分の口に放り込む。
「良いって言ってないのにぃ…」
少し膨れて抗議する遥に沙穂は「いーじゃん」と、悪びれる様子もなく手をひらひらと泳がせた。
「どうせ、カナはいつも残すんだから」
そう沙穂に指摘されては遥に返す言葉はない。ただでさえ今の身体になってから食が細くなっている遥は、近頃その悩める思いもあってか若干食欲不振気味で、いつも昼食を食べ切れずに残してしまっているのだ。
「ちゃんと食べないと大きくなれないよ?」
騒ぎの方に気を取られていた筈の楓が真剣な面持ちで、諭すようにしてそんな事を言ってくると、遥はまだ半分ほど中身が残っている自分の小さなお弁当箱と向かい合う。
「むぅ…」
食欲はあまりないが、このまま小さな幼女であり続けるのは遥としても不本意だ。楓の進言を真に受けた遥は脇目もふらず一心不乱に箸を動かし始めた。
「そんな慌てて食べたって、急に大きくなりゃしないよ」
突如勢いよくお弁当を掻き込み始めた遥に沙穂は少々呆れた顔だ。
「…んっぐっ!」
急激にお弁当を取り込み続けていた遥が、おかずを喉に詰まらせ自分の胸をトントンと叩くと、楓が苦笑して「よく噛まないと駄目だよ」と持参の水筒からお茶をついでくれた。
「ふぅ…」
楓から受け取ったお茶を飲んで遥が一息ついている間にも、廊下側のざわつきは一層大きく、と言うよりも遥達の教室に近づいてきている様だった。
「ほんとにさっきから、やけに騒がしいねぇ」
それまで興味を示していなかった沙穂も流石に騒ぎの大きさに無視できなくなったのか、気だるげにうんざりとした顔を覗かせる。
「ねー、何だろうね?」
楓が首を傾げながらまた入口の方に目線をむければ、沙穂もそれに釣られてそちらへと顔を向ける。その間も遥はちゃくちゃくとお弁当を食べ進め、先に食べ終わっていた二人に随分と遅れてようやく昼食を食べ終えることが出来た。
「ごちそうさまでした」
騒ぎには目もくれず無事お弁当を完食した遥が、空になったお弁当箱をちょっと誇らしげに感じながら巾着袋に収めていると、沙穂が感心半分呆半分の様子で小さく笑った。
「カナはマイペースねぇ…」
沙穂はマイペースだと評したが、実のところ遥は特異な事情とそれにまつわる苦悩を抱えているだけに、それ以外の事に関しては極力平穏無事な高校生活を送りたいと考えており、その為危うきには近寄らずを心掛けているのだ。
「どうせボク達には関係ない事だよー」
そうあって欲しいという若干の希望を込めた遥の言葉の通り、やがて廊下の騒ぎは遥達の教室前から遠のいてゆき、騒ぎを見に行っていたと思しき数人のクラスメイト達が妙にはしゃいだ様子で教室内に戻って来きた。
「ヤバいくらいのイケメンだったねぇ!」
野次馬をしていたであろう女生徒の一人が興奮した口調でそんな事を口走ると、連れ立っていたもう一人が「あんな先輩が彼氏ならなぁ…」とその表情をうっとりとさせる。そのやり取りを聞く限り、廊下を騒がしていたのは一年生が普段あまり目にする事の無い、上級生の男子生徒だったようだ。
「なんだ…確かにあたし等には関係無さそうね…」
騒ぎの原因を察して呆れ顔でため息を付く沙穂は、見た目より相性という考え方の持ち主でイケメンにはそれ程興味が無い様だった。
「ワタシはちょっと気になるかも…」
対して楓は男性アイドルグループ等もそれなりに好きで、異性の好みに関して言えば割とミーハーである。
「ボクは興味ないなぁ」
そして男の子としての精神構造を未だに残している遥は、一人の例外を除けば、例えそれが騒ぎになる程のイケメンであろうとも異性としての男には当然の如く興味が無い。
「そういえばさ、カナちゃんってどんな人がタイプなの?」
場の流れで楓がそんな如何にもな質問を投げ掛けて来ると、遥はその一人の例外である賢治の事を思い浮かべてついつい顔が赤くなってしまった。
「カナは好きな人がいるのねぇ」
遥の反応を目にしてピンと来た様子でその表情をニヤつかせる沙穂の言い様に、遥は一層顔を赤くして俯かずにはいられない。
「わっ、そうなんだ! だれだれ? どんな人?」
楓が興味津々と言った感じで身を乗り出してくると、遥はしどろもどろになりながら何と答えたら良いだろうかと考えを巡らせる。
「あっ…えっと…」
賢治の事ならいくらでも語れる遥ではあるが、イケメンに興味が無いと言ったばかりなのに、好き人は背が高くて男前で運動神経抜群でと、そんな絵にかいたようなヒーロータイプの人物像を語るのは些か憚られるという物だ。
「早見…とか?」
遥が考えている間にその顔を一層ニヤつかせた沙穂が上げた名前は、確かに現状遥と最も交流のある男子生徒だが、これには遥よりも楓の方が何やら焦った様子を見せた。
「えっ? そうなの? 早見君なの?」
眼鏡の奥で瞳を見開いた楓が更に身を乗り出してくると、遥は賢治の事を考えていた時とは打って変わって実に冷静な心持ちになる。
「それは無いなぁ…」
青羽は良い奴ではあるが、遥にしてみれば当然恋愛対象になる様な相手ではない。
「そ、そっかぁ…!」
青羽を意識していない事を明確に示す遥の言葉に、楓はどこかほっとした様子で乗り出していた身体を引っ込めた。
「よかったわねぇ、ミナぁ」
沙穂がニヤついたその笑顔の矛先を遥から楓へと移せば、今度は楓が顔を赤らめ俯き加減になってしまう番である。そんな調子で先刻廊下で起きていた騒ぎなどすっかり忘れて、遥達がガールズトークに興じていると、先程教室に戻って来た野次馬の一員と見られる一人の女生徒が三人の元へとやって来た。
「ねえ、奏さん」
女生徒に名前を呼ばれた遥は一瞬びくっと身を震わせ、俄かに緊張して若干ぎこちない笑顔になってしまう。
「あっ、小森さん…、えっと…どうしたの…かな?」
フルネームを小森茜というこの同じクラスの女生徒は、普段遥達三人とは別のグループで行動している事が殆どなので余り話をした事が無い相手だ。そんな相手が突然話しかけて来たので、遥はついつい緊張せずには居られない。
「さっき私、廊下で生徒会長さんに声を掛けられたんだけどねー」
どこかお気楽な調子でそう切り出した小森茜に、何故そんな事を自分に報告してくるのかと眉をひそめる遥だったが、次の瞬間思いもしなかった事を告げられた。
「奏さんに放課後生徒会室まで来るよう伝えて欲しいって言われたよ?」
余りにも急展開だったその話に遥は思わず「えっ?」と声を上げ唖然である。
「あの…ボク…?」
今一つ話が呑み込めない遥の問い掛けに小森茜は「うん」と頷き、最後までお気楽な調子で「伝えたからねー」と小さく手を振り、自分の親しくしている友人達の輪へと戻って行った。
「カナ、あんた何かしたの…?」
小森茜を目線で見送った沙穂が心配そうな面持ちで問い掛けて来るも、思い当たる節のない遥は意味が分からないと首を捻るばかりである。
「何もしてないと思うけどぉ…」
これまで特に何の問題も起こさず大人しく高校生活を送ってきている遥には、生徒会長等と言う立場の人間から呼び出される様な謂れなど全くもって心当たりがない。
「生徒会長ってあの超イケメンの人だよね?」
楓が眼鏡の奥で瞳を輝かせてまた身を乗り出してくると、遥は入学式でちらりと見たかなり人目を惹くその人物像を思い起こす。
「あー…そう…だったね…」
誰かが「王子様みたい」とそう表現した生徒会長は、あからさまに目立つ存在で、明らかに先程廊下を騒がせていた原因だろう。平穏な高校生活を望み危うきに近寄らずを心掛けている遥としては、そのような人物は到底関わり合いになりたいと思える相手では無い。しかし時既に小森茜から伝播したのか、イケメン生徒会長がクラスの女子を名指しで呼び立てているという話は瞬く間にクラス内を席巻し、遥は俄かに注目の的だった。
「はぁ…」
クラスメイト達から好奇の視線を注がれた遥は、これまでのある意味平穏で順調だった高校生活を思い返し深々と溜息を付く。生徒会長が自分を呼び出した理由や目的は全くもって想像もできない遥だったが、ただ先が思いやられる事だけは確かだった。
放課後、小森茜より伝達された生徒会長の要望に応えるべく、遥は指定された生徒会室へと向かって校内を進んでゆく。
「何の用事だろうね?」
遥の右隣を歩く楓が小首を傾げて素朴な疑問を口にすると、反対側の左隣を歩く沙穂も首を捻って思案の表情を覗かせる。
「カナは生徒会長と面識でもあんの?」
頼んでもいないのに付き添う気満々でいる二人を交互に見やった遥は、小さく溜息をついて左右に首を振った。
「入学式で見たっきり、喋った事も無いよぉ…」
何ら接点など無い筈の相手で、しかも生徒会長という特殊なポストに就いている者からの突然な呼び出しはいくら考えてもその理由が分からず、遥としても頭の中に多数の疑問符をひしめかせるばかりである。
「にしても生徒会室…遠いわねぇ」
沙穂は勝手に付いてきたにも拘わらず、中々辿り着かない生徒会室に苛立ちを感じているのか、かなりうんざりとした様子を窺わせた。
生徒会室は遥達の教室がある一般教室棟とは別棟になる特別教室棟に在り、そこへ向かう為には各階に設けられた連絡通路を使って中庭を突っ切る必要がある。その上生徒会室は特別教室棟の四階で、対して遥達一年生の教室は一般教室棟の一階に位置する為、同じ敷地内とは言え赴くのも若干面倒な位置関係だった。
「無理して付いてこなくても大丈夫だよ…?」
そんなに面倒ならば自分一人でも平気だと遥が意思表示すると、沙穂はやれやれといった感じで左右に首を振って遥の肩をポンと叩く。
「何言ってんの、カナ一人でなんて心配で行かせらんないよ。ねぇミナ?」
沙穂から同意を求められた楓は胸前で両こぶしを握って、意気込んだ様子で遥の方へと身を乗り出してくる。
「そうだよカナちゃん! 友達なんだからほっとけないよ!」
どうあっても付いてくるつもりでいる二人の様子に遥はまた小さく溜息をついて、そこまで言うのであれば仕方が無いと、その同行を素直に認めるしかなかった。
「しっかし、ほんと遠いわ…」
付いてくる意志は揺るがない様だが、やはり沙穂は生徒会室までの道のりには不満たらたらである。
「でもあとちょっとだよ」
楓がそう言った様に遥達は既に特別教室棟に足を踏み入れたところで、後は階段を昇って四階まで上がれば生徒会室はすぐそこだ。
「四階とかマジ勘弁してほしいんですけど…」
階段の方を見やった沙穂が殊更うんざりとした様子を見せれば、それに関しては遥も同意する事頻りである。遥の身体は体育の授業にドクターストップが掛かる程度には貧弱で、それ故かつて徒歩で通っていた通学路も今はバスを利用している程だ。とは言え、ここまで来て今更引き返す訳にもいかない。
「行くしかない…よね…」
自宅だって三階建てなんだからこれくらい平気な筈だと、意を決して階段を昇り始めた遥だったがしかし、その想定は少々甘い物であった。学校の校舎という物は一般的な住居に比べ天井が高く設計されている為、当然階段もその分長く作られている。それを四階まで昇るとなると今の遥にとっては中々の重労働であった。
「ハァ…ハァ…」
遥は階段を昇れば昇る程にその三十キロそこそこしかない軽い身体が妙に重く感じられる様になって、息を切らして足取りも鈍り始める。
「カナちゃん大丈夫…?」
三階に差し掛かった当たりで息も絶え絶えでいる遥を心配そうに覗き込む楓は、決して運動神経が良い方ではないが、やはりそこは健康な現役高校生、遥とは違って体力そのものには溌溂としたものがあり階段の昇り降り程度はどうという事は無い様だ。
「おぶったげよっか?」
生徒会室までの道のりを面倒くさがっていた沙穂も体力という点では楓同様余力十分の様で、涼しい顔をして冗談交じりにそんな事すら提言してくる余裕振りである。
「さすがに…それは…ごめん…」
いくらキツイ道程でも女の子におんぶされるのは流石に情けなさすぎると、遥は沙穂の申し出を断り体力を振り絞って階段を昇り続けて行った。結果、遥は生徒会室の前に辿り着いた頃には、呼び出されたその理由や、そこで待ち受けているかもしれない彼是の事など考える余力もなく、ただもうぐったりとして早く帰りたいと、そんな事を考える一方であった。




